五月の木戸の主な出来事は次のようです。
五月三日   村田清風旧宅に石碑を建てる。
五月五日   萩より山口へ帰る。
五月六日      藩主毛利敬親父子に拝謁し告別する。
五月七日   山口を出発し十一日長崎に着く。
五月八日   高杉晋作の墓に参拝し、梅所(梅処尼)を訪ねる。
五月九日   馬関で梅處(梅処尼)と会う。梅處は別船で長崎へ行く。
五月十三日  長崎裁判所總督澤宣嘉とキリスト教処分を審議し数日後に決定する。
五月十七日  梅処尼、吉富簡一、井上馨らと福屋という店で西洋料理を食べる。
五月二十二日 井上馨へ五言古詩を添えて太刀を贈る。
五月二十三日 長崎を出発し、六月三日京都に帰る


五月朔日
 福原は泊まって、昨夜、約束を破り大議論をしたことを弁解した。それでまた酒を数杯飲んだ。彼はまた大酔して悪口を言った。干城隊に比べ、諸隊の人が約束を固く守らないのを嘆く。二時に宿を出て海潮寺、龍昌院、妙香院、本行寺に参詣し、また生家の和田へ行った。夜、山縣彌八、祖式宗助(宗輔)、天野順太(順太郞)、奥平二水、児玉采(采女)が余のために酒席を設けてくれた。河村七郎右衛門が別の所で飲んでいた。それで薄暮に金社に参詣し、河村七郎右衛門の所へ行った。他に七、八人が連れだって来ていた。みんなひどく酔って座にいるのが堪えられなかった。夜一時宿に帰った。
 
※注
山縣彌八;閏四月二十六日に記載。祖式宗助(宗輔)、天野順太(順太郞);閏四月二十七日に記載。


五月二日
 朝、八木隼雄が来た。先日から余を度々招待してくれたが、多忙で行くことができなかった。今日は熱心に誘うので正午頃に行く約束をした。十時に宿を出て杉(孫七郎)とともに日柳(燕石)を訪ね、また生家の和田へ行った。二時に八木隼雄の所へ行った。すでに大津(四郎右衛門)と杉(孫七郎)が席にいた。少し酒を飲んで閑談した。五時にともに退出した。中村を訪ねたが家にいなかった。河村(七郎右衛門)の所へ行った。同居している原田の初端午だった。また少し酒を飲んで薄暮に和田へ帰った。暮時に日柳(燕石)と児玉(少輔)の二人が来た。昨日、山口から杉(孫七郎)氏に山口へ帰るよう急に言ってきたので杉氏は明日出発のつもりである。それで杉氏から返答の手紙が来た。余は腫れ物を患っており一両日の許しがあるので明後日の四日に出発を延ばした。今日諫早、福原等が来て、しきりに先日の酔った勢いで大議論をした不興を悔い改めていっしょに酒を飲もうと言ってきた。その心意気は捨ておくことはできないので金崎屋へ行った。酒杯を重ね余は尽酔して退出した。壮士の諫早、福原等ははなはだ謹慎しており余もはなはだ感じるものがあった。現在の情勢を話しあいこれまでのことを語り、話は清風翁(村田清風)のことに及んだ。余は今日八木(隼雄)の所へ行き村田(清風)氏の旧宅に立ち寄った。彼がいつくしみ手入れをされていた松の木を見た。余は感動がやまず翁のために碑をこの松の木の下に立てたいと思った。十二時過ぎ大津(四郎右衛門)と退出し、日柳(燕石)を訪ね碑石についてのあらましを話し、直ちに宿へ帰った。

※注
八木隼雄;元治元年(一八六一)四月、毛利元徳が小郡で筑前藩世子の下野守と面会したとき福原越後、毛利登人、前田孫右衛門、麻田公輔、柏村数馬とともに陪席している。慶応四年(一八六八)毛利元徳上京のとき随従役員として同行している。木戸より一世代前の藩重臣。

