行徳神明神社 (ぎょうとくしんめいじんじゃ)
(同名神社と区別するため地域名を付加しました)
千葉県市川市本行徳1-10
東京メトロ東西線「妙典駅」より北西へ直線約600m先に鎮座されています。
創 建:寛永12年(1635年)
御祭神:豊受大神
(市川市教育委員会掲示より)
本社は、伊勢内宮(三重県)の土砂を遷し、内外両皇大神宮を勧請したことに始まると伝わります。また当初の所在地は、江戸川対岸の中州(江戸川区篠崎辺り)の地であった可能性もあります(『江戸名所図会』)。
文化七年(1810)に編纂された『葛飾誌略』には、「中州に在る時は小祠也。寛永十二乙亥大社に造立。」とあり、江戸川の中州に本社が所在していた時代には小さく、寛永十二年(一六三五年)に「大社」として造立されたことを伝えます。他にもその過程で行徳地区の十五ヶ村から寄進があったことや、当地あたりに居住していた徳のある山伏をかつて「行徳」と呼び、いつの頃からか地名になったともあります。
現在、この本社を中心に、三年に一度大祭が挙行されています(かつては毎年挙行)。神輿渡御の行事が行われ、大神輿が町内を練廻ります。勇壮な揉み方に特色があり、その継承も試みられています。また、大祭は五ヶ町祭りと呼び、当地(本行徳)の五つの集落がかかわっています。
祭りの開始については、「元文二丁・巳年享保元申年とも田中三左衛門催しについて、祭礼に始めて屋台を出す。町内も此の時四丁に分る。新田とも屋台五つ、新宿客祭りとして屋台以上六つ也。」と記され、十八世紀前半に祭りに屋台が出されたことを伝えます(『葛飾誌略』)。祭りの開始年次は、はっきりしませんが、十八世紀前半に当地(本行徳)が四つにわかれ、新田(現在の本塩)や新宿(現在の下新宿)も屋台を出したようです。
文化七年(1810)に編纂された『葛飾誌略』には、「中州に在る時は小祠也。寛永十二乙亥大社に造立。」とあり、江戸川の中州に本社が所在していた時代には小さく、寛永十二年(一六三五年)に「大社」として造立されたことを伝えます。他にもその過程で行徳地区の十五ヶ村から寄進があったことや、当地あたりに居住していた徳のある山伏をかつて「行徳」と呼び、いつの頃からか地名になったともあります。
現在、この本社を中心に、三年に一度大祭が挙行されています(かつては毎年挙行)。神輿渡御の行事が行われ、大神輿が町内を練廻ります。勇壮な揉み方に特色があり、その継承も試みられています。また、大祭は五ヶ町祭りと呼び、当地(本行徳)の五つの集落がかかわっています。
祭りの開始については、「元文二丁・巳年享保元申年とも田中三左衛門催しについて、祭礼に始めて屋台を出す。町内も此の時四丁に分る。新田とも屋台五つ、新宿客祭りとして屋台以上六つ也。」と記され、十八世紀前半に祭りに屋台が出されたことを伝えます(『葛飾誌略』)。祭りの開始年次は、はっきりしませんが、十八世紀前半に当地(本行徳)が四つにわかれ、新田(現在の本塩)や新宿(現在の下新宿)も屋台を出したようです。
旧社格:村社
ご 案 内
神社入口は行徳街道に対し横向きに配しています。
3年に一度行徳五ヶ町の大祭の準備を行っていました。(令和5年10月)
社額は「豊受太神宮」
手水舎
拝殿正面参道
狛犬
拝殿正面
拝殿側面
弊殿
本殿
境内社:道祖社
境内社:水神社
境内社:金刀比羅社
境内社:稲荷社
猿田彦大神
御神木
祭りの出番を待つ神輿
力石
帰路
境内巨木
行徳町道路元標