フェラーリとは宗教である。真顔(ドヤァ)


今日はフェラーリに乗り初めた新米オーナーが偉そうにフェラーリを語る。


全く同じスペックの国産車とフェラーリが置いてあるとする。新車価格はと言うと国産車は数百万から行っても1000万とか2000万(レクサスLFAはもっとするけど)だが、フェラーリは数千万スタートの世界ゲロー


そもそもの販売価格の差が何であるかは販売側のブランド戦略だったり輸入にかかる輸送コストだったりするのは明確だが、じゃあなんでスペック同じなのに(一部の)消費者はこぞってフェラーリを求めるのか?

理由はただ一つで、「フェラーリ(ブランド)だから」。


「フェラーリだから」と言うのはあまりにも極論だが、私は今ここで論理的に説明できない。これを説明しようとするとおそらく論文一冊かけるのではないか?と言うテーマだと思われる。フェラーリと言うブランドがどのよに構成されているか分解していけば答えは見えてくるはず(探したらそう言う本ありそう)。


なお、デザインがかっこいいから、とか、乗ったらモテそうとかリセールがいいから、とかあると思うが、おそらくそれは「フェラーリだから」それが成り立っているだけであって、「フェラーリ」の価値を構成しているものではない。かっこいい車はフェラーリ意外にもいっぱいある。


意識的にか無意識的にかわからないが、フェラーリのブランド戦略(?)によって世界中にファンが生まれ、フェラーリに憧れ、フェラーリにお金を投じる。おそらく衣食住を投げ打ってまでフェラーリにお金を投じている人も少なくないはず。(自分はこのカテゴリニヤニヤ)


そうした人々(自分も含め)を見ていると、フェラーリはもはやブランドの域を超え、世界中にファン=信者を有する宗教団体フェラーリであると結論付けられる。