夢幻界裡の覚醒

夢幻界裡の覚醒

     ~ 僧侶の毒舌ブログ ~
浄土真宗親鸞会 高森顕徹先生に感謝します。

Amebaでブログを始めよう!

聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり。
故に、たのむということをば代々あそばしおかれ候えども、
くわしく何とたのめということをしらざりき。
然れば前々住上人(蓮如)の御代に『御文』を御作り候いて、
「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」
とあきらかにしらせられ候。
然れば御再興の上人にてましますものなり。
    ~『蓮如上人御一代記聞書』(真聖全三―五七七)



真宗の肝要は「たのむ一念のところ」。


たのむ一念のところ」を間違えたら、

真宗でもなければ、正意の安心でもない。



しかしながら、この「たのむ」という言葉は、
長い間、語り継がれてはいても、
その意味をくわしく知らず、誤解している人が多い。
(飛雲もその1人であろう)


そこで、庶民にもわかるように、
蓮如上人は『御文章』に、


「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」


と繰り返しお勧めになられた。


これは、宗祖聖人の正意の安心を、

修行などできない庶民を相手に、

私どもでも領解しやすいように、

易しい言葉で正確にお示し下されたもの。



この御教義あればこそ、
祖師のみ教えが多くの人に伝わったのであり、
真宗の飛躍的な興隆に、蓮如上人は
大きく貢献せられたと言われる所以である。



言うまでもなく、

「たのむ」とは「一念」のとき。


その「たのむ一念」とは、何をどうたのむ一念なのか、



蓮如上人が、「たのむ一念」をくわしく教えられたのが、


「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」


というお言葉である。



これは「信前」の説明ではない。


「たのむ一念」を解釈されたお言葉に他ならぬ故、


「たのむ一念」のときが「雑行をすてた」とき。


両者の時節は一致することは明白であろう。






”雑行をすてるのは、信前であって、信一念ではない”


というのは、邪説・異安心である。




異安心を、真宗として説こうとすることは、
帽子に合わせて頭を削っているようなものなので、
必ず致命的な間違いが露呈する。


飛雲のブログが、あれほど間違いだらけになるのは、
以前から述べている通り、
御当人が異安心 (詳しくはこちらをクリック) ゆえ、当然の帰結であろう。

致命的というよりも、これは真宗としての致命そのものだ。






「たのむ」という言葉は、
真宗に無知なる人が不注意に聞けば、
誤解する危険性は、極めて大きい。


しかし、蓮如上人の用語例をうかがえば、


  まことに死せんときは、
  かねてたのみおきつる妻子も財宝も、
  わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。
  されば、死出の山路のすえ三塗の大河をば、
  ただひとりこそゆきなんずれ。
  これによりて、ただふかくねがうべきは後生なり。
  またたのむべきは弥陀如来なり。

    ~『御文章』一帖目第十一通(真聖全三―四一八)


「たのむ」は「お願いする」ではなく、
「たのみにする」という意味であることは明らかである。


蓮如上人は、宗祖の御心を正確にお示しなのである。



宗祖は、「たのむ」という用語を、
漢字の「帰」「信」の和訓としてお示しになっていられる。


「帰」については、

本典行巻の六字釈に、「帰悦也」と釈され、その左訓に
「よりたのむなり」と示されている。(真聖全二―二二)


正信偈の偈前の釈には、
「君后に帰して」の「帰」に
「よりたのむ」の左訓を記されている。(真聖全二―四三)


真仏土巻では「帰依」の「帰」に
たのむ」の左訓が施されている。(真聖全二―一二九)


御和讃には、高田本の「讃阿弥陀仏偈和讃」の
「大心力を帰命せよ」の「帰命」の左訓に
「より、たのむ。おおせにしたがう。めしにかなうというなり」
と示されている。(親鸞聖人全集二〇頁)


「無称仏に帰命せよ」の「帰命」にも
同じように左訓が施されている。


また、「信」の意味を「たのみ」と示された用例は、

『正像末和讃』の誡疑讃に、
大経胎化段の「疑惑仏智」のことを
「不思議の仏智をたのまねば」と仰せられ、

「明信仏智」の意を
「仏智の不思議をたのむべし」
と示されている。


『唯信鈔文意』には、
「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信という」
と解釈なされている。(真聖全二―六二一)


宗祖以前の、源信僧都、源空上人のお聖教にも、
「たのむ」という用語が

「たのみにする」という意味で用いられている。



その「たのむ」という言葉は、
どうたのむことなのか、

飛雲のように、間違える人が後を絶たないのである。

そこで、蓮如上人は、庶民にも分るように、
宗祖の御心を明らかに詳しく示されたお言葉が、


「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」


なのである。



「雑行をすてるのは信前」

などという異説は、真宗には存在しない。




信一念(たのむ一念)こそ、


雑行が廃ったときであり、


「われひとり救わん」の弥陀の勅命に絶対服従し、


弥陀の仰せの通り、


後生を弥陀が引き受けてくださった


後生を弥陀に救って頂いた


後生の一大事、弥陀がたよりとなった一念


なのである。



雑行をすてて他力に帰した信一念の信心。


これが、真宗の肝要であることを、


絶対に間違えてはならない。



   南无阿弥陀仏


   南无阿弥陀仏