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第一話②

「大ちゃん、分かったよ!」
 やっと病院までの道のりを調べ終わったらしく、純は元気よく言った。空を見るとポツリ、ポツリと雨が降り始めている。
「よし、じゃあ急いで行くぞ」
 学生鞄を傘代わりにして走る純の後を、同じく鞄を掲げた大地が追いかける。今日はこの街に来るように誘ってきたのは純だ。山木が入院したと聞いて、お見舞いに行こうと言い出したのだ。ただ、肝心の山木の病状を聞き忘れている所が彼らしい。大地は一緒に行くか迷った。山木を嫌っているわけではないが、中学時代のことを思い出したくなかった。だけど、いつまでも引きずっていたくはないし、吹っ切るにはいい機会に思えた。そのためには、山木に会う。別に言いたいことは何もないが、とにかく会わなければいけない気がした。
 大地は久々に走った。雨が降ってきたからではない。早く山木に会うためだ。そして新しい自分になるために。だから走った。途中で、純が雨に足を取られて二回ほど転びそうになったが気にしてなんていられなかった。思ったより早く病院に着いた。玄関前の屋根の下に入ったとたんに雨は強くなり、完全な土砂降りに変わった。
「ひゃー、ギリギリだったね」
 さらさらした黒髪についた雨水を払いながら純は言った。誰のせいだよと、突っ込んでから大地は院内を覗き込んだ。何故か院内の明かりは全て消えている。
「本当にここなのか?」
 大地の質問に純は自信を持って返答した。
「だって、地図のとおりに来たんだよ。それに看板だってほら第三……」
 最初は自信に満ちていた返答が、看板に目を向けてから急に弱くなる。黙ってしまった純の視線を追って、大地は看板に目をやった。
『第三病院』
 何だ、間違ってないじゃないかと、言おうとしたが、言葉が詰まった。木製の看板に縦書きで書かれた『三』の文字に違和感を覚えた。一番上の一が妙に上に書いてある。まさか。いやな予感がした。大地は一歩離れて看板を眺める。
『第一二病院(だいじゅうにびょういん)』
 がっくりと肩を落とす二人の後ろで雷が大きく鳴り響いた。

