「アスラ……、かえって来て……くれたのか……」

 

流れる涙を止めようともせず、そのまましばらく呆然と立ち尽くしていたが、やっと彼の入った檻に近づくと、

 

「シャー!!」  

 

と激しく威嚇してくる。まず彼が入って来た窓を閉め、

 

(まぁ、確かに野良ならそれが普通か……)

 

頭を切り替えて、バイク用のグローブをつけ、檻の入口を開けた。すぐさま飛び出した彼は、開いていない窓にぶつかった。

 

「おいおい!大丈夫?」

 

と心配したが、

 

(まず、やらなきゃいけないことは……)

 

と、過去に先住猫が好まなかった猫用のトイレを引っ張り出し、砂を敷いてトイレを整えた。

 

猫のトイレトレーニングが大変だと思っている人がいるが、基本的にこれだけで問題はない。彼らもしやすい場所でするのだ。最初の内は多少オイタをするだろうが、すぐにトイレでするようになる。

 

次に餌だ。野良猫ならかなりお腹は空かせているはずだ。

 

すぐに僕は水と、猫用のドライフードを皿に盛り、持って行ったが、アスラは部屋の隅、もともと倉庫のようにして使っていたこの部屋の物の間に隠れ、皿を持って行っても食べようとなどせず、隙を見ては部屋の天井まで壁を上る始末だ。

 

(とりあえず今日の内はそっとしておくか……)

 

と、僕は部屋を後にした。

 

 

仕事前、全ての税務処理を後回しにして、ペットショップに行った。

 

野良猫は栄養失調になっていることが多い。だから僕はあえて仔猫用のレトルトフード、そして……

 

(チュールか……、いけるかな……)

 

 と、不安に思いながらも特売だったチュールを買った。

 

ここで気を付けて欲しいことがある。猫に関わらず、動物用の餌には一般用と総合栄養食という二種類がある。

 

一般用は、人間でいういわゆる『お菓子』という間食であり、ご飯ではない。だからそれのみで育ててしまうと、栄養の偏りなどから不幸な結果となる。

 

必ず総合栄養食と書かれている物をメインに与えることを忘れないでほしい。

 

 

 

 その夜、仕事が終わってから飛ぶようにして家に帰った僕は、出来るだけ静かに部屋の扉を開けた。部屋の中を見回すと、アスラは窓の近くに置かれた、ランニングマシンの隅に隠れていた。

 

 

 

 

 

駆け寄りたい気持ちを抑えて、まず確認すべきことは、ご飯が減っているか、トイレはしているか、の確認が先決だ。

 

ご飯は減っていたが、トイレは……置いてやった猫用のトイレの横、粗大ごみの日に捨てようと置いていた座椅子の上でした跡があった。

 

(良かった。とりあえずちゃんとしてるなら問題ない)

 

 と、僕はその粗相の上に猫用のトイレを置いた。

 

(さて……)

 

 と僕はアスラをまじまじと眺めた。この際、気を付けなければならないことがある。

 

野良猫相手に目を合わせてはいけない。これは人間と同じ、いわゆる『ガンを飛ばす』ことに他ならず、ケンカの始まりの合図だ。まずは目を合わさないように彼の模様や顔の形をそれとなく確認した。

 

(見れば見るほどそっくりだ。でも、アスラよりはちょっと小柄で目の色は違うか……。昔の……若いころのアスラにそっくりだが……、顔はちょっとこの子のほうが丸い)

(アスラ)

 

僕はこの子が大体半年から一歳までの中ネコだと判断した。

 

だが、とにかく野良というか野性味が強い。基本的に僕は犬や猫、虫や鳥にさえ威嚇などされないのだが……。

 

とにかく僕とは一定の距離を取る。そしてゆっくりと餌を顔に近づけようとしても、猫パンチで叩き落とす。

 

触れるなどもってのほか、チュールにしろ、何にしろ、近づけることも、写メを撮ることも出来ない。

 

猫の本気の威嚇は『シャー』ではなく、『プッッ!!』と、細かく息を飛ばすのだと御存知だろうか?そんな感じで何度かグローブを貫通するほど噛まれたが、僕の辞書に諦めるという言葉は無かった。

 

(そう言えば、昔、アスラと出会ったとき、あの時は塾の周辺だったから、グローブなしの素手を思いっきり噛んでくれたよな……。おかげでしばらく左手の薬指が動かなくなったっけ)

