ECサイトで物を買わない人がまだ多いらしい。そういえば「どこで買ったの?」と聞かれたとき、店舗名を答えないと怪訝な顔をされることがある。あるいは「ネット」と答えるとそれで話が終わってしまうことがある。「楽天?amazon?」くらいは聞いてもいい気がするが、そういう質問は出ない。

これは年配の人に限ったことではなくて、私と同世代の奴にもいる。私の友人は教員をやっているが、ネットで物を買うのを極端に怖がる。クレジットカードの登録とか、なんかとんでもない請求が来るんじゃないかといまだに思っているらしい。田舎者と一言で済ますのは簡単だが、何故彼らはECを毛嫌いするのだろうか?

ただ、私にも完全に彼らのことが理解できないわけではない。時々私もネットのお買い物が不安で不安で仕方ないことがある。おいおい、このネットショップってまだ運営されてんのか? と思うほどしょぼくれたサイトで物を買おうか悩んだ時だ。私の申込が延々に無視され続けるんじゃないか?と。

きっとECを拒む人もそんな不安を持っているんじゃあるまいか? TVの通販番組はそういう人も買っている。それはTVという安心感が絶大だろうが、もう一つ、直接オペレーターと電話で話ができるからじゃないかな。人と実際に話をしたら、そういう人たちは安心して物を注文する。その辺の感覚は私にも理解できる。

今後ECがどんどん普及して行く中で、買わない人たちをどのように取り込んで行くかが大切だろう。そしてその買わない人たちを取り込んでしまうと、店舗営業はますます成り立たなくなってくるかもしれない。
黒澤明の「生きる」をはじめて観たのは高校生の頃だった。15年近く前ということになる。当時の私はエネルギーに満ち満ちており、志村喬の言いようのない暗さを理解することができなかった。野暮ったくて、救いがたい映画だと感じたものだ。「7人の侍」や「隠し砦の三悪人」なんかは最高に好きだった。志村喬よりも三船敏郎のような男に意味を感じていた。

あれから15年ほどの月日が流れ、私もくたびれて精魂尽き果てるような気持ちを理解することができるようになった。会社から不要であると気付かれないようにオフィスにしがみついている自分の現状と、志村喬を重ね合わせることができるようになった。だから彼の30年無欠勤の疲労も少しは理解ができる。

まともな神経で無意味とも思える労働を30年間続けることは厳しい。それを周囲はなんなくこなしている(ように見える)。そこに違和感は時々発生する。それは私が思うこと。映画の主人公がどう思っていたかは知らない。

なんのために働くのかの初心のようなものを失って、数十年間の労働を続けてきて、ふと死が目前にあることに気が付くとき、もう一度人生をやり直すことができるのだろう。死ぬって分かっていれば怖いものなんてない。生きることは執着だ。周囲を恐れ、未来を恐れる。だが死ぬのなら、そのような執着はもうどうだっていいのだ。

死ぬと分かってから、男は心を埋める温もりを感じようと様々な手段を使う。彼の心を救ったのは、まだ会社に入って間もない、会社に毒されていない、これからも毒されないように思える女の子だけだった。彼は彼女によって「始まり」を取り戻すのだ。

振り子があるとして、彼女は左端にいて、彼は右端にいた。彼は彼女の方向へは歩いて行かず、反対方向に歩くことによって彼女の元に辿り着いた。彼女は最後まで優しかった。いつまでも左端にいたからだ。仕事を変えて、へんてこな人形を作る馬鹿げた職に就いた彼女が生き生きとしていた事実には、私は涙が出てくる。仕事とは、何かを作ることなのだ。

仕事によって死んだように生きた彼にとって、もう一度生きるためには遊びではなく仕事が必要だった。だから彼は遊びには決して溺れなかったし、遊びの最中にあっても幸せではなかったのだ。彼にとって、生きることは仕事だった。

自分の息子に対しても彼は上手に喋ることができなかった。何十年も仕事をしていた結果、彼は息子のことを失っていたのだ。彼の息子もまた父のことを失っていた。女を手に入れたとき、彼は父の意味から切り離されたのだった。

彼は30年間の無欠勤の後、2週間だけ仕事を切り離した。その2週間だけ彼は胃ガンに侵されたからだ。でもすぐに仕事を取り戻した。その後彼はきっとまた無欠勤だったはずだ。人は時々、そういう人間の生き様を美しいと思う。まっすぐに生きている人間よりも、ブランコで死ぬような人間の孤独を美しいと思ってしまうのだ。

彼が唄うゴンドラの唄は、本当に素晴らしかった。

彼女は葬式に来なかった。それでいい。彼女はずっとあの人形を作り、生きながら死んでいる人間に命を吹き込んでいるのだ。死んだ人間のもとに、来る必要はないのである。

一番怖いのは失敗も成功もしない人生なのだ。僕は『生きる』を観て、そのように感じた。失敗しよう。成功しよう。どうせ我々は全てを失うのだ。我々の一番の意味は「どんな顔をして生きるか」だ。絶望と有頂天を、どのように反復するかだ。

そうでしょう?
出版業界震撼!「青少年育成条例」改正でロリマンガが消滅する!?

ネットで話題になっている「非実在青少年」。聞き慣れない言葉だが、要するに漫画などに出てくる未成年のことらしい。18歳以下の主に女の子の破廉恥シーンを、これからは書いてはいかん!という条例なのだろう。これに対しては「表現の自由」などを盾に反論する意見が多い。

私個人としてはロリコンでもないし、将来ロリ漫画で食っていこうと考えているわけでもないので、この条例はどうでもいいことになる。ただ規制好きの日本で、このような規制をしてしまうことで失われるものも多い。リンクでドラえもんのしずかちゃんの入浴シーンの話が出ているが、当初はもちろんしずかちゃんの入浴シーンは摘発の対象にはならないだろうが、数年後にはより厳しくなって、ちょっとしたエロにまでメスが入ることも考えられる。さらに基準が曖昧なので、気に食わない漫画家の作品だけがボツにされるようなケースも考えられる。

そもそもロリコン自体の定義も曖昧だ。17歳の女の子はロリコンなんだろうか? 17歳くらいになればセックスをしている娘がいるのも当然だし、それを描くことが危険なことだとは思えない。基準をかいくぐる手段もたくさんある。30歳の設定でセーラー服を着ているのは大丈夫らしい。おそらくデーモン小暮閣下のように、10013歳と名乗る13歳のように見える女の子が破廉恥行為をしても、なんらお咎めはないのだろう。

まぁいっか。ロリコン好きな奴はこの条例が通ったら自分だけで楽しむロリ漫画を自分で描けば良い。世間には13歳に見えるが本当は30歳だ、と言い張れば保管することもできる。

基本的には規制には反対である。作品の幅は確実に狭まるだろう。規制するなら電車のつり革の中でおっぱいを強調したポーズをとっている水着の15歳くらいのグラビアアイドルの方だろう。あっちのほうがよほど下品だ。先進国でそんな下品なことをやってる国って日本くらいじゃないのか?

全体として曖昧な条件で規制を作ってしまうのは間違いだ。あまりにも危険な作品があったときに、その都度その作品を問題視すればいいだけだろう。日本は頭が固い国だから規制を許すと極端な方向に流れてしまう気がする。この条例が通るか否か、とても楽しみだ。