第一話完

第一話①

「ちーがうって!! ジャンピングジェット婆だって」 
 歯並びのいい口を大きく開けて純は訂正した。街を歩く数人が、大声に驚きこちらを向いたが、声の主にその視線を気にする様子は全くない。
 午前中に終業式が終わり、まさに始まったばかりの夏休みの空は、雲が多く今にも雨が降りそうだった。地元から電車で一時間かかる県庁所在地を、中学からの友人でクラスメートの純と共に、大地は歩いていた。
「だから、それってダッシュ婆のことだろ」
 熱心な純に対して、大地はいささか呆れた気持ちで反論した。
 ダッシュ婆とは、夜道を走る自動車を自らの足で追い越すことを趣味にした、夜更かし好きのくせに、異常なまでの健康さを誇るスーパー老婦人である。もちろん実在するわけではなく、都市伝説の登場人物である。
「違うんだって! ダッシュ婆は百メートルを三秒で走るだけでしょ」
 お前の四倍以上の速さだなと、チャチャを入れたが、完全に無視された。
「だけど、ジャンピングジェット婆――略してJJB――は、それに加えて走り幅跳び百メートルなんだよ!」
 純は目を大きく見開いて自慢気に語った。せっかく美形に生まれたのに、それをここまで崩れさせるなんてと、大地は話と関係ない感想を持った。純の話では、JJBはそのダッシュ力で車を追いかけ、ジャンプ力で車の屋根に跳び乗り、そこで休憩をするらしい。休憩しなければならないほど疲れているなら、そんな風当たりの強いところじゃなく、道のすみで休めばいいだろうにと思ったが、わざわざ口に出す気にはならなかった。
 どこでそんな話を聞いたのか尋ねようとしたが、すぐに気が変わり、止めた。大体想像はつく。純はクラスの女子に人気がある。何か特技があるわけではないが、顔がいいからだろう。まあ、高校生ぐらいの年頃では、顔の良し悪しが重要な恋愛要素になるものだ。もう少し年を取ると、外見以外のことも重視されるようになると、大地は考えている。というか、そうであって欲しい。別に不細工であるつもりはないが、純のほうがモテることに納得がいかなかった。そういうわけで、純はクラスの女子とよく話をしている。最近、女子の間ではこういった噂話が流行っているらしいので、その経由だろう。
 そんなことを考えている間も、純の話は続いていたらしい。今は、老人特有の腰の曲がった体勢が、空気抵抗を減らして強烈な加速力を生み出すとか、訳の分からない仮説を披露している。このままでは、いつまでこの話が続くか分からないので、大地は無理やり話題を変えた。
「それで、病院にはあとどれ位で着くんだ?」
 めったに地元を離れない大地は、純に道案内を任せていた。
「その脚力は戦時中に……って、病院?」
 話を止めた純は、辺りを見回し、足を止めた。それに合わせて立ち止まった大地に視線を戻し、急に真面目な顔をし、その後数秒目を閉じ、最後に微妙に引きつった笑顔を見せた。長年の付き合いで何が言いたいのかはすぐに分かった。だから、こちらも何も言わず溜息だけで答えた。
「ちょっと待って。地図を見るから。えーと、第三病院? 第三病院?」
 純は学校指定の学生鞄から地図を取り出し、道を調べ始めた。地図を縦横に回しながら唸っている所を見ると時間がかかりそうだ。大地はガードレールに腰掛けて、邪魔しないように黙っていた。空を見ると先程よりも黒い雲が増えている。風で流れて来るというより、ここの上空に集合するような動きだ。気のせいだろうか?
「大ちゃん」
 声に反応し、空に向けていた視線を純に向ける。
「山ちゃん、大丈夫かな?」純は地図に視線を落としたまま疑問を投げた。
「さあな」
 そっけなく答えた。別に怒っている訳ではない。ただ、山木――純はヤマちゃんと呼んでいる――の話はあまりしたくなかった。純からの返事がないので、また黙って空を見た。黒く濁った空を見ていると中学時代のことが思い出された。
 山木は中学時代に大地と純が所属していた陸上部のエースだった。彼と同じ百メートル走の選手だった大地は、密かに彼をライバル視していた。エースの座を奪うために、純と二人で夜中に秘密特訓をしたことがあった。その甲斐あって、練習中では、大地は山木とほぼ互角に走ることが出来るようになった。だから、あと少しで勝てると意気込んで記録会に参加したが、結果は惨敗。山木は練習では本気を出していないことを知った。それから暫らくして、大地は陸上部を辞めた。陸上を嫌いになったわけではないが、それ以来やる気が出なくなってしまったのだ。