 

 今回はグローブを装備しているから問題ない。それでも血は出たが……。

 

「いいよ。好きなだけ噛んでくれ」

 

 と言いながら、僕は彼にご飯をやろうと努力していた。

 

 

 

そのまま5日たった。筋トレ部屋の壁はひっかき傷だらけ、障子の和紙は完全にボロボロになったが、

 

(幽霊の出そうな廃屋みたいだな……)

 

と、むしろ笑えた。

 

僕は塾に行く前と帰った後、一日二回部屋を訪れ、彼にご飯をやっていた。

 

トイレに関しては、彼が家に来てから二日後には自分でちゃんとするようになっていたし、ちゃんとご飯も食べるようになっていた。

 

僕はその部屋で筋トレする時間が多くなった。とにかく彼と同じ空間にいようと努めていた。

 

猫は上方から接してはいけない。威圧感を感じるからだ。

 

だから、その頃の僕は……、床に仰向けに寝っ転がって、とにかく自分の視線を彼よりも下にする努力をしていた。はたから見ると滑稽に見えるだろうが、それが彼に一番接近できる方法だった。そして……、

 

(あ!?)

 

初めて彼がチュールの袋に猫パンチをしなかった。食べようとはしないが、物珍しそうに、臭いを嗅いでいる……。

 

(チャンス!!)

 

 と思った僕は、すぐに内容物を押し出し、彼の鼻につけてやると……、猫の習性で、鼻を舐めた。彼の目が丸く開かれる!そして

 

(チュールを舐めはじめた!!)

 

 

 

 食べ方がわからなかっただけのだ。彼はすごい勢いでチュールを噛み始めた。

 

距離が縮まった瞬間だった!!それでも僕がチュールを絞ろうと、両手を使うときには「シャー」と言って後退する。

 

だが、今までならそのまま身を隠そうとした彼は、その場でこちらを伺い、僕がまたチュールを差し出すとまた食べ始める。

 

音を立てて、僕が……、僕の心が……生き返る……。

 

 次の日も彼はチュールを好んで食べてくれた。ゆっくりとチュールを引くと、それに釣られて彼も前に出て来る。

 

僕は上半身だけが仰向けで、下半身は横向きだったので、腰が痛くなった。

 

だがその甲斐はあった。通例、野良猫が慣れるまでは数ヵ月から数年を覚悟しなければならない。

 

生粋の野良猫はこちらから手を出しても絶対に触らせてくれないし、無理矢理それをすると大怪我をする。

 

ならば……向こうから触れるように仕向ければいいのだ。

 

僕は左手でチュールを持ち、右手の平を上に向けて床におき、ゆっくりとチュールを右手の方に移動させた。

 

そして……ふとチュールが自分の右手の上に垂れたとき、彼は僕の右手を舐めた。暖かい感触と幸福が僕を包む。

 

 

 

それから二日もかからなかった。

 

彼が僕の手からチュールやその他のご飯を食べるようになったのは……。

 

 

 

 

 

 

 

「さて……、そろそろ名前を付けないと……な」

 

僕の手からご飯を食べる彼にそう呼びかける。やはり僕が声を出すとまだ怯えた仕草を見せる彼に

 

「アスラでもいいんだが……、それをすると本当のアスラが可哀そうな気がして……な。忘れるわけなんか無いんだが……」

 

彼は食べるのを止めてこちらを見ている。おそらく怯えているのだろう……。

 

「そう言えば……君は男の子なのか?女の子なのか……?」

 

今までわからなかったから、この子のことを『彼』という代名詞で表現していたが、果たして男の子なのだろうか?

 

 

 

それでも彼の名は既に決まっていた。

 

 

そう……、彼に出会うずっと前……、今から八年前、僕はアスラに名前を付けるときに二つの名で迷っていた。

 

昨日のことのように覚えている……。

 

「そう、君の名は……、『シャカ』だ」

 

 

アスラの……二つ目の名前ならば、そう呼ぶ度に思い出す。

 

僕にはアスラという、彼に似た愛する猫がいたことを……。

 

「シャカ……。これからよろしく……」

 

と、頭を触ろうと伸ばした手を、このときだけは嫌がらなかった。

 

 

 

だが、その翌日以降、調子に乗って手をのばした僕は、シャカの、世界を狙えるような凄まじい黄金の右ネコパンチを食らうことになるのだが……。

 

続く……