百人一首の阿倍仲麻呂
《天乃原 ふけさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも》
友人が英文で奈良時代の遣隋使で文人 阿倍仲麻呂の生涯について書いていたので、私も調べてみた。
なんてお気の毒な人生だろう。

簡単にまとめると
・19才で遣隋使に選ばれ中国(唐)へ(西暦716年)八世紀 そこで中国の、今でいう難関公務員試験相当する「唐の科拳」に合格し、唐の役人になる。私はこれが余計なことだったのだと思う。国家試験に受かるってことはこの時すでに中国語がベラベラの完璧ってことだ。中国名は「朝衡」。
唐の国で勤勉で有能な役人だったゆえ、18年後…(そんなに長い赴任だったとは…)

・37才他の遣隋使らと日本に帰国しようとするが中国(唐)政府が帰国を許さず(それほど必要不可欠な人材で、愛されていたのだ)一人中国に留まる。

・52才になった時、遣隋使仲間だった真備が日本から再びやってくる。仲麻呂は一緒に帰国したいと願い出る。(どんだけ必死に嘆願したか想像に難くない)中国(唐)の政府もようやく許可し(根負けしたんだ、あの頃の中国人は優しかった…)帰国することに\(^o^)/ヤッター! ---キタ-!!----
しかし唐の文壇界、有名な詩人李白や王維たちは仲麻呂との別れを悲しみ(T-T)『秘書晁監の日本国へ還る』という別離の詩を詠む。

19才で日本を離れた仲麻呂はすでに52才。頭の中は唐人みたいになっていたのではないだろうか。でも(我祖国に帰りたい,母に会いたい、弟に会いたい、僕は日本人だ)

・しかし仲麻呂の乗った船は暴風雨に遭い遭難し、安南(ベトナム)に漂着する。そして再び長安に戻り役人に再就任。帰国することをあきらる。さぞかし凹んだことだろう(T-T)その後ベトナムに赴任され6年間ハノイで総督を務める。鎮南都護・安南節度使(正三品)中国大使のようなこと?日本人なのに?いいかげんだなぁ(笑)

・最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。

結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。

なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣および朝衡(仲麻呂)の二人のみ」と賞されている。また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている。

・73才の生涯を閉じるまで中国(唐)にいました。8世紀の文人阿倍仲麻呂の生涯でした。

仲麻呂の句《天乃原 ふけさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも》
『万葉集』(巻19、4240題詞)からも、遣唐使が出航前に春日で神を祭ったことがわかる。◇出でし月かも 「し」は、過去回想・記憶をあらわす助動詞。作者が月を見ているのは唐においてであるが、その月によって、昔奈良で見た月に思いを馳せている。

これから百人一首をするときはこの句を詠むたびにシューンとなりそう…

主な参考文献 Wikipedia ; http://www.kibiburu.com/abenakamaro.html
小静のブログ 《 路上の宝石 》
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