プロローグ


 道路にかぶさる暗闇をハイビームライトで切り裂いて、原付バイクが走り抜ける。深夜の道路を走るのは一台だけだ。この辺りは市街地から離れているので、外灯も人気もない。そのため、聞こえるのはバイクのエンジン音、見えるのはライトで照らした路面だけだ。
 バイク上の男はちらりと速度計を見た。時速六十キロ。この速度計の上限だ。実際にはもっとスピードが出ているのだろうが、知る術はない。ただ間違いないのは、時速六十キロか、それより速いスピードで走っているということだ。
 ふと、男はバックミラーに目を向けた。後ろから音が聞こえたからだ。砂をこするような音。ビニール袋または、長く伸びた草でも引っ掛けて引きずっているのかと思った。暗いとはいえ尾灯の明かりがあるので、すぐ分かるだろう。
 しかし、ミラーの中はほとんど暗闇で、尾灯から出る光がわずかに見えるだけだ。後方を確認するには心許ない。だが、男はそれをみつけた。人影だ。あと少し離れていれば、闇と同化して気付かなかっただろう。暗くて男女の判別もきかないが、間違いなく人の形をしている。さっきから聞こえている音に合わせて、地面をけり、走っている。そして、ずっと同じ大きさでミラーに映っている。
 男はミラーに向けた視線を素早く速度計に移した。時速六十キロ。速度計の上限。もっと速いかもしれないが、遅いことはない。 男はミラーに視線を戻す。今度はゆっくりと。
 おかしい。時速六十キロで走る人間なんているはずがない。見間違いのはずだ。もう一度見れば、何も映っていない。そうに違いない。
 だが、ミラーに映っているのは先程と同じ光景だった。尾灯の弱い光の中を人影が走っている。何者かは分からないが、それは時速六十キロで走り続ける。
 ひとつ疑問が浮かんだ。いや、疑問はたくさんあるが最も大事な疑問だ。この影はなぜこんなところを走っているのだろう?
 答えはすぐに出た。影は徐々に距離を詰めてくる。そう、自分を追いかけるためだ。
 生暖かい風が吹いた。首筋をなで、Tシャツの襟口からわきの下を抜けて行く。体にまとわりつくような、いやな風だ。
 そして、すぐに次の疑問が浮かんだ。追いつかれたらどうなるのだろう?
 答えは出なかった。こんな得体の知れないものの考えなんて分かるはずがない。だが、ヒントは与えられた。
 ミラーに映る人影が笑った。口元がわずかに見えただけだが、自信を持って言える。あれは、笑顔だ。だが、それは相手に好意を示すものには見えなかった。唇を目一杯引き伸ばし、今にもそこからよだれを垂らしそうな、いやらしい笑みだ。空腹のハイエナが手負いの獲物を見つけたら、こんな顔をするのではないか。
 男は一秒もおかずにミラーから目を逸らせた。暑くもないのに汗があふれ、寒くもないのに体が震えた。上半身を前傾させ、アクセルを限界まで回した。見てはいけない。それを間近で見たら恐怖で心臓が止まってしまうかもしれない。そう思い、首を石のように固定し、前だけを見るようにした。追いつかれてはいけない。それだけを考えた。だが、足音は離れない。小刻みに打ち合わされる歯の音も、内側から痛いくらいに胸を打つ心臓の叫びも、足音をかき消せない。
「き、消えてくれ。消えてくれ」
 小さい声で繰り返すが、足音は近づいてくる。
 ダン!
 あと一歩という時に、叩きつけるような音が響いた。人影のいただろう場所から音は発せられた。足音もバイクのエンジン音もかき消すような大きな音だ。
 大きな音に体が勝手に反応した。固定したはずの首が回り、視線を後方に向けさせた。
 肩越しから見た後方には暗闇だけが広がっていた。人影もなく、足音も聞こえなかった。汗が引き、震えが止まった。安堵のため息が向かい風とともに流れていった。
 冷え切った体に熱が戻るように感じた。特に振り向いた側と反対の肩が暖かい。
 「?!」
 これは体内から来る熱なのか? いや違う。肩から首にかけて、向かい風とは違う暖かい空気の流れを感じる。これは、息? 一つの違和感に気付くと、すぐに次の違和感が現れた。振り返った体勢では見えない反対側の肩に何かが乗っている。硬く、緩やかに尖った何か。これは顎だろう。
 男はもう全てを理解していた。何者かが――候補は一つだけだが――バイクの後部に乗り、男に寄りかかっている。だが、何も出来ない。動くことも出来ない。そして考える事も。
 生暖かい息が、言葉と共に男の耳に流れ込んだ。
 「おいてかないで……」

第二話 ③

しかしそんなことを言いながらも、少女は涼しい顔をしていた。いまだに顔の筋肉に自由を取り戻せずに、泣いているのか笑っているのか怒っているのかよくわからない顔をしている大地とは対照的に。

「何をしているの」

何をしていたのだったか、大地はとっさに思い出せなかった。道に迷っていたのだったし、純を探していたのだったし、雨宿りをしていたのだったし、友人のお見舞いに向かっていたのだったが、そのどれをどう説明すべきか、整理が付かなかった。

