失敗をして、落ち込んで、反省をしつつ、人生を考える。
そして、開き直り、忘れていく。
人生を考えるとは、本当は自分はどう生きていきたいのか、、ということや、、
でも、どうしても打算、妥協の中で誤魔化して生きていかなければならないとか、、
そういうことを考えるのです。
ということは、失敗は必要なこと、、
というより、実は失敗とは思考が考える思い込みだとも言えるのです。
思いつく過去の失敗を考えてみましょう。
それぞれ度合があると思います。
軽い失敗から、大きい失敗。
先ほどの失敗は思い込みだと書きましたが、おそらくほとんどの人は反論したくなるでしょう。
言いたいことはわかります。
それは大きい失敗の時、、
必ず他人に迷惑をかける現実がある、、といことで、単なる思い込みにとどまらないと考えるに違いありません。
まさにその通りです。必ず関係性のある人になんらかの影響を与えるに違いありません。
でもその人ひとりの要因でその失敗が起こったと考えるのは想像力の乏しい証拠です。
必ずそれが起こるシチュエーションが整った時にそれが起こるのです。
なのでその人ひとりの責任ではなく、そのシチュエーションとなる環境やそれにかかわる関係性のある人に、それに応じて分配されるべきなのです。
でも、そんなことを言っても始まらないので、
その人ひとりで責任をとるという次第です。
そういうことをちゃんと理解して、その責任を背負うのではなく、受け入れて、そしてその事実に則して人生を構築し直していくのです。
重要なことは、軽いものも大きいものも同じプロセスで反省していくということです。
必要なことは、その失敗による結果を組み入れてのこれからの生き方、在り方となる人生を覚悟するということなのです。
そして、それを踏まえて許すのです。
それは自他共にです。
大袈裟なことでしょうか?
いえ、全て同じプロセスを経ると思う次第です。
そして、これ稽古の中でも起こりうる普遍的なことなのです。
このプロセスと中心帰納的考え方とのかかわりはいかに?
修行は続く。