神との対話【解説】P146~149 「戦争よりも愛の方がいい」 | 心理カウンセラーによる 【神との対話】解説

心理カウンセラーによる 【神との対話】解説

20年以上前に出会ったニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」を、わかりやすく解説します

最初に前回の復習です。

 

前回、天国に行き着くには苦しむ必要があると考えていたニールさんに対して、神様は
”わたしは苦しみを喜ばない”と、お話されました。

 

次に、「苦しみの正体」について説明がありました。
神様は”感情と出来事との間には、何の関係もない”と言われました。
”出来事はニュートラルなもの”だとバシャールさんも言われています。
出来事に意味を付けるのは、私たちの個々の感情です。
私たちの感情は、出来事を「良いこと」「悪い(いやな)こと」「気にならないこと」に振り分けていきます。
また、その感情を作るのは、私たちのもつ観念(そうだと信じていること・思い込み)です。
つまり苦しみの正体は、出来事ではなく、
個人が持っている感情とその感情を持つにいたる観念(思い込み)なのです。

 

ニールさんはこのことを当時は理解できなかったため、
「なぜ出来事をなくしてくれないのですか?」と神様に質問しました。

 

神様は
「わたしは出来事をコントロールすることはできない。
あなた方が自分で選んで創り出した出来事に、介入することはできない」
とニールさんに伝えました。

 

その理由は、以前にお話があった「宇宙や人が創られた理由」にあります。
私たち人間は、神が創られた神の分身です。
神が分身(人)を創った理由は、
たった一つの存在だった神様が、ご自分の性質である”愛”の経験をしたかったから、です。
愛の経験をするためには、愛に相対する存在”不安”が必要でした。
愛と不安が存在する世界に、私たちは”個人”として生み出され、
その個人は自分の心の中を外側の世界に映し出すことでさまざまな経験・体験をしていきます。
個人が信じていることが外側の世界に反映されています。
そうやって個人は、そうとは知らずに自分の心の中を経験していくのです。
私たちは様々な経験の中で様々な観念と感情とを経て、やがて個人は愛だけを選ぶようになり、
愛が育って栄光となるのです。

 

そのような私たちの「人生」の中にある「出来事」に、神様は介入できないのでした。

 

次に、引き寄せの法則に関わる説明がありました。
先ほども書きましたように、私たちが出来事を経験するのは、個人の意識や無意識からなる「心の内側」が外側で起きるからです。
天災も、個人の意識が集まった集合意識で起きます。
ですから、私たちは自分の意識を不安の対象に向けないで、愛の方向に向ける方が良いのです。

 

今回も、ニールさんの質問から始まります。
ニールさんはこれらのお話を神様から聞くまで、
「苦しみは清らかな善なるもの」だと思い込んでいたようです。
ニールさんは子どものころからたくさんの厳しい戒律の中で育ってこられたため、自分を罪人と思い、自己犠牲をもって償う善行こそが、神が認める素晴らしいことだと思い込んでいらっしゃいました。
けれども神様は「神が定めたとされる戒律が存在しない」ことや「神は苦しみを喜ばない」ことを、ニールさんにお話しされました。
ニールさんがそのことを理解するのに、時間が掛かるのも当然のことだと思えます。
ニールさんは、「人々が苦しみは善であると考えはじめたのは、いったいいつからなのでしょうか」と、神様に質問しました。

 

ここで神様は、「マスターの弟子たち」と「真のマスター」についてお話されました。
真のマスターというのは、イエスキリストや仏陀…いわゆる聖人のことを言われています。

 

苦しみが善というわけではない。
<マスターの弟子たち>は黙って苦しむが、それにはわけがある。
彼らは苦しみが神への道だというわけではないが、
神への道をたどるにはまだ学ばなければならないことや、
思い出さなければならないことがあるから苦しむのだとわかっている。

 

<真のマスター>は決して黙って苦しんでいるのではない。
そう見えるだけだ。
<真のマスター>が黙っているのは、苦しんでいないからだ。
彼らは苦しみと呼ぶ状況を経験しているだけだ。

 

実践している<マスター>が苦しみについて語らないのは、言葉の力をはっきりと理解しているからだ。
したがって、語らないことを選んでいるのだ。

 

わたしたちは、関心を向けることで、対象を実在させる。
<マスター>はこのことを知っている。
<マスター>は何を実在させるかを選ぼうとする。

 