杉孫七郎;閏四月二十一日に記載。日柳燕石;四月九日に記載。大津四郎右衛門;閏四月十七日に記載。


五月三日
 山縣彌八、木梨兵之進(兵之進信一)、長沼太郎兵衛、木梨連、小川彦左衛門等が来た。昨夜、諫早、福原等の壮士と大いに村田清風翁の言葉と事跡について話した。余はいつも清風翁を慕ってきた。清風翁は、国は艱難を歩めども策は未だ成らずという律詩と、羽賀臺大演習のお供をしてという絶句との二編の詩を作っている。その深意を想像すると感慨に堪えない。いつも翁がいつくしみ手入れをされていた松の木の下に一碑を建てようと思いながら未だ果たしていない。余はこれから長崎へ行きまた京都へ上るが、故郷へ再び帰ることはないかもしれない。それで石碑を建てて去ろうと思う。にわかにこのことを石工に相談したところふさわしい石を得た。それで清風翁の松樹の主人の井上登人を訪ね常日ごろの意思を告げると、井上登人はたいへん喜んで石碑建立を許した。その成就を翁の□□長沼太郎兵衛に託して故郷を去る。碑面□□清風松の三字を書いた。碑の背面に次のように碑文を書いた。
「村田清風翁は、太平無事の世に生まれ、武を錬り文を修め、悪い習わしを払い除き、我が藩の武士の姿を一新し今日を迎えた。誰もがその功とその徳をほめたたえる。戊辰(慶応四年)の夏、余は京都から帰り清風翁の旧邸に立ち寄った。翁がいつくしみ手入れをされていた松の木を見て、心をふるいおこされ感じるものがあった。それでこの碑を建て、後の人がこの松の木を剪伐したりよじ登ったりすることを戒める。翁をしのび無題の絶句を一編作った。優れた先輩の後についていきたい思いである。
叨参大政入鸞臺 叨(かたじけな)くも大政に参り鸞臺に入る
        忝くも国政に参加し太政官に入る
甘受刀槍逼我来 刀槍が我に逼り来るを甘受する
        刀槍が我に迫り来ることをやむを得ず引き受ける
何日学翁帰舊里 何れの日にか翁に学び舊里に帰らん
        いつの日にか翁に学び故郷に帰りたいものだ
老梅書屋又看梅 老梅の書屋に又梅花を看ん
        老梅の書屋に又梅花を見たいものだ
 飛龍在天の歳五月
                  木戸大江孝允 謹誌」
この夜、木梨、國重、大津(四郎右衛門)が来て泊まった。

※注
□□は欠字です。
木梨連;長州藩士、学校権少参事(「修訂防長回天史総合索引」)
山縣彌八;閏四月二十六日に記載。長沼太郎兵衛;閏四月二十七日に記載。大津四郎右衛門;閏四月十七日に記載。


五月四日
 山口へ帰る旅じたくをととのえた。今年は雨が多く梅雨に入って雨がやむことがない。わずかに昨日と一昨日だけ降らなかった。客が毎日連れ立ってやって来て、静かに楽しむことをを妨げる者が多かった。滞在中に頼山陽の掛け軸を三幅、小さい紙に書いた書を一つ、書と画をいっしょに書いた半切りの書一幅を手に入れた。木梨、國重、大津(四郎右衛門)、祖式(宗輔)、奥平(二水)、児玉(采女)、長沼(太郎兵衛)等が来て余を見送った。今朝、天野順(順太郞)が来て絶句の詩一編を余に贈って帰った。三時過ぎに旅宿を出て生家の和田へ行き父母の墓を参拝し出発した。この度の旅行には養子の正二郎(正次郎)を連れてきた。暮れ時に佐々並に着き一泊した。柳東(日柳燕石)が同宿した。終日曇ったり晴れたりして安定しなかった。

※注
大津四郎右衛門;閏四月十七日に記載。祖式宗輔、長沼太郎兵衛、天野順太郞;閏四月二十七日に記載。養子の正次郎;四月十一日に記載。日柳燕石;四月九日に記載。


五月五日
  早朝、佐々並を出発した。雨が盆を傾けたように激しかった。十一時過ぎ漸く家へ帰った。ずっと大雨はやまなかった。道路は何か所も川のようになっていた。四時に野村右仲(素介)が来た。互いに京都大阪の最近の情勢について話し合った。

※注
野村右仲(素介);閏四月十三日に記載。


五月六日
 今日は姉君の命日だった。朝焼香をしてお祭りをした。御堀春江(耕助)等が来た。午後政事堂へ行き大君(毛利敬親)に拝謁した。呑鵬(杉孫七郎)と缾山(小幡高政)が来て一泊して帰った。呑鵬が印を一箇くれた。事々不如人と彫ってある。缾山は半江の画一幅をくれた。牡丹の画である。二人は一泊して帰った。鍔師の寺戸正兵衛が来た。小刀の金具が漸くできた。