大地が言葉を探していると、

「もう、いいわ」

やはり少女はそれを遮った。

「あなたが誰を探しているのかは知らない。でも、おとなしく帰ったほうがいい」

「え?」

「ここは何処?」

少女は唐突に大地に問う。質問の意味を考える余裕も無く、大地は「病院・・」と、力なく応えとも言えない呟きをもらすしかできなかった。

「そう・・あなたにはそう見えるのね」

「え・・?」

「ここは、何処?」

改めて少女が問う。大地は少女を見つめる。少女の奥に広がる闇を見つめる。

なんだ、あれは。

闇の奥を見つめる。なにかが、蠢いている。なにかが、呼吸している。なにかが、囁いている。大地が知らない、なにかが、そこに広がっている。

どこだ。ここは。

大地は自分の体が震えていることに気付いた。

「帰りなさい」

少女の強い声がそう言うと同時、大地の手が一歩、重たい体を引きずるように、後ずさり――

*         *         *

瞬間。全てが白に染まる。

*         *         *

――大地は目を覚ました。

スチール製のベッド、青いカバーの布団と毛布、を、押しのけて、大地は起き上がる。

窓の外でも空は青。音一つ無い快晴。

白いレースのカーテンから差し込む陽射しは真白で無色。

大地は頭を掻く。あくびが漏れる。

『・・・・?』

何かの夢を見ていた。そんな気がする、のだけれど、どんな夢だったか思い出せない。

めったに使われない木製の勉強机に乗っかった時計の指す時間はいつもの起床時間。アラームが鳴る2分前だった。大地はアラームのスイッチを切る。

何も覚えてない。でも、夢なんてそんなもんだ。

大した数の洋服も入っていないクローゼット、から、シャツと制服を取り出してのそのそと着替える。

そもそも、思い出す必要があっただろうか。

寝ぼけた頭では何を考え付くこともできなかったが、着替えだけはほとんど条件反射で終えた。

部屋の外から母親の声がする。起床を、あるいは食卓に着くことを促す声。

「今行くよ・・・・」

間違いなく届いていないだろう小声で返しながら、机の上の鞄を取って台所に向かう。

『夢なら、忘れるべきだ・・・・』

いつもと同じようにトーストにマーガリンを塗ってそれをかじり、牛乳を飲み、食器を片付けて歯を磨いて家を出る。学校までは徒歩で15分。何事も無く到着する。始業5分前。クラスメイトとの挨拶。そしてチャイム。教師が入室。いつものように始まる一日。

目の前は空席。

『そうだ、純の席だ。純は・・どこに・・・・』

ぼんやりと大地は何かを考える。何を考えているのか、自分でも分かってはいなかった。だけど、考えないほうがいい事のような気がする。

考えなければいけないことのような気がする。

大地は左足に鈍い痛みを覚えた。ズボンをめくって見ると、強く打ち付けたように痣になっていた。

どこかでぶつけただろうか。

大地は思い出せなかった。昨日の部活のときにはなんとも無かったはずだ。その後、真っ直ぐ家に帰って・・・・なにかを忘れている・・・・家で夕食、風呂、寝て・・夢を見て・・夢の中でぶつけた・・・・そんなわけは無い・・・・なにかを思い出しかけている・・・・恐ろしいものを見た・・・・。

担任の教師が繰り返し純の名前を呼んでいる。だが、それに対する返事は無い。

その日、純は、学校に来なかった。

第二話 ②

「やっぱ、道を間違えたのかなぁ。ごめん、ダイちゃん」

「まぁ、俺も確認してなかったし・・・・」

大地は小さく嘆息する。そこで、思い当たる。

「純、お前携帯持ってたよな」

「あ。うん。持ってる・・・・あ、だめだ。圏外みたい」

大地はもう一度嘆息する。

「仕方ないな・・・・しばらくここにいさせてもらおう。多分、にわか雨だし、待ってればそのうち止むだろ」

純はそうだねー。と、気楽な声で返し、適当な椅子に腰掛けた。大地もその隣に座る。

しばらく二人は会話も無くそうしていたが、そのうちに飽きてきたのか、純はあちこち歩き回り始めた。椅子の下を覗き込んだり、受付を覗いてみたり、奥のほうを見つめてみたり、落ち着きが無い。

別に放っておいてもよかったのだが、仮にも(いや、確実に)自分たちは不法侵入者だ。おとなしくしていた方がいいだろう。大地が純をたしなめようとした、その時、

「あれ」

と、純がつぶやいた。

「ねえ、ダイちゃん」

「?」

「いま、何か言った?」

言おうとしたところだ、と、言いかけて、大地は止めた。そうではない。そんなことを問題にしているのではない。つまり、純は、何かを聞いたのだ。大地は黙って左右に首を振る。

「・・・・ほら、また」

大地には何も聞こえなかったが、純がそう言うのならそうなのかもしれない。純は目も耳も鼻もいい。

「呼んでる・・・・」

誰を。誰が。と、大地が問うより早く純は歩き始めている。まるで夢遊病者のような足取りで、何かに引きずられるように、闇の、奥へ。

「おい、純・・・・おいっ」

大地は強い語気で囁くが、純には届いていないようだった。

純の姿が、大地の視界から消えてしまうその、僅か、前に、大地は、急ぎ立ち上がって大地の後を追った。

だが――

「え・・?」

純は消えていた。

ありえない。自分は全速で純を追いかけたはずだ。純がたとえ本気で走り出したのだとしても、自分より速く移動できるはずは無い。廊下はそこそこ広かったが、身を隠すほどのスペースは無いし、横道やドアの類も無かったはずだ。

だから――

消えた。

どれだけ目を凝らしても、耳を澄ませても、大地には何も見えないし何も聞こえなかった。明かりが少なすぎる。かろうじて周囲が認識できるだけだ。

戻ろうか。

そう考えて、その一瞬の後、大地は愕然とする。

どっちへ?

