繰り返しという言葉は、繰り返し使われる。

繰り返し繰り返し…。

それは、その言葉の本質が反復というところにあるからだ。


今日という日は、今日にあてはめられ使われる。

毎日毎日…

それも、その概念の本質が現在というところにあるからだ。


今日という日は、一瞬しか無い今を連続させた、明確な時間幅を持っている。

すなわちそれは24時間である。

では、23時59分59.000000…9秒から、24時になる瞬間を厳密に言うとどうなるか?

それは今日が2度連続する事になる。

しかし、これを回避するために我々は、今日の前の日を、昨日と定義した。

また、予備されている今日を、明日とも定義付けた。

概念上、繰り返し今日を過ごす事を拒んだ。

呼び名が違う以上、昨日や明日が今日と全く同じであってはならない。

もし、同じままの今日を繰り返し生き続けているものがあれば、それは死んでしまったものと同義なのかもしれない。

しかしどうだろう、死に続けているものなんて無いはずだ。

今を生きると言う動作は何度も繰り返せても、死ぬと言う動作は一度しか出来ないのだから。

それ故、本来、生きる事は現在形もしくは現在進行形で、死ぬ事は過去形なのだ。



同じく反復し、少しずつ変化していく。

ゼクエンツ。

つまり、それこそが生きていく上で最も優れた自然な形態だと考える。



繰り返し繰り返し、少しずつ変化していくのだ。

結晶が一定の法則を守りながら、その形を美しく成長させていくように。