※注
呑鵬(杉孫七郎);閏四月二十一日に記載。缾山(小幡高政);閏四月十五日に記載。


五月七日
 晴れ。長崎へ行く支度がほとんどできない。実に大混雑して外出できず静寂な時間がない。余はたいへん嘆かわしい。その思いを実行できないのが遺憾である。養子の正次郎が登山して石上に転倒した。傷口が痛むので医師田□□某が来て治療をし二針縫った。余は今日長崎へ連れて行こうと思い既に藩の許しを得ていたので思いがけずこのようなことになって大変残念である。世子君(毛利元徳)が余を招かれたので午後政事堂へ行き拝謁した。制度についてお尋ねがあったので私案を申し述べた。友人に別れを告げ四時に家へ帰った。晩刻に近所と廣澤(眞臣)の留守宅を訪問し出発した。山田七兵衛、松原音三、杉孫七郎、野村右仲(素介)、その他山口三田尻の明倫館をつかさどる小吏阿部一家、萬代屋等と瓦屋で酒を飲んだ。夜八時過ぎに別れ、十二時過ぎ小郡に着き□□に宿泊した。途中麻翁(麻田公輔、周布政之助)の墓に参拝した。今日當麻国行の刀を得た。出所は徳田直次郎である。お金を献納し余が買い拝領した。値段は百圓。

※注
□□は欠字です。
山田七兵衛;閏四月二十四日に記載。呑鵬(杉孫七郎);閏四月二十一日に記載。缾山(小幡高政);閏四月十五日に記載。養子の正次郎;四月十一日に記載。


五月八日
 晴れ。朝、北川清助、寺島□□□□等が来た。村夫子□□泰藏が訪ねて来た。二十年前に和田で知っていた人である。秋元(秋本)源太郎、新藏、林□□等も来た。これまでのことを語り将来のことを話し合った。小郡の人は昔から懇切であり余はその厚い心を忘れることができない。三條、西三條、東久世三卿の短冊をみんなに分け与えた。九時に別れ出発した。二時に舟木に着いた。大庭で昼ご飯を食べた。暮れ時に吉田に着いた。東行(高杉晋作)の墓に参拝し、梅所(梅処尼)を訪ねた。今日は柳東(日柳燕石)と同行した。厚狭の□□で半裁に書を書き、吉田の□□で少し酒を飲み、七時過ぎに出発した。夜半に長府に着いた。馬関(下関)への道は連日の雨のために大きく損なわれ輿や馬が通わないので、やむをえず長府の□□に宿泊した。

※注
□□は欠字です。
北川清助;文政九年(一八二六)~明治三五年(一九〇二)。大島郡の貧家に生まれ、幼時陶村の北川家に養われ、その姓を継いだ。少年時代から武技を好み、特に西洋砲術や大砲製造法に通じていた。小郡代官所に勤め、文久年中諸隊を組織して訓練し、福田口に設立された鉄砲製造所の監督を命じられ、農兵頭取を兼ねた。維新後は陶村に居住し農業立国を理想とし、養蚕を奨励したり、また鶏を一千羽飼ったり、あるいは秋穂の竹島に山羊を放牧するなど、当時としては破天荒な近代的多角的農業経営を提唱し、自ら実践したが、その多くは時期尚早のため失敗し、晩年は不遇のうちに過ごした。(「山口市史」)
柳東(日柳燕石);四月九日に記載。


五月九日
 三時馬関(下関)へ着いた。越荷方へ行った。久保氏(斷三)、片山貫一、画家青浦、青木郡平(群平)、吉富藤兵衛、雲泉等が来て少し酒を飲んだ。夕方、宿屋ふし龍へ行った。晩刻、柳東(日柳燕石)、彌五郎、梅處(梅処尼)等が着いた。余は久保氏と悠々(福田侠平)を訪ねた。彼は北越へ行こうとしていた。数杯酒を飲んで離別をした。いつか江戸城下で会うことを約束した。柳東(日柳燕石)、梅處(梅処尼)等も来た。七時頃退出して宿へ帰った。

※注
□□は欠字です。
久保斷三;長州藩干城隊士(「修訂防長回天史総合索引」)
青木群平;周防大島郡地下医(「修訂防長回天史総合索引」)
柳東(日柳燕石);四月九日に記載。悠々(福田侠平);閏四月五日に記載。