神との対話 P147

 

苦しみの対象となるものに関心を向け、されにそれを言語化すれば、苦しみの対象となるものは居座り続けます。
そのことは、これまでの解説でも説明してきました。

 

またマスターは、他から見れば苦しい状況にあったとしても、実際には当人は苦しんでいないとのことでした。

 

こちらを読んだとき、イエス様のことが思い浮かびました。
イエス様が描かれている絵は、だいたい悲しそうな顔に見えます。
けれども本当は、笑顔を絶やさない明るくて優しい人だったのだろうとイメージできました。

 

すべてを知っているからこそ、明るくて楽観的で慈悲深く、自らが持つその光から、たくさんの人たちの病気や痛みを取り除くことができたのでしょう。

 

このように、「苦しいことを言わない」という選択は、苦しさを言語化して実在化したり継続させたりしないために、有効です。
私たちは状況を変えるべく対策を立てて行動したり、音楽や明るい話ができる交友などで気分を変えたりして、良いことを見つけ、良い方向へ変わることを信じると良いのでしょう。

 

誰でも、ときおりは同じことをしている。
自分の気持ちしだいで頭痛が消えたり、歯の治療の痛みが減ったりした経験のないひとはいないだろう。

 

<マスター>もこれと同じで、もっと大きなことがらについても同じことをしているだけだ。

 

神との対話1 P147

 

心の中が外界に映し出されているのだとしたら、出来事に対して起きてくる自分の感情をポジティブに(明るく前向きに)変えていくよう練習し、習慣づけることが必要です。
そのためには、ネガティブな感情を生み出している観念(そうだと思い込んでいること)を見つけ出すことも、必要になってくるでしょう。

 

ここからニールさんは「どうして人間は苦しみが善だと思いついたのか理解できない」と嘆いたことで、
神様はニールさんがもっていた「静かに苦しむのが善である」という偏見を、強烈なたとえ話で明るみに出しました。

 

あなたがたは、戦場で男がめそめそしながら死ぬのを見る方が、女性が街頭でセックスして声を上げるのを見るよりはましだと考えているのだろう。

 

神との対話1 P148

 

ニールさんはそれが当然だと思っていたので、神様に
「あなたはそうじゃないんですか?」と聞きました。

 

神様の答えは以下の通りです。

 

わたしは、どちらがましか、判断しない。
あなたがたがそういう判断をし、その判断があなたがたを喜びから遠ざけ、期待があなたがたを不幸にしているのではないか、と言っている。

 

神との対話1 P149

 

現代に生きる日本人の多くがそうだと思いますが、私自身は人の性交渉を見るより、戦場で誰かが死ぬのを見る方が絶対的にイヤです。

でもニールさんは、神様の言われる通り”男がめそめそしながら死ぬのを見る”方がましだと思っていらっしゃいました。
だからこそ、ニールさんはたくさん苦しんできたのだと理解できます。

 

とうとうニールさんは、ご自分が話している相手が本当に神様なのかが不安になりました。
そのようなニールさんに、ニールさんのジレンマを解くべく神様は言いました。

 

わたしの言うことを信じるな。
ただ、そのとおりに生きてごらん。経験してごらん。
それから、何でもいいから、ほかの生き方をしてみなさい。
そのあとに、経験を見つめて真実を探しなさい。

 

いつか、大きな勇気があれば、あなたは戦争をするよりも、愛のほうがいいという世界を経験するだろう。
その日、あなたは歓喜に包まれるだろう。

 

神との対話1 P149

 

「そのとおりに生きてごらん」と神様が言われるのは、
「情熱を持ち、結果への期待を放棄して、創造のプロセスを楽しみなさい」という意味だと理解します。
そして神様が言われるように、現状を変えるには勇気が必要です。
勇気をもって自分の観念や行動を変えていけば、戦うより愛のほうがいいという世界を経験し、そして歓喜に包まれると、お話されました。

 

実際に、ニールさんはここから大きく変わっていかれました。
でもまだ当時は、大きな不安の中で生きていらっしゃいました。
そして当時のニールさんがネガティブだったからこそ、素晴らしい神との対話ができました。
二ールさんの人生に起きていたすべての出来事が、二ールさんのために、そして読者である私たちのために起きていました。

 

次回は人生について、ニールさんの質問に神様が答えています。