猫に限らず、動物を病院に連れて行くときには、必須ではないが持って行った方が良いものがある。

 

該当する動物の『尿』と『便』だ。

 

設備の整った獣医ならば、砂で固まった尿からでも検査をしてくれるし、何よりも野良の動物には寄生虫がいることが多い。これは最悪の場合、人間にも寄生するが、虫下しを飲ませればすぐに完治するもので、それほど緊急性はないものだと言える。

 

 車の中、ケースの中のシャカはおとなしいものだったが、獣医に着き、いざケースを開こうとすると、やはり激しく抵抗し、持参した洗濯ネットに入れることすらままならない。

 

血液を採るなど、とてもじゃないが出来やしないと思った。そして獣医からの提案があった。

 

「野良猫の避妊手術で行う方法なんですが……、麻酔を嗅がせて全てを完了させる方がいいかと思います。このままじゃこの子にとってもかなりのストレスにもなりますし……」

 

 その提案に僕は迷った。動物の全身麻酔は確かに人間にとっては楽なのだが、常に低確率でそのまま起きないという危険性が付きまとう。

 

余談だが、たまに全身麻酔で歯を磨くなどと提案してくる獣医もいる。僕の近所の獣医がそれだった。その時に、『全身麻酔の危険性』についての説明がなかったので、それについて尋ねたが、「二十年以上やってますが、そんなことはない」との回答。僕はその獣医と喧嘩になり、もう二度と行こうとは思わない。やたらとステロイドを処方する獣医にも気を付けてほしい。

 

 

そんなこんなで獣医を模索した結果、今ここにいる獣医が最高だと判断し、ウチの子の体調が不安なときはいつも車で一時間以上掛けてここまで来ている。年中無休、一月一日でも開いているこの獣医がそう言うのだ……。僕は迷った挙句

 

「では……、どうせ麻酔をかけるのであれば、ついでに去勢手術もお願いできませんか?」

 

 と尋ねると

 

「本当は日曜日に手術はやってないんですが、いいですよ。それなら麻酔も一回で済みますしね……」

 

 と無茶な要望にもちゃんと対応してくれた。

 

全ての検査と、ついでに爪などを切ってもらうことを頼み、あまりの体調の悪さ、眠気に、迎えの時間まで寝ようと思っていたが、ちゃんと麻酔から目が覚めるだろうか、上記の三つの病気を持っていたらどうしようか、と考えると、眠ることもままならない。

 

とにかく心配と不安に押しつぶされそうになっていた僕に、予定時間よりもかなり早い時刻に電話が鳴った。

 

まさか……、と絶望感にとらわれたまま電話に出る。

 

嫌でもアスラのことが頭に浮かぶ。

 

こんな絶望感と共に電話に出るのはアスラのとき以来だ。

 

 

「はい……」

 

 

暗い気持ちで電話に出た僕に、

 

「シャカちゃん。病気の方も虫の方も大丈夫でした」

 

と、良い返事。僕は目の前が明るくなったように、

 

「え!?はい!良かったです。ありがとうございます!」

 

と返事をしたが……。

 

 

「ただ……、避妊手術は……できませんでした」

 

(何か別の問題があったのか……?)

 

「え……、何か……ありましたか?」

 

と聞き返すと

 

「はい……。シャカちゃんね。受胎してたんですよ」

 

「え!?」

 

小柄でスリムだったシャカが妊娠中だった!?思いもよらない結果に僕は絶句した。

 

(マジか……。そう言えば最近、太って来たと思ったが……、子どもがいたのか……

 

「今の内なら堕胎させることも出来るんですが……、多分、そんなことは言いはらないだろうと思いまして……、こうして連絡させてもらったんです」

 

突然のことに僕の頭は何も考えられなかった。疲れ切った空っぽの頭でも

 

「もちろんです!そんなこと絶対にしない。ありがとうございます!」

 

と即答した僕は、自分がそういう存在であることを認識し、そして……褒めてやりたいとも思った。

 

 

 結局、爪を切って、ノミの薬を付けただけで、何もしなかったので、いつ迎えに来ても良いとのこと、僕は節々が痛む体を引きずり、すぐに獣医に向かった。

 

獣医の見立てでは、シャカは推定一歳~二歳ほど、雌猫で、最低でも二か月以内には出産するだろうとのこと。僕はずっと猫と共に生きて来たが、出産に立ち合うのは初めてだった。

 

 帰りの車の中、ケースの中ではおとなしくしているシャカへ

 

「お前……、妊娠してたのか……。びっくりしたよ。ってか女の子だったのか……。すまない。かなりのストレスをかけてしまったな……。でも元気な子を産んでくれよ」

 

 ストレスを掛けてしまった僕が言うのもナンだが、妊娠中にストレスは大敵で……、特に人間に追い回されたりするストレスなど最悪と言ってもいい。

 

流産しないだろうかという一抹の不安と共に僕は家に急いだ。

 

 

 獣医が言うにはレントゲンではまだどのぐらいの数の子どもがお腹の中にいるのかまでは、はっきりしていないらしい。つまり、まだ妊娠初期の段階ということだ。

 

ならば……今ならば……、まだストレスに耐えられるのかも知れない。

 

(アスラ……。今日の朝、お前が現れたのはそういうことか……)

 

家につくと同時に、シャカをいつもの部屋に話し、彼女はいつものお気に入りの場所に隠れた。

 

 

 

そして……、本来ならばそっとしておくべきだとは思うのだが、ストレスに耐えられるかもしれない内に、僕にはしなければならないことがあった。

 

この状況ならば、シャカは子どもが生まれ、最低でもそれが離乳するまではこの部屋にいることになるだろう。どうしても清潔さが必要だと思った。

 

 

疲れた体に鞭打って、僕は筋トレ部屋の掃除を始めた。障子を張替え、掃除機をあて、アルコールで畳や蜘蛛の巣が張っていた地袋を除菌し、とにかく倉庫のように汚れていた部屋を掃除した。

 

やはり掃除機は怖いようで、彼女は距離を取っていたが、出来るだけ追い回さないようにしながら掃除した。かなりのゴミが出たが、障子を張り替えるとかなり綺麗になったように思える。

 

「よし!シャカ。綺麗になった!しばらくはここで暮らそう。そして元気な子どもを産めよ!」

 

と、落ち着いた後、また寝転んでご飯をやると、彼女は嫌がらずに食べてくれた。

 

 

 

長い日曜日だった。疲れ果てた僕は、そのまま風呂に入り寝ることにした。

 

翌日、仕事があることを信じたくはなかったが、そんなことよりもシャカが病気を持っていなかったことが何よりも嬉しくて、僕はぐっすり眠れた。

 

 

 

 そして翌日、シャカの部屋の扉を開けると……昨日張り替えたばかりの障子は見事なほど、その全てが……破られ、引き裂かれ、廃屋のように……。

 

 「シャカ……」

 

 (ああ……そうか。形あるものは全て壊れる。障子を綺麗にしたいなんて思うのが、所詮は人間のエゴで間違っているんだ。最初から障子に綺麗さを求めるからこんな目に合う。ウリのとき((怖い話)『貞子実在の可能性』 | 先生の本当にあった怖い話 (ameblo.jp))に悟ったはずじゃないか……)

 

「シャカ……。忘れていたよ。君は諸行無常を教えてくれているんだね……」

 

 僕は障子を諦めた。そう言えば上階の障子はとっくに諦めていて、我が家の窓は廃屋と大差ない。

 

 

 だが、それは……一つの幸せの形でもある。このボロボロの障子こそ……皆と一緒に生きる僕の、目に見える幸せの証……。

 

 

 

続く……