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末期がんと医者に言われました。

 

どうしましょうか・・・?

 

だいたい、帰ってくる言葉は

 

とりわけ、日本人は死を逃避している傾向が

強いと言います。

 

世界中の「死」に関連した文化・伝統。

死生観を考えさせられる一冊でした。

 

 

<こんな人、読んでみては?>

・自分の死を想像したことはある、

けれども死んだ後の処理なんて

考えたことない。

・大事な人が死んだとき、自分は

どんな気持ちになるんだろう?

どうやって受け入れていくんだろう?

~流れ~

父親の死を受け、著者の頭に

疑問が浮かぶ。

 

人間はどのように仲間を見送るのか

有限な命の存在である自らにどのように向き合うのか

 

世界を巡りつつ、様々な「死」の

文化と出会います。

 

9か国を巡りますが、

ここではいくつかをピックアップしてみます。

 

  1. 泣くとは?悲しみとは?(イラン)
  2. 燃えるパレード(バリ)
  3. クレイジーな棺(ガーナ)
  4. 銀紙のテレビ(中国)
  5. 遺るもの、それは骨(チェコ)

 

~あらすじの深掘り・無知医の心中~

1.泣くとは?悲しみとは?(イラン)

 

大切な人が亡くなれば、悲しいです。

ではなぜ、涙が出るのか?

 

古代から、泣くことは精神の浄化作用と考えられた。

ダーウィンは、泣くことは苦しみを軽減する方法であると結論付けた。

 

この考え方は今日にも生きており、

 

「泣くことは有益か?」と名付けられた研究において、60-70%の回答者が、緊張の緩和から安堵感にいたるまで、有益な効果が得られたと報告している。

 

そんな科学的な見方があるとは・・・

とはいえ、涙は当事者にとって感情面でしか

語ることはできません。

 

そして

この感情は政治利用されることもあり・・・

 

例えば、著者がイランを旅した際の出来事。

 

預言者ムハンマドの孫、フサインの死を

追悼するアシュラというイベント。

 

フサインの死はシーア派とスンニ派の

分裂を決定づける事件となった。

 

毎年、国をあげての大イベントです。

 

全ての人びとを結び付け、悲しみとともに共通の敵に対する怒りを共有させる。

これほどまでに強固かつ極端なものは他に存在しない

もはや教育レベル・・・

いや、宗教の一体感のためには

必要なイベントなのでしょう。

 

 

当然、逆もあり、

それがキリスト教圏

 

公然と荒々しく感情を表現することは、権力側にとっては社会に動揺をもたらすと考えられたのである。

棺にすがる女性を鞭で追い払うことまでしてみせた。

 

 

感情が制限され、利用される社会が

あるとは・・・日本では想像しがたいです・・・。

 

 

様々な感情による乗り越え方がある中、

著者は次のようなヘブライ語の古い

ことわざを好む。

亡くなったことを嘆くよりも、生前に個人がしてくれたことに感謝して生きる

先立たれたものは「厳粛さや悲しみを無理に装ってはならない」、そうではなく「ともに笑いあったような小さな冗談に、変わらず同じように笑うべきであろう」

 

死に対して、陽気に受け入れるというのも

素敵な考え方ですね。

 

2.燃えるパレード(バリ)

 

日本の葬式って、粛々と進行する

厳かなものです。

 

ただ、バリでは違うようです。

 

バリ人のいちばんの楽しみと言えば火葬儀礼である

バリ島の葬式が旅行客を集めている

死は要するに、大人気の客寄せである

 

不謹慎、という思いが浮かぶのは日本人の

ものさしで考えるからでしょう。

 

ただ、死してなお収入に寄与できるなら

自分だったら悪くないかな笑

 

彼らは葬式を幸せなものと解釈する。

 

大きな神輿の中に遺体が納まり、

それを観衆の中で盛大に燃やすという

儀式です。

 

例えていうなら・・・ねぶた祭とか、

ディズニーのパレードが火事になっているような

感じですかね笑

 

魂を天上のパラダイスへと―――栄光ある始まりへと―――送り届ける

 

ヒンドゥー教の「輪廻転生」を表現している

のだそうです。

 

死を祝福してすらいるのです。

 

3.クレイジーな棺(ガーナ)

 

棺って、何でしょうか?

私かは、これまで遺体を入れるものとしか

考えてきませんでした。

 

ところが、

ガーナでは違うようです。

 

世界一クレイジーな棺を作る

 

ベンツ、鍵、ビールのボトル・・・・

 

んん??

 

一番の変わり種は、ある医者のために作った巨大な子宮だ。

 

・・・いかれている。

 

多くの場合、それは、彼らの人生と結びついたもの

この世でやってきたことを死後に続ける

 

やはり、これも死後の世界に何かを期待した

表れでしょう。

 

 

そして、著者は自分の棺を作りました。

 

エンパイアステートビル

僕は・・・ガンダムにしようかなぁ。

 

4.銀紙のテレビ(中国)

 

おおかたの人は、死んでしまえば何一つあの世に持っていくことはできない。

 

ごもっとも・・・。

 

しかし、中国では何でも持っていけて

しまうようです。

ここでもまた死後の世界を期待することで

死と向き合うのでしょう。

 

