2回目の大阪での講習会の開催日時が決定しました。
2月23日(土)です。
今回の講習会は第1回や東京とは少し趣向を変えて、理の時間を座学として織り交ぜようと考えています。
ご了承お願いいたします。
さて、
この一年、毎月の講習会を中心に、いろいろ内容を組み立てて、初めての方も、
常連の方も何らかの理解が得られるようにと試行してきました。
やってみて、そして続けてみて、
わかったことことがいくつかあります。
それは、
自分の状態、状況はさておき、
まずはオープンマインドでやる、、というとが
必ず何か良い方向に動きが出てくるということが分かったということです。
来られる方達は本当に様々で、感性も様々だということが改めてわかります。
また、それによって起こる自分の反応、反射で、
当然上手くいくことも、失敗することもありますが、そういうことで、自分の癖を観ることができ、自分自身をよりシャープに、余分なものをそぎ落とす作業となっていると思うのです。
僕も含めて、世の皆さんは、
ある領域に達しているだろう先生の技の上手さ、凄さを動画やもしくは評判などをみて、
その武道を習いたいというモチベーションになるのだと思うのですが、
でも、技の凄さや評判もさることながら、
稽古システムの中に、自分の変化をじっくり観ることが出来るスタンスを持っていること
がとても重要に思えるのです。
なぜなら、どんなに先生がすごくても、評判が良くても、伝えられるシステムが上手く働かなければ、習いに行っても、なかなか会得に至らないのです。
そもそも、単純に型に終始してそこに焦点を当てていない可能性もあります。
達している人は、その高みをわかっていて、そこから見える風景のことを説明することはできても、
自分が通ってきたプロセスに関して、忘れてしまったかの如く、それぞれのレベルに応じた稽古をあまり深く考えないのではないのでしょうか。
禅問答のようにさらに難しくしている?ような感じもあるのではないかと思うのです。
そうでなければ、ここまで漠然と、曖昧に、神秘的な感じで伝わっては来ないはずなのです。
成田伝合気道の画期的なところは、
成田先生が平井先生の教えを、自らの手で膨大な量のメモを書き残されて、
それを整理されていることです。
それが何かすごいのか?!
と聞かれるかもしれません。
植芝翁先生がわざわざ東京に呼び寄せた待遇、国井善弥先生との関わり方、大日本武徳会での総合武道としての合気道の設立、成田先生が心酔してこられた状況を考えれば、十分想像できることなのではないでしょうか。
そして、成田先生はその教え通りに精進することで、その心法の高峰に到達されている。
つまり、教えを正しく受け継いで、かつ実現されているということなのです。
そしてそれは、植芝翁先生が伝えるべきだった合気道の本質が、型稽古という大量生産方法を選択したことで歪曲してしまい、実質合気会という大通りを迂回して、成田伝合気道で結晶化した、、そう表現してもおかしくない状態だと思うのです。
このことは、もはや僕にとっては奇跡なのです。
その成田先生が整理された教えを信じて、理解し、再現できるようにシステム化しての稽古を、この無元塾では忠実にやっているのです。
そして、その内容は、思っている以上に現代の心理学や脳科学などでいわれていることと符合するのです。
よく耳にする話で、コツさえわかれば秘伝は、簡単にできるというようなことを吹聴いるわけではありません。
なぜなら、少なくともココの極意である中心帰納や腰回しは、
単に身体操作的なテクニックだけのことを言っているわけではないからです。
誤解を恐れずに、敢えて言うと、
考え方の定義(マインドセット)を変える稽古をしているのです。
現在の我々は、論理的、合理的な知識と思考を得るような教育をされています。
この社会でより優位に競争できるために、それを身に着けるというわけです。
でも、深く考えることなくこの社会に適応するために、ただその教育を受け続けていけば、
自分さえよければいいというような視点が強くなっていくのでは当たり前なんだと思うのです。
そして、適応できなかったものは、どんどん隅に追いやられていく。
暗にそういうことを感じる教育であり、その延長線上の社会になっているのだと思うのです。
ところが、
ここの合気道のやっている技を習得するためには、
そういう考え方とは逆に、
自分だけが強くなるとか、特別な技術に執着して、特別な身体能力を得て、成し得るようなものではなくて、
むしろ、諦めるといいますか、いやただ単に諦めるのではなく、積極的に諦めて、
対立している状況があれば、それを受け入れて、客観視するという心的構造を作っていくことが必要なのです。
そのためには、先程書いたように、じっくり自分を見つめていく作業が必要になってくるのです。
綺麗な形ができるようになりました。
はい、終わり。
というわけではないのです。
いや、むしろやればやるほど上手くいかなくなることを経験していくのです。
一点集中して、その日のみ最高に体調を調整して、勝負をして勝つことではなく、
長い人生を生きて、老化が促進して死ぬ間際までも、常に瞬間瞬間ベストを尽くせる在り方でいられるようにしたいのです。
そしてまた違う表現では、
人々全てが、災難を目の当たりにした時、自分だけが都合よく免れるというような考え方ではなく、
個々が全体の一つとして、自分も災難に遭うことを覚悟して、受け入れていく集団でなければ、いい方向に向かわない、、というようなことが理解できる、そういう考え方をここの合気道は学んでいくのです。
最後結局なんかわけわからなくなってしまいましたが、、、
そういうことなんです。
言いたいこと伝わったでしょうか、、
\(^o^)/