気がつけば、大地は完全な闇に囲まれていた。なんとなく手を伸ばしても、足を踏み出しても、もと来た道はおろか、ついさっきはそこにあったはずの壁すら見つからない。

そんな・・・・馬鹿な。

迷ったのは・・・・自分のほうだ。

ありえない。もう一度、大地はそう心中で呟いた。しかし、冷静になればなるほど、大地は、自分の状況を正しく認識せざるを得なかった。つまり純は消えたし、自分は自分のいる位置が分からなくなっている。それが確定している事実だ。ありえなかろうがどうだろうが、現にそうなっている。

大地は一瞬の逡巡の後に、決断した。

「おい、純。どこだ!」

できるなら静かに雨をやり過ごして何事も無かったかのように立ち去りたかったが、仕方が無い。大地は何度も純の名を呼んだ。何度も純の名を呼び、何度も純の名を呼んで、そして、そのうち、あきらめた。

返事は無かった。

今度は大地自身が、呆けたように歩き回る番だった。とにかく真っ直ぐ歩き続ければ、何かにぶつかるはずだ。壁さえ見つかれば、後はそれに沿って歩けばいい。例えばどれだけ複雑な迷路であっても、右へ右へと曲がり続ければいつかは出口にたどり着く――教えてくれたのは誰だったか、父親だったか、母親だったか、小学校のころの担任の教師だったか、それとも純の兄だったろうか、大地はそんな、ありがたいのか不吉なのか良くわからない豆知識を思い出していた。

そして――

壁だ。

大地は、ほっ、と息をついて、その壁に沿って移動しようとした――

「っ!!」

そして、転んだ。段差があったのだ。打ちつけた左足をさすりながら、もう一度見失った壁を探る。と。

「!!」

思わず声が出そうになった。

誰かいる。

一瞬だったが、闇の中で確かに何かが動いた。

おそらく純ではない。シルエットの印象が、純にしては小柄だった様に思う。それなら誰だろうか。純がその声を聞いたという何者かなのか、それともそうではなく、ただここにいただけの、病院の関係者なのか、あるいはそうではなく、不法侵入者なのか。

いや、不法侵入者は自分たちだ。大地は気持ちを落ち着かせる。だから、あれはきっとここの関係者だ。

だったらなぜ、明かりがついていないのだ。

大地は混乱している。

もう一度周囲を探る。

もう一度見ればはっきりするはずだ。

いない。

いない。

いない。

気のせいだったのか。

いない。

いる。

「あなた」

「うわっ!」

知らない声がかかったと同時、自分の口から知らない声が飛び出た。

大地はほとんど反射的に振り返る。腰は立たなかったから、転げまわるような格好になった。お世辞にも無様としか言いようの無い動きだったが、そんなことを気に留める余裕も意識も大地には無かった。

今度ははっきり認識できる。

少女だ。

歳は自分と同じくらいだろうか。あるいは一つか二つは年上かもしれない。着ているものはどこかの学校の制服のようだったが、大地には見覚えが無かった。少なくとも同じ高校のそれではない。

「・・・・平気?」

「あ・・あ・・・・は・・い」

かろうじてそれだけ返す。とりあえず怖いものではなさそうだと分かり、大地は少しずつ冷静さを取り戻した。安心のあまりに、ああ、驚いた。とは口に出さなかったが、言わなくても伝わったのかもしれない。少女は「驚いたのはこっちよ・・・・」と一人ごちた。

「あなた、何処から入ったの?」

第二話 ①

扉を越えると――

*         *         *

青白い非常灯の、不安げな明かりだけが、ぼんやりと浮かんでいる。

エントランスホールは、外観からは想像もつかないくらいに、いや、むしろ、外観からは矛盾しているのではないかと思えるくらいに、広い。整然と並べられた待合用の椅子はざっと数えただけでも50以上はあり、奥には複数の窓口が設けられた立派な受付がある。

