人はどこから生まれ、何をすべきか、死んだらどこへいくのか

これも、昔々から存在した疑問です。しかし、いくら文明が発達しても、技術が進んでも、宗教以外では答えは永遠にだせません。なぜなら、人を作ったのは本当は誰なのか誰も証明できないし知りようもないからです。(神の存在が証明できれば別ですけどねぇ)
というか、私の考えでは、偶然に(何かの意思が働いたわけではなくして)生物が発生し、進化の過程でたまたま類人猿から人ができたのであるからして、そもそもこういった命題が出ること自体ナンセンスなのですが、でもこういった発想をできるからこそ人間というのはすばらしい、とも思います。
自分の存在に疑問を抱く、または自分の存在について思いを馳せることができるのは、人間だけです。犬や猫は自分がなんでこの世にいるんだろう?とか、来世は人間に生まれ変わりたいなぁー、なんて考えてないでしょう。(きっと考えてないよね)

そういった意味では、「考える葦」である人間はとても興味深い生き物であります。発想と想像こそが人類たる所以なのです。つまり、人類であるが故さまざまな疑問や不安があり、そしてその回答を得るべく、すべては人類の発想と想像力とで「神」、「あの世」「この世」、「転生輪廻」「霊魂」その他さまざまな概念が生まれ、理由付けられたのです。
やがてそれは文書になり編纂されて聖書が書かれ、また類稀なる斬新な発想力と実践力をもった釈迦やイエス・キリストは救世主になることができたのです。

そもそも、誰も人間を作っていないのに、そこに理由を求めないと安心できない。考える葦は悩める葦なのです。(わかります?私のいってること?)

前置きが長くなりましたが、そういったわけで全ての概念は人類の成せる技と考えると、俄然宗教というのはおもしろくなってきます。なってきませんか? こんなすばらしい考えを思いつく人間って、相当な頭脳の持ち主ですよ。単なる有機物の合成でしかない生物が、自分の存在を理由づけるためにこんなことやあんなことまで思いつき、ついには宇宙そのものさえ作らせてしまうのですよ。わかってもらえるかなぁ?

釈迦やイエスがすばらしいのは、これまでにない斬新な発想(妄想)を思いついたことです。これは科学の分野でいえばコペルニクスやニュートンやアインシュタインが考えついたのと同じくらい重大で偉大な発明です。さらに彼らはそれを自分の頭の中だけで終わらせず、言葉にしてそれを後世に残したのはもっとすごいことです。
得てして、斬新な発想(妄想)をしすぎる人は世間から阻害されたり迫害されたりするもんですが、特にイエス・キリストはまさにそれを地でいった人でもあります。キリストは最終的には不幸でしたが、そもそもこういった普通の人が思いつかない空想力、妄想力をもった人はもっと尊重されるべきだと私は思います。つまり、社会基盤がもっともっと多様性を認めるようになっていくべきだと。同性愛や性転換もなかなか認知されないので、まだまだ難しいでしょうけどね。
と、そういった意味で迫害されても最後まで自分の妄想を貫いたイエス・キリストは、長い時代を経てこれだけ奉られるのももっともだと思います。

なお、私的にみればイエスキリストも釈迦も麻原彰晃も、紙一重です。こう書くと思いっきり批判がきそうですが、しかし、彼らは同じく妄想癖がありながら、進むベクトルが少し違っただけで救世主か仏か犯罪者かの違いになってしまっただけ、と考えます。

・・・話が発散してきたのでまとめると、つまり宗教とは、神とは、

を持つ理由を少しお話させていただきたく存じます。これは私の宗教観でもあります。
それにはまず、私の考え方として、今この世に存在する宗教は全て人間が考え出したものである、という根本的な発想をわかっていただきたいのです。

自分の信仰をおもちの方は、それがどういった信仰なのかによりますが、その宗派の教えを完全に信じている人ならば、私の考え方を理解していただくのはとても難しいでしょう。が、理解してもらえないとしても、とりあえず説明しときます。

神はおられた。「光あれ。」そのとおりになった。

旧約聖書創世記の一番はじめには、こう書かれています。ビッグバンのメカニズムは未だ解明されてませんが、神が宇宙を創ったと信じている人はビッグバンは神が起こしたのだ、と考えることでしょう。現在の科学でビッグバンを説明できない、というところに神の存在を間接的に裏付けることもできそうです。

が、私はそう考えないのです。何しろ、神は存在していないと私は考えているからです。はじめに神ありき、ではなく、はじめに人間ありき、なのです。

私の考えでは宇宙を作った「意思」など存在しないのであり、宇宙ができたのも地球があるのも人間がいるのも、私がこの世に存在するのもすべて偶然の産物なのです。理由などないのです。(もちろん、自分が絶対正しいなんて思ってませんよ。私は今現在こう考えている、ってことで。思想は自由ですからね)
逆にいえば、そこに理由を求めるから「神」の存在が必要になるのです。すなわち、人間が「神」を作ったのです。この世の存在、自分の存在を説明するために

科学と宗教の間に相対主義は馴染むか

Ĉu estas ĝusta, relativismo inter scienco kaj religio ?

―― 一九九六年十二月二十日にこの世を去った(だからと言って、勿論あの世にも何処にも居る訳ではない)カール セーガンを追悼して......

私がここで相対主義と言っているのは、 「西洋音楽と邦楽とでどちらが優れているとは言えない」 といった価値の相対主義や文化相対主義などと同じような 用法として、 「科学と宗教とでどちらが正しいとは言えない」というような 態度のことを大雑把に言ってみただけだが、 『「知」の欺瞞 』 などで論じられている認識的相対主義とかは、またちょっと違う 意味合いのようなので、 その辺を確認したい方は、 「相対主義に関するよくある質問 」 辺りを参照してほしい。