子供向けアニメが超えられない壁 | 私と娯楽と世界

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私が遭遇した、書籍・映像・ゲーム・作品について、感じたことを語ります。

こんにちは、こまめです。

 

今日は子供向け(未就学児・児童)のアニメ(主にプリキュア)について話します。

 

主題は、子供向けアニメの制作者がどれだけ頑張って良いものを作っても、児童の家庭環境が変らない限りは達成したいメッセージは伝わらない、ということです。

 

説明します。

 

前置き

 

まず、なせこの記事を書こうと思ったのかから説明します。

先日、Twitterのトレンドを見ていたら、朝日デジタルさんのこの記事がプッシュされていました。

 

 

タイトルは「脱ピンク 異色のプリキュアが投げかけるメッセージ」(朝日デジタルの無料会員でも全文読めます)。

内容は東映アニメプロデューサーの村瀬亜季さんとのインタビューを一部抜粋したのものです。

インタビューの内容も概ね賛成できるもので、まとめると:

  • ほとんでピンク一色で構成されるプリキュアの主人公のイメージを変えたい
    • ピンクでなくとも、一番目立つ主人公にしたい
  • 「自分の可愛いを信じる」= 自分に自信を持つということ
    • 「可愛いも」人それぞれなので「自分の可愛い」に自信を持つ
  • ニュアンスには特に気をつけており、「◯◯が正しい」みたいな表現は特に避けている
  • 誰かのために戦うヒーローではなく、自分の主張も大事にする
  • 多様性を重んじ、違っていることが自然だということを示したい
    • 人魚のキャラクターがいるが、主人公たちは全く意識しない、など
これらを読むと、プリキュアシリーズの制作陣は視聴者の子供たちに一番伝えたいことが見えてきます。
それは、多様性の受け入れや、自己愛、自己主張の大事さです。これらはもちろんとても大事なメッセージで、プリキュアシリーズの先見の目には感服です。
 
しかし、どれだけプリキュアシリーズが頑張っても影響しきれないことがあります。
 
それは、プリキュアを見ていない時間です。つまり、児童の家庭環境や学校環境です。
 
児童たちの保護者や先生の価値観、つまり子供たちが一番多くの時間を過ごす大人たちの価値観が変わらない限りは、プリキュアが必死に伝えようとするメッセージはあまり効果がない、というのがこのブログで伝えたいことです。
 
まずは、少しだけ自分の子供時代について話します。
 
プリキュアを見て育った私
 
私はプリキュアを見て育ちました。
正確に言えば、2004年(私は当時3歳)に初めて放送された「ふたりはプリキュア」から2009年(当時8歳)の「フレッシュプリキュア」まではリアルタイムで見ており、間を挟んでまた2014年(当時13歳)の「ハピネスチャージ」から2018年(当時17歳)の「HUGっと!プリキュア」までリアルタイムで見ていました。
 
フレッシュからドキドキプリキュアの間の作品(ハートキャッチ、スイート、スマイル、ドキドキ)は後からレンタルして見ていました。
 
中学生になってから見たプリキュアと、児童の時に見ていた時の違いは、(当たり前のようですが)児童の時はほとんど内容を覚えていない、ということでした。
キャラクターの名前や設定(部活動など)は覚えていても、どういう内容だったかはあまり記憶ないということです。さらに言えば、プリキュアを見なくなってしまったのも、いい年齢(でも10歳笑)にもなって恥ずかしいという理由です。
この「恥ずかしい」、という理由見なくなる子供多いのではないでしょうか。
しかし、この「恥ずかしい」と子供に思わせる心理を作るものとは環境です。
親や同級生からの(その同級生もおそらく親から)無意識的なプレッシャー、プリキュアは「子供のもの」という考えを植え付けられた子供たちは、恥ずかしいという理由(見たくないからではなく)で記憶から抹消されているように思えます。
 
恥ずかしいから小学校3年生からプリキュアを見なった私ですが、結局の所中学校2年生でカムバックしました。それでもしばらくは誰にも言わずこっそり見ていました。ですが高校生になる頃には全く隠すようにならなくなり、今やは女児のいとこにはプリキュア博士という認知をされているようです(笑)。
 
つまり何が言いたいかというと、その児童がいる環境の価値観に自分の価値観が形成されていくということです。
そして、この造られた価値観に自分が存在しているということを認識できるようになるには、時間がかかるということです。
子供のうちは親がいうことが全てです、いくらプリキュアが多様性や自己主張について訴えても、これらを否定する環境が変わらないことには、アニメの影響はあまりなく、良いメッセージも記憶の隅に追いやられるのではないのではないでしょうか。
 
もう少し自分の体験談と共に、環境の影響の強さについて話します。
 
同性愛者という概念を認識できてなかった私
 
私は14歳の時に同性愛という概念を知りました。15歳になる、中学校3年生の時でした。
今の私の価値観で考えるとこれは異常なように感じます。
 
その時まで私は、(女性である私が)女性と恋愛できる可能性について、考えたこともありませんでした。
概念の認知なので、「女性は女性と付き合ってはいけない」と考えていた、ではなく、「それはアリなんだ、付き合う人がいるんだ!」という風です(笑)。
 
今の私では、女性以外のパートナーと付き合うなんて想像もできませんが、当時は同性愛者が現実世界に存在しているころすら知らなかったのです。
 
私のこの現象を説明する言葉があります:
コンポルサリーヘテロセクシュアリティ(Compulsory Heterosextuality)です。英語圏ではコンペット (comphet)と略される言葉で、直訳すると、義務的(強制的・規定的)な異性愛という意味です。
要するに異性愛者でいることが標準化されている世の中(特にパトリアキー)を示すときに使われたりします。
 
何が言いたいかというと、コンペットの価値観で育った私は当たり前にように男性と付き合い結婚するものだと思って生きていました。この価値観とは親の価値観から形成されているもので、さらには異性愛が標準的な(そして同性愛やトランスジェンダーなどは異常という表現の)バラエティ番組やドラマ、アニメで固められたものです。
 
しかし、14歳で同性愛という概念を認知し、今までのコンペットにそぐわない「素質」を持っていることを自覚した私は、自己ホモフォビア (internalised homophobia)と自己嫌悪に学生時代は悩まされ、自分自身をなかなか認めることができませんでした。
 
二十歳の私は今、こういうことに悩まされつことも少なくなり、自分を少しづつ認められるようになったと思います。
 
ホモフォビアは生まれ持つものではありません。ホモフォビアは環境から学ぶものです。
これらの感覚が変わる世界になって欲しいですが、まずは大人(特に保護者)から変わることには始まりません。
 
最後に
結局の所、子供のいる環境が変わらないことには、多様性や自己愛なんというコンプレックスな課題を伝えきることは難しいように思えます。
東映アニメーションの大義名分は素晴らしいですが、子供たちの保護者や先生が多様性について深く学び、子供たちの世界に投入しない限りは、プリキュアの多様性もせいぜい一週間に一度30分の、確実的なフィクションなのではないでしょうか。
 
しかし、アニメからでも変わろうとしようとしている世の中は、確実に良い方に向かっていると信じています。
 
今回も長々とお疲れ様です。
 
それではまた!
 
P.S. 
人魚のキャラクターを当たり前のように受け入れて、人との違いが良いことを表現するのはいいのですが、流石に人魚だと現実離れし過ぎなような😥
子供向けアニメでの比喩的表現に反対派しませんが、人魚は流石にわかり難いように気がしますね。。。
例えば障害児や、いっそのこと異性に興味示さないで、同性への興味を自覚し始めるキャラクターを入れたら面白いかもしれないですね🤔