「うわー。暗いねー」

しかし、誰も、いない。待合席で待っている者はいないし、受付で受け付けている者もいない。だから、これらが待合席であるかどうか、本当はわからないし、あれらが受付であるかどうかも本当はわからない。そういう形をしているだけで、まったく別の何かなのかもしれない。大地はそんなどうでもいい事を一瞬だけ考えて、だったらそれ以外の何に見えるんだと自分にまた一瞬だけ問いかけて、結局、考える必要のない事だと即座に結論付けて、やめた。

隣を見ると、純が、濡れた髪とシャツをバサバサと振って乾かしている。大地もなんとなくそれに倣った。外はずいぶんと蒸し暑かったが、それに比べると、建物の中は、暑くも、涼しくもない。空調が効いているような様子もないが、あるいは、建物自体、外気に影響を受けにくいような構造に作られているのかもしれなかった。

ふと。

見上げると。

風を感じた。

天井は吹き抜けになっているらしい。外から見た印象ではせいぜい4階建て程度の建物だったと思ったのだが、やはり光の無いそこは、まるで限りなく高く。何処までも深く。暗雲よりも遠く。その果てがうかがえない。

まるで音さえも吸い込んでいくような。

意識すら・・・・。

飲み込んでしまいそうな。

そんな無限の容量を、大地は錯覚した。

「誰も、いないのかな」

純の声に引き戻され、大地はまた我に返る。見やると、純がこちらを覗き込むように顔を寄せてきていた。いつも能天気なその表情も今はどこか不安げで、普段は耳が痛いほどに遠慮の無い大声も明らかに遠慮がちだった。

「かもな」

つられて、大地も小声で返す。声を潜めることに意味があるのか、ないような気がするが、自然とそうなった。自分も、そして純も、もしかしたら緊張しているのかもしれない。それが単に、無断で立ち入ったことに対する後ろめたさによるものか、それともこの空間のもつ独自の雰囲気によるものか、判別は付かなかった。

「定休日かな」

果たして病院に定休なんてものがあるのか、大地にはよくわからなかった(もちろん純だってわかっていないだろう)が、それでも、人が誰もいない病院、なんてものがあるとは思えなかった。これだけの大きさだ。入院患者だっているんじゃないだろうか。

しかし、それならば、なおさら、出入り口に誰もいないのはおかしい。不審な人物が(あえて自分たちがそうだとは言わないが)平気で侵入できてしまって、それで良いわけがない。それとも例えば監視カメラのようなもので、出入りをチェックしているのだろうか。

周囲を必死に見回そうとして、大地はその想像のくだらなさに苦笑した。もしそうなら、とっくに誰かが自分たちを咎めに来ているに違いない。

勝手に入られてもかまわない、そういう病院なのだろうか。

そんな病院があるだろうか。

本当に、誰もいないのだろうか。

それなら、なぜ鍵がかかっていない。掛け忘れたのか、その必要がないと思ったのか?

そもそも――ここは――本当に――病院――なのか――?

誰も待っていない待合席。誰も受け付けていない受付。

だとしたら、きっと、医務室には医者がいない。

病室には病人がいない。

それは――それは――病院ではない。

だとしたら、自分はここがそれ以外の何に見えるのか。

「なぁ・・・・純。本当にここでいいのか?」

「いや、地図どおりに来たはずなんだけど」

大地は純の手から地図を受け取って、眺めた。

しかし、それは酷く大雑把な手描きの地図だった。最低限の道が無個性な線として引かれているだけで、目印となるようなものは一切記入されていないし、そもそも、描かれている道がどの程度の大きさのものかわからなかった。これでは、細い道を一本勘違いしただけでも目的地にはたどり着けない。

「これ、お前が描いたのか?」

むしろ呆れていたのだが、大地の声は我知らずに咎めるような声音になっていた。

「ちがうって。えーと・・あれ・・・・・・あ、そうだ、兄貴が描いたんだよ」

大地はため息をつき、何か言おうとして、止めた。これを描いた大地の兄も兄なら、何の疑問も抱かずに受け取った大地も大地だ。そして、そうとも知らず黙って大地についていった自分も自分だ。

blog設置

そんなわけでblogを設置しました。
まあ、更新ペースは遅いと思いますが、
がんばりますのでよろしくお願いします。