五月十日
 朝、柳東(日柳燕石)等と雲泉を訪ねた。また佐伯屋を訪ねた。余は退出して桶久へ行き吉姥に逢った。この姥は昔から我らのために深い思いやりを尽くしてくれた。しばらくして曙亭へ行った。柳東、雲泉、青浦、小松屋、勝二、久保氏(斷三)と余と六七人同行した。詩を作り酒を飲み時を過ごした。二時に宿へ帰った。宿への帰り山田市(市之允、顕義)、片野十(十郎)等を訪ねた。山田は宿に来て別れを告げた。彼は海軍に加わり北越へ行く。四時過ぎ軍艦に乗りとも綱を解き出発した。暮れなって雨。

※注
片野十(十郎);長州藩奇兵隊士(「修訂防長回天史総合索引」)
柳東(日柳燕石);四月九日に記載。久保氏(斷三);五月九日に記載。

                                                      
五月十一日
 暁、玄界灘の唐津沖を過ぎた。一時崎陽(長崎)に着いた。終日微風が吹き細雨が降った。昨夜からずっと続いた。世外(井上馨)の旅宿の豊後街の諸藤屋へ行き、その後□□善街の青木久七方へ行き泊まった。

※注
□□は欠字です。


五月十二日
 微雨。朝長崎裁判所判事佐々木三四郎(高行)が来た。世外(井上馨)も来て長崎の近情を話した。午後西町奉行所元役所に行き澤公(宣嘉)に拝謁した。佐々木にまた面会し大邨(肥前大村藩)の人楠本平之允(正隆)に逢った。古い知人であったが何年も逢っていなかったので初めて会うようようだった。帰路、佐々木、野村宗七(盛秀)の家へ寄り、世外の旅宿へ行った。芸妓が数人来て少し酒を飲んだ。青木郡平(群平)、吉富藤兵衛、松岡□□、青木□□、等も来た。昨日松岡、青木に頼んでおいたように養子の正次郎が今日病院へ行き縫合した傷口の抜糸をした。五時頃おとみ、梅處(梅処尼)等が馬関より着いた。カラハの船便を借りたという。

※注
□□は欠字です。
青木郡平(群平);五月九日に記載。


五月十三日
 午後西役所へ行った。澤公(宣嘉)、大村侯(藩主純凞)、佐々木三四郎(高行)、野村宗七(盛秀)、楠本平之允(正隆)、井上聞多(馨)と余が出席した。耶蘇(キリシタン)の処置の会議があった。京都の決定の趣旨と当地の総督はじめ諸有志の意見にやや齟齬があり、時間をかけても決定しなかった。余はひそかに思う。つまるところ、将来のために見込みがあることならば時日をのばしても不都合はない。しかし疑い深く決心がつかないためにのばすのは済まされないことであり、しいて将来のためになることは実行しようと思う。条理をおって聞き尋ねたところ半分以上は決定したが、わずかに決められないものがあった。それで今日より明日まで各自が熟考した方がよいと考え、そのように惣督府へ申し上げ、全員が退出した。夕方ガラバ商社その他築地市中等を散歩した。夜、井上の旅宿の諸藤屋へ行った。

五月十四日
 朝、製造所と造船所へ行った。夕方西役所へ行き、昨日の未定のことを決めた。耶蘇(キリシタン)の中心人物達数十人を津和野藩へ預け、その他の移すべき者は後日蒸気艦を当港へ廻し時期を決めて捕縛することを決めた。それで中心人物の取り調べをその筋へ申しつけた。晩刻蘭人ボートインと約束があったので井上世外(馨)と出島へ行き面会した。通弁官□□を同行した。今朝渡邊昇と肥前人楠□□が来た。
※注
□□は欠字です


五月十五日
 今朝当地の銃隊調練を見分する約束があったが雨天のため延ばした。昼過ぎ英人アーストンが来た。数時間相談した。この方は丙寅(慶応二年、一八八六年)の馬関(下関)戦争のとき英軍艦に乗り込みずっと馬関に在留していた。それで古くからの知人である。かつて馬関出張の兵士で九州勢と戦い傷を受けた者が英国の医師の治療を受けた。これはみなアーストンが世話をしてくれたことである。夕方、大村人と約束があった。藩人の一瀬某が余を迎えに来た。迎陽亭へ案内された。同藩の人□□がすでに席についていた。酒肴は美を尽くしたものだっった。共に時勢を話しあいそれぞれが酔いを尽くした。七時過ぎ宿に帰った。宴席には芸妓八九名がいた。
※注
□□は欠字です。