ここは祭祀用品店。テレビやリモコンをはじめとして、すべて中国人が亡き親族に手向けるために用意されている。

燃やされ、黒い灰となって先祖の魂を楽しませるためにあの世へと―――

 

始皇帝の兵馬俑も同じ発想です。

 

始皇帝は永遠に生きたいと切望していた。

 

僕らも、墓参りの時に飲み物とか、おはぎとか

手向けます。お供え物って、やっぱり死後の

世界ありきの文化だと思います。

 

5.遺るもの、それは骨(チェコ)

 

著者が、母親とこれから遺灰を

撒きに行くシーン

 

はたして父がどれほどまで、骨壺の中身である厚手ビニール袋に詰められた、白みがかった灰色の粒子のうちに認められるのだろうか。

そこに彼の魂があるとは考えていない

 

これは著者がチェコのセドレツ納骨堂

でおびただしい骨の芸術作品を

見た時の感想と共通する。

作品となった無数の骨は生前の

人物を手繰る証拠を持たない。

 

 

誰も答えてくれない疑問が

あるのですが・・・

なんで、骨や髪の毛のように

死んで長い月日が経っても

残ってしまうもの

があるんでしょうかね?

 

バカみたいな考えですが、今後多くの

骨を持った生物が死んでいけば地中は

骨だらけになるのでしょうかね?笑

 

こんな説があるようです。

 

「湿った」遺体は腐敗に伴って共同体の一員としての資格を失い、世界の狭間を漂う存在になる。肉体が徐々に骨から分離してゆく期間における霊魂は、死者の世界との中間領域を足止めされ彷徨う存在である。やがて肉が削げて「乾いた」骨の状態になることで、霊魂は「拘束」段階を終えて死者の世界に入ることができる

 

まぁ・・・スピリチュアルな理由を

こじつけるしかないでしょうが。

 

ただ、こんな見方もあります。

 

1970年に起きたエルサルバドルの

内戦で多くの死体が見つからなかった

一件を受け

 

遺骨があったということは、ついに彼らの葬儀をあげることができることを意味する

「死亡したと推定」することは「死亡したと確認される」こととは全く異なる。確証を得ていないのにもかかわらず別れを告げることは、死者を見捨てたとの罪悪感を遺族に抱かせるのだ。

 

物質として「死」の証拠があることで

改めて「死」を実感できるんでしょうか。

 

よく、幼女が行方不明になる事件

ありますよね。

 

捜索中って不確定な時間が流れて、

家族にとっては地獄のような時間

なんじゃないでしょうか。

 

3日たっても見つからない。

生きてはいないだろう、けれど・・。

 

そう、死んだことにもできない。

 

遺体で発見された時、それは絶望が

現実となる時。

けれど、その中に何とも言えない

安堵もあるのではないでしょうか。

 

お疲れ様、頑張ったね、と。

 

~感想・今後に向けて~

 

様々な国が、様々な形で「死」を受け入れる

様子を教わりました。

 

共通することが、

死後の世界

 

この世界の存在を肯定することが、

死を受け入れる一つの手段になったのです。

 

19世紀のドイツ貴族のコメント

「来世への望みなしには、この世で朝起きて服を着る意味すら失せてしまう」

んー、悲観的過ぎるような笑

きっと時代背景が悪かったのかもしれません。

 

とは言え、儒教のように死後の世界は

存在しないという考え方もあります。

 

しかし、この世界で行ったことは、死んだら

リセットです。

ゲームみたいに強くなった状態で

2周目なんてできませんよね笑

 

だから、例え死後の世界を肯定しても

今の人生は大切にしたいものです。

不幸でも、理不尽でも・・。

 

人間存在の中心には死に対する潜在的な不安があり、文化や遺産、行動の多くを動機づけている。

人間行動の背景には士への意識が大きな原動力としてある

 

終わりあるから、こそ行動している。

 

どれほど熱望したものであっても無制限に供給されるとなるや魅力を失う。

終わりがあることで、すべてはいっそうに美味になる。人生は限りがあるからこそ、いっそうかけがえがない!

 

沁みるなぁ。

 

 

―――

話は変わりますが、

職業柄、多くの人を看取ります。

 

 

誰も身内がおらず、誰もいない部屋で

死者に向かって死亡確認を告げたこと。

 

 

「なんで行っちゃうの!

ずっと一緒だったじゃない。」

と叫ぶ奥様に対して死亡確認を

したことも。

 

 

「親父、ありがとう!」

「おとうさんありがとうね」という言葉の中、

自分も泣きながら看取ったことも

ありましたね。

 

 

色んな最期を見ていると、こんな感じが

いいなーとか思うことがあります。

別れを惜しまれるよりかは、

感謝されながら去りたいな、と。

 

 

高齢者の人口はまだまだ増えてゆきます。

思うのですが、医者の仕事は、病気を

治すだけでなく、死が迫った人、そしてその家族が

受け入れられる準備を手伝うことでもあると

思うようになりました。

 

そんなときって、薬に頼れないので、言葉が

重要なんです。

 

人は死にます。

けれど、受け入れられない。

そして、治らないと医療のせいにされることもある。

 

 

この矛盾を、ギャップを合わせていけるような

医者になりたいものです。

 

 

まだまだ、読書は続きます・・・

 

 

 

参考・引用 サラ・マレー 死者を弔うということ 2017年10月 株式会社 草思社