■■■第二章 永正の錯乱発生■■■


■■■相関図■■■







■■■この時代の概略・人物説明■■■
(年代:文亀3年(1503年)~永正4年(1507年))

 三好之長(ゆきなが)は、畿内においても細川家京兆家の元で、順調に澄元の執事(主を補佐する役割、家臣の中でもかなり有力。)として活躍。
(現代に置き換えると細川政元が社長、細川澄元が部長、三好之長を部長補佐として考えていただければ。)

 しかし、当時細川政元は実子がいなかったのは前回述べた通りですが、何を思ったのかこの政元「養子を3人」とってしまいます。
 ・1人は既に述べた通り細川澄元。阿波細川家当主、細川之持の弟(政之の次男) 永正4年(1507年)当時19歳
 ・もう1人は細川澄之。公家で関白の九条政基の末子。 永正4年(1507年)当時19歳
 ・最期の1人が細川高国。細川氏の分家・野州家の細川政春の子。永正4年(1507年)当時24歳と他の2人よりやや年長

 細川政元は当時機内最大の権力者であった為、3人も子供がいると…案の定起こります。後継者争い。
事の起こりは永正4年(1507年)、6月23日、細川澄之派の香西元長や薬師寺長忠によって細川政元が暗殺されます。
暗殺の理由は、なぜ澄元が養子にになったのか、という事にも起因します。
元々政元の養子は細川澄之一人だったのですが、二人は折り合いが悪く、文亀3年(1503年)5月、細川澄元を新たに養子に迎えて後継者に迎えました。
すなわち後継者から脱落した事から、実力で家督を奪うべくこのクーデターが発生したわけです。(戦国時代ではよくある出来事。)

平穏無事に行けば後を継げたはずの細川澄之、そして三好之長の運命やいかに…。



■■■第三章 永正の錯乱の終わりと、新たな始まり■■■


■■■相関図■■■







■■■この時代の概略・人物説明■■■
(年代:永正4年(1507年))

 前章の最期で実力行使に出た細川澄之一派は、細川澄元・三好之長の屋敷を攻撃。澄元主従は近江(現在の滋賀県)へ敗走。こうしてライバルを追い落とした澄之は、細川本家(京兆家)家督を継ぎます。

 しかしもう1人の養子・高国は、機内の実力者と図り政元の後継者を澄元と表明し、澄元を支援。ここで、澄之と、澄元・高国同盟軍の対立図となりますが、その決着は早く、高国と、三好之長らは同年8月1日には一気に逆襲し細川澄之の本拠地・遊初軒を陥落。澄之は自害し澄之勢力は滅びます。澄之はわずか40日天下となりました。

 これをより翌8月2日、澄元は将軍に拝謁し、正式に細川京兆家の家督を継ぎました。
しかし、これでめでたしめでたし…で終わる事はありませんでした。
今度は残る2人、細川澄元と高国の対立が始まります。長い「両細川の乱」の始まりです。