五月十六日
 ガラバと約束があった。世外(井上馨)と同行した。江戸での新しい話を聞いた。信じることができないことが多かった。大村藩三岳勇三郎、湯川鐵見の二人が来た。このたび同行する人である。佐藤鱗太郎も来た。浪華(大阪)への船に乗せてくれるよう願った。夕方、雲泉等と池庄へ行った。茶台と玉杯を買った。この旅行で得たものでこれといって珍しい物はない。清人の描いた絵が二幅あった。帰りに世外の旅宿を訪ねた。夜十二時宿へ帰った。

五月十七日
 朝病院へ行った。昨秋診察してもらった蘭医□□に歯根の痛いところを見てもらい、服薬と密薬の二つの薬をくれた。今日大村藩長與專齋に初めて会った。吉富藤兵衛とともに行った。正午前稲荷山茶店で少し休憩し世外(井上馨)、吉富、青木(群平)等と福屋へ行き西洋料理を食べた。梅所(梅処尼)今田等も来た。食後一眠りして帰った。四時に佐々木(三四郎)、野村(宗七)、楠本(平之允)等と約束があったので宿へ帰った。三人はすでに来ていた。少し飲みながら九州のことについて詳しく話し合った。今日は雨が降った。
※注
□□は欠字です。
青木郡平(群平);五月九日に記載。


五月十八日
 終日大雨。家にいた。朝吉田□□が来た。夜世外(井上馨)を訪ねた。
※注
□□は欠字です。


五月十九日
 世外(井上馨)等と大浦に行き西洋の器物を買った。西洋の婦人が開いている店へ行った。帰路コンシュル□□を訪ねた。アーストンルも来た。□□がしきりに余を引き止め時勢のことを話した。四時に家に帰った。今日は晴れたり雨が降ったりした。
※注
□□は欠字です。


五月二十日
 朝西役所へ行き、惣督(澤宣嘉)に拝謁し三参謀に逢い、耶蘇(キリシタン)の処置を論じ大略を決めた。明日から着手する。前途に関わる外国との案件と当地の会計等について話し合った。今朝、兵隊世話役の野村□□が来て月調練を一見するようすするので、十二時過ぎ調練場に行った。軽重兵の運動、発銃、接戦法等のやり方を見た。調練の上では天下のなかでも熟達の兵である。ただ実地でどれくらいできるか分からないのが残念である。終わって写真場へ行き余、養子の正二郎、柳東(日柳燕石)その他がいっしょに座っているところを写した。日暮れ□□屋に行き少し酒を飲んだ。庭に西洋人の客が七八人来て子犬を追いかけて遊んでいた。七時に旅宿に帰りまた世外(井上馨)を訪ねた。今日は今月一番の晴天だった。
※注
□□は欠字です。
柳東(日柳燕石);四月九日に記載。


五月二十一日
 朝また雨。十二日に西役所へ出頭した耶蘇(キリシタン)党の者を今日呼び出した。彼等は昨日から指導者等の家に集会し出頭するかしないかの相談をし、ついに出頭を決めた。命令に応ずるよう六時前後に皆に申し渡した。加州の蒸気艦へ乗せ明日の暁に碇を上げ出発する手はずが決まっている。加州(加賀藩)の蒸気艦で運送することは極密に十四日に決定し用意を申しつけておいた。このたびは指導者の分で処置する人数は百□□人、分けて長州へ五十人、津和野へ□□人、福山へ二十人の配分とした。余は先に宿に帰った。ガラバが訪ねてきた。英国の船艦が昨日兵庫より来て新しい知らせを伝えた。その一つに紀州へ会津人が潜入したので土州長州二藩の兵が出たという一件があった。今日午後は大雨で暮になってもやまなかった。薄暮に靑木郡平(群平)と約束があった。柳東(日柳燕石)が同行した。郡平の旅宿へ行き誘って松竹梅楼に行った。世外(井上馨)、梅所(梅処尼)、吉富(藤兵衛)等も来た。圓山内外の芸妓七八人人が席に出た。この楼の主人は乙丑(慶応元年、一八六五年)の夏に馬関(下関)の伊勢小で知った人であった。酔いを尽くし十一時過ぎに宿に帰った。この夜はまた旅宿で酒肴の宴が用意されており、余は断ることができなかった。同行の人との宴の席は快く鶏鳴の時となったのがわからなかった。
※注
□□は欠字です。
柳東(日柳燕石);四月九日に記載。青木郡平(群平);五月九日に記載。


