4杯目と5杯目あたりが怪しくなるよね。
トーク番組で、こんな話題を聞いた。
「米を研ごうとカップですくい始めたはいいが、『あれ?いま、3杯目だっけ、4杯目だっけ?』と分からなくなるよね」とのこと。
文脈としては、“普段、家事をしていないオジさんである俺は、たまに手伝おうとするとこんなことになる。普段、家事をしているオジさんであるお前(相方)はどうなの?”といった展開。
実は、“普段、家事はするが、オジさんではない”ワタクシも、常々この想いは抱えていて、“アレ?いま、何杯目だっけ?”という思いをすることはしばしば。自分だけではないと、ちと安心。
番組では“そんなこと、よくあるよ”で済まされていたが、何となくそのメカニズムが気になったりした。
葱、ちょっと考えた。
恐らくは、大人になればなるほど、小さな数字、特にヒトケタの数字をカウントすることに疎くなるのではないか、ということ。
例えば、小銭をイチマイニマイ…と数えることも少なかろう。仮に数えるにしても、2枚ずつ数えてみたり、ざっくりと重ねて、その高さで5枚一組にして計算してみたり。知恵だし、小賢しさでもある。
また、少なくとも学生の間は「○年生」という厳然たるヒトケタ数字で明確に区切られるので、否応無くヒトケタ数字を意識することに慣れっこだ。これが社会人にでもなれば、1年目2年目くらいまでは自他ともに意識するものだけど、それ以降は「それなりの経験年数」で済まされることが多いはず。社会人25年目と26年目の違いって…?
「○年目」を気にするのは、主に吉本を中心とした関西の芸人文化。特にNSC以降に顕著。
そういえば冒頭のトーク番組、「俺ら何年目になるんだっけ?」と言っている関東芸人コンビのもの。その傾向はより一層、拍車がかかるのかもしれない。
結果、大人はヒトケタをぞんざいに扱った上で、感覚が鈍くなっていくのだろうと。
今日この日、“ヒトケタ”から“フタケタ”にケタが上がったものがある。言わずもがな。
時代はそう、10年を一括りの” decade=ディケイド“を単位として動いていく。わずか20年ほど前に”century”という1000年一括りの時代の遷移を経験したワタシたち大人だが、この“ヒトケタ”から“フタケタ”というほんの小さな遷移にも、子ども同様に心を配るべきだ。
“あれ?リンスしたっけ?”ということもあるから、「老化」と言われれば仕方がないのだけれど、10年一括りで区切りなどと称して、今日この日を「風化」させてはいけないはず。
だからワタシは、忘れない。