終戦に関係する記事で、こういう記事は逆に珍しかったので



ここに紹介します。



コメ欄にご感想をお聞かせ願えればと思います。。。。。





_____________【from Editor】フルシチョフの良心______________


2010.8.29 07:32


 1956年2月、第20回ソ連共産党大会でフルシチョフ第1書記は激しい調子でスターリン批判を行った。すると代議員席から「スターリン時代、お前は何をしていたんだ」とやじられた。フルシチョフはすかさず「今のは誰だ」と怒鳴る。やじった本人は黙って下を向いてしまった。フルシチョフは「私はスターリン時代、今、やじった男のようにしていたのです」と語ったという。

 ことしも8月15日をはさんで、新聞、テレビが数多くの戦争関連の記事、ドラマ、特集を流した。終戦から65年の節目とあって、例年より多かったようだ。そのすべてではないが、できるだけたくさんの記事を読み、番組を見るように努めた。そして、ことしもまた、大きな違和感をもった。

 違和感は2つある。1つは登場する多くの人々が「戦争はいけない」「どんなことがあっても平和が第一」と声をそろえていることだ。だが、「戦争はいけない」と叫ぶことは、どこかに「戦争はいいこと」と叫ぶ者がいて初めて意味をなす言葉である。いったい、いまの日本のどこに「戦争賛成」「戦争をやれ」と叫んでいる人がいるのだろうか。戦争反対に異を唱える者などいない。それよりも「なぜ戦争をしたのか」、あるいは「戦争にならないようにするにはどうしたらいいのか」を問いかけることの方が意味があるのではないだろうか。

 もう1つは、当時を知る多くの人が、「戦争に駆り出された」「拒否できなかった」「いやいやだった」とインタビューなどで答えていることである。もちろん、そういう人もいるだろう。それでも、こう口をそろえられてしまうと、そう言わされているのではないか、あるいは、そう言う人ばかりを集めたのではないか、とさえ考えてしまう。出征した人の多くは「国のため」「家族のため」「愛する人のため」「アジア解放のため」に、苦労を承知のうえで勇んで戦地に赴いたのである。

 それを「騙(だま)されていたのだ」という人も多いが、それなら、現代のわれわれも誰かに騙されていないといえるのか。

 戦後、「実は私は戦争反対だった」といい子になる人はどこにでもいる。しかし、それは、当時「聖戦」を信じて戦った人を侮辱することにならないだろうか。自身は安全地帯に身を置いて、後付けの議論で過去を断罪することは誰にでもできる。われわれはせめてフルシチョフなみの良心をもちたい。(編集委員 大野敏明)