五月二十二日
 今朝、碇を上げ出港しようと用意をしたが、西南の風が猛烈でとも綱を解くことができなかった。十二時頃總督府に行き別れを告げた。今朝、加州(加賀藩)の蒸気船が耶蘇(キリシタン)党の中心人物をのせ、風波を冒して出帆した。世外(井上馨)が以前から我が太刀をしきりに望んでいたが、今日は大変真剣に求めるので断ることができず腰から外して太刀を贈った。人に譲ることは許さず、いつか我がもとに返すことを約束した。世外はあわせて詩を求めたので五言の一詩を作り剣にそえて送った。
曾獲古龍泉  かつてこの古龍泉の太刀を得て 
十年托死生  長年死生をこの太刀にまかせてきた 
天下大道塞  世の中の大道はふさがれており
誓要鋤榛荊  いばらを除き滅ぼすことを誓う
四方久騒擾  世の中は長い間乱れており
幾度共遠征  何度もともに遠征した
同友趣難日  友と同じように苦しい時に赴くとき
又従腰間行  腰について来た
春雨暗山野  春雨が山野を暗くすれば
壮心夢屢驚  強い心の夢はしばしば目覚める
秋風摧草樹  秋風が草木を吹きしだけば
匣中吼有聲  鞘の中で太刀は声を上げてほえる
千載道義重  永遠に道義は重く
一身名利軽  この身の名声と利益は軽い
百難還萬苦  多くの困難と多くの苦しみはめぐり
平生只一誠  平素から真心をつくさなければならない
卿太望此劍  あなたは大変この剣を望んだ
断然脱贈卿  きっぱりと刀を腰から外しあなたに贈る
昨夜有新報  昨夜新しい知らせがあった
東賊尚發兵  幕府は今なお兵を出している
劔也任未盡  剣はその任務を未だ尽くしてはいない
東西却離情  江戸と京では心が離れている
請君平生志  君に平素から真心をつくすことを求める
日夜益勵精  日夜ますます心を奮い立たせよ
波濤万里外  波濤遠き海の外まで
威名與劔鳴  威光と名誉を剣とともにひびかせよ
贈劍井上氏  剣を井上氏へ贈る
副以此詩   この詩をそえて
夜世外が旅宿を訪ねて来て別れを告げた。内外の実情と思っていることを十分話し忠告した。世外は十時過ぎ帰ったので乗艦の用意をした。今度の旅行で得た愛すべきものは板橋の蘭竹、□□、陸の山水のみである。その他は書くに足りないものである。
※注
□□は欠字です。


五月二十三日
 四時過ぎに乗艦し直ちに碇を上げた。大村藩三岳(勇三郎)、湯川(鐵見)が同行した。二人は渡邊昇その他が深く頼んだので断ることができなかった。二人は三田尻へ行き戸田に英学を学ぶことを望んでいる。土藩(土佐藩)の□□は浪華へ同行する。七時から八時の間風波が大変激しく、大波が二三回艦内に入り甕や碗が砕けこわれた。十一時頃ようやく弼浦に着き停泊した。船宿の多々良孝平が訪ねてきたので上陸し彼の家に行き同行の者が集まって少し酒を飲んだ。孝平は以前に杉呑鵬(孫七郎)より聞いていた有志の人である。彼の知る数名の人に書を請われ二三枚書いた。
※注
□□は欠字です。
杉呑鵬(孫七郎);閏四月二十一日に記載。


五月二十四日
 五時碇を上げ二三里を行ったがケートルをこわしたのでやむを得ず弼浦に帰って泊まった。昨日の宿へ行き杉呑鵬(杉孫七郎)、山本重助、井上聞多(馨)に送る書面を書いた。三時頃ようやくケートルが整った。水夫と水先挙船は未熟なものが多い。明日夜が明けて明るくなるの待って出発することにした。弼浦の西端の第一の楼に行き柳東(日柳燕石)、青甫、雲仙、宗像等と少し酒を飲み夜になって艦へ帰った。
※注
杉呑鵬(孫七郎);閏四月二十一日に記載。柳東(日柳燕石);四月九日に記載。宗像;閏四月二十七日に記載。


