黒澤明の「生きる」をはじめて観たのは高校生の頃だった。15年近く前ということになる。当時の私はエネルギーに満ち満ちており、志村喬の言いようのない暗さを理解することができなかった。野暮ったくて、救いがたい映画だと感じたものだ。「7人の侍」や「隠し砦の三悪人」なんかは最高に好きだった。志村喬よりも三船敏郎のような男に意味を感じていた。

あれから15年ほどの月日が流れ、私もくたびれて精魂尽き果てるような気持ちを理解することができるようになった。会社から不要であると気付かれないようにオフィスにしがみついている自分の現状と、志村喬を重ね合わせることができるようになった。だから彼の30年無欠勤の疲労も少しは理解ができる。

まともな神経で無意味とも思える労働を30年間続けることは厳しい。それを周囲はなんなくこなしている(ように見える)。そこに違和感は時々発生する。それは私が思うこと。映画の主人公がどう思っていたかは知らない。

なんのために働くのかの初心のようなものを失って、数十年間の労働を続けてきて、ふと死が目前にあることに気が付くとき、もう一度人生をやり直すことができるのだろう。死ぬって分かっていれば怖いものなんてない。生きることは執着だ。周囲を恐れ、未来を恐れる。だが死ぬのなら、そのような執着はもうどうだっていいのだ。

死ぬと分かってから、男は心を埋める温もりを感じようと様々な手段を使う。彼の心を救ったのは、まだ会社に入って間もない、会社に毒されていない、これからも毒されないように思える女の子だけだった。彼は彼女によって「始まり」を取り戻すのだ。

振り子があるとして、彼女は左端にいて、彼は右端にいた。彼は彼女の方向へは歩いて行かず、反対方向に歩くことによって彼女の元に辿り着いた。彼女は最後まで優しかった。いつまでも左端にいたからだ。仕事を変えて、へんてこな人形を作る馬鹿げた職に就いた彼女が生き生きとしていた事実には、私は涙が出てくる。仕事とは、何かを作ることなのだ。

仕事によって死んだように生きた彼にとって、もう一度生きるためには遊びではなく仕事が必要だった。だから彼は遊びには決して溺れなかったし、遊びの最中にあっても幸せではなかったのだ。彼にとって、生きることは仕事だった。

自分の息子に対しても彼は上手に喋ることができなかった。何十年も仕事をしていた結果、彼は息子のことを失っていたのだ。彼の息子もまた父のことを失っていた。女を手に入れたとき、彼は父の意味から切り離されたのだった。

彼は30年間の無欠勤の後、2週間だけ仕事を切り離した。その2週間だけ彼は胃ガンに侵されたからだ。でもすぐに仕事を取り戻した。その後彼はきっとまた無欠勤だったはずだ。人は時々、そういう人間の生き様を美しいと思う。まっすぐに生きている人間よりも、ブランコで死ぬような人間の孤独を美しいと思ってしまうのだ。

彼が唄うゴンドラの唄は、本当に素晴らしかった。

彼女は葬式に来なかった。それでいい。彼女はずっとあの人形を作り、生きながら死んでいる人間に命を吹き込んでいるのだ。死んだ人間のもとに、来る必要はないのである。

一番怖いのは失敗も成功もしない人生なのだ。僕は『生きる』を観て、そのように感じた。失敗しよう。成功しよう。どうせ我々は全てを失うのだ。我々の一番の意味は「どんな顔をして生きるか」だ。絶望と有頂天を、どのように反復するかだ。

そうでしょう?