ピアニスト・シンガーソングライターの海賀千代(かいが ちよ)です。

 

「なぜ音楽家になったのか?」の続きです。

 

今回は音楽の素養について少しお話したいと思います。

 

父母が離婚して祖母と母に引き取られ、祖母の和裁仕立てと母が営む洋品店(今でいうブティック)でなんとか生計を立てていたようです。

 

音楽の素養でいうと、祖母は三味線、母は若いころ琴をたしなんでいたようですが、残念ながら生前に二人の演奏を聴く機会は一度もありませんでした。

 

ただ、和楽器の流れからか、5歳の頃からピアノを習い始めるまでの約1年あまり、花柳流の日本舞踊を習わせてもらっていました。

 

和楽器の音に合わせて舞いをすることはとても楽しいものでした。裾弾きの着物を着たくて仕方がなくて、初めて舞台衣装で身に纏ったときはあまりにずっしりと重かったけれど、それ以上にテンションが上がりました。

 

今思えば、その頃決して裕福ではなかったはずなのに、6歳のときに舞子さん役で地方(じかた)さんがついてくださるような大きな舞台を踏ませていただけたのは奇跡に近かったのかもしれません。よく習わせてくれたなと思います。

 

祖母も母もあまり後先のことを考えず、「とにかく今が大事!」という教育方針だったようです。


 

6歳のとき






 

  

 

花柳界への憧れは今でもあって、京都で舞子さんや芸鼓さんに出逢うと妙にワクワクするのは、この頃の思い出がフラッシュバックするからかもしれません。

 

 

京都・宮川町のお茶屋さんにて舞子さんと

 

 

祖母は厳しい人でしたが、忙しい合間をぬってよくお稽古に付き合ってくれて、さらさらと達筆な文字でメモした振付をもとに毎日家でお稽古をしていました。

 

老人会での舞踊披露の後、祖母との一枚

 

 

 

音楽の素養というものがもしあるとしたら、幼少の頃学んだ日本舞踊のお蔭で、和の心と音やリズムを身体で覚えていくきっかけが自ずと身についたことかもしれません。


 

<続く>