五月二十五日
 朝六時碇を上げ五時馬關(下関)に着いた。海上で筑前の船艦が北国より帰るのにであった。艦中で二詩を作った。馬關の旅宿は人が多かった。夜、吉富(藤兵衛、簡一)、宗像等が余を誘い宮屋の後楼で別れの飲み会を開いた。
※注
吉富簡一;閏四月十八日に記載。宗像;閏四月二十七日に記載。


五月二十六日
 朝より山口政府へ送る書状を書いた。午後八幡社へ参詣した。妙沈荘で雅友と別れの飲み会を開いた。会った者は久保(斷三)、吉富(藤兵衛、簡一)、雲仙、青甫、柳東(日柳燕石)と紅喜の人等十余人だった。紅喜に行き一泊した。
※注
久保(斷三);五月九日に記載。吉富簡一;閏四月十八日に記載。柳東(日柳燕石);四月九日に記載。


五月二十七日
 朝五時過ぎ碇を上げ十時三田尻に着いた。津國屋へ行き、養子の正二郎を従僕の又吉にまかせて山口に帰らせた。松原音三、正木泰藏、竹内庄藏、光田三郎、藤本哲之助、有富□□、藤松多之助、江戸屋その他五六人の人が来た。亞人(アメリカ人)ベタルも来た。哲之助は竹田の書画の堤籃を持ってきた。かつて岡竹二郎と約束していたものである。四時過ぎ艦に帰った。この旅行では青浦を同行させた。東風が大変激しく艦に入ってきた。
※注
□□は欠字です。
松原音三;山県九右衛門、撫育型頭人役(「修訂防長回天史総合索引」)
正木泰藏;小姓役(「修訂防長回天史総合索引」)
竹内庄藏;整武隊中隊司令(「修訂防長回天史総合索引」)



五月二十八日
 風波が大変穏やかだった。暁に芸州□□を過ぎた。薄暮に播州洋に着いた。薩州(薩摩藩)の蒸気艦にあった。今日は天気朗明で山陽と豫州(伊予)の景色が大変おもしろかった。
※注
□□は欠字です。


五月二九日
 暁に神戸に着いた。上陸し芳梅(伊藤博文)を訪ねた。京大坂の近況のあらましを聞いた。実に嘆かわしいのは姫路藩と松山藩が償金を出し朝敵の大罪を免れたことである。天皇が国家を治める基礎が定まらないのはこういうことがあるからである。今日数万の兵士が数千里の外に骨をさらし戦っているのは、大義名分と人臣の分を尽くそうとしているからである。たとえ一人の命でも数十万の金で買うことができるものではない。それなのに人臣の大罪を償金とひきかえに許すとは、何たることか。法を大変ゆるやかに適用され死罪を許されたのは、祖先をお思いになったからである。子孫が絶えないように処置されたのは朝廷の情け深い心である。このようなことになって會津や庄内をこの後どうしたらよいのか。天皇の威光が振るわないのはこのようなことが基である。皇統連綿天壌無窮、皇室が尊いことは世界の中で我が神州に比べるものはない。それなのにこのような大罪を西洋の償金の法に従い処理するとは大変嘆かわしいことである。このようなことがあるのでは急いで京都へ入る心にはならない。十二時に乗艦し一時に天保山に着いた。ヒコサを訪ねた。メケンシにも会った。三時過ぎに中ノ島の鴻市(鴻池市兵衛)の別荘に着いた。君上(毛利敬親)はすでに昨日上京されていた。北翁も従っていた。小松(帯刀)を訪ね、また藤井(勉三)を訪ねた。八時宿に帰った。
※注
鴻池市兵衛;四月十一日に記載。藤井勉三;四月十一日に記載。


五月三十日
 朝後藤(象二郎)を訪問し半日閑談した。帰りに了巖を訪ねた。夜柳東(日柳燕石)、青甫とともに徹雲を訪ねた。廣瀬□□がいて初めて会った。しばらくして去り三人と共に金國堂へ行った。夜半舟で宿に帰った。
※注
□□は欠字です。
柳東(日柳燕石);四月九日に記載。