閏四月の木戸の主な出来事は次のようです。
閏四月二日  初めて議定山内豊信(土佐藩主山内容堂)と懇談する。
閏四月三日  佐賀藩士江藤新平を推薦する。
閏四月六日  浦上キリスト教徒処分のため長崎出張の朝命を受ける。
閏四月十日  大阪を出発し十四日山口に入る。
閏四月十一日 伊藤博文の旅宿で牛肉を食べる。
閏四月十四日 藩主毛利敬親に拝謁し内外一致国家のために協力すべきことを陳述する。十七日さらに大義名分を論じ版籍奉還をするよう進言する。
閏四月二十一日参与に任じられ従四位を授けられる。六月四日拝命する。
閏四月二十一日山田宇右衞門の墓に参り往事を追懐する。
閏四月二十六日公、山口を出発し萩に行く。


閏四月朔日
 今日、英国公使、海軍提督そのほか船將等十余人が、王政御一新につき英国王より出された祝書を持参した。参内して天皇にお目にかかった。一時に終わった。今日は藩邸中の稲荷社の祭礼だった。芳楳(伊藤博文)と共に藩邸へ行き藤井七郎左(七郎左衛門)を訪ねた。客が充満していた。お酒を少しいただいて去り、芳梅(伊藤博文)の宿舎へ行った。共に船を浮かべて北地へ行き河佐楼へ行った。三更(十二時)宿舎へ帰った。此日、障岳(廣澤真臣)から関東で残賊が蜂起した警報を知らせてきた。障岳の策略は余の意見と大同小異だが、ただ次の件は余と異なっているので次のように答えた。準一(余)は次のように考える。大略は同意である。ただ、江戸城からの退去は余の考えとはなはだ齟齬している。江戸城へ入城していないときならば賊の動静により進退を決めるべきである。一旦、江戸城に入りこれを捨て去ることは全国の兵の志気に少なからず関係する。江戸城を根拠として兵を出し甲府と碓氷峠を守り、精鋭の兵を集め東海道から進軍し、北は北陸道の兵勢を盛んにして越羽に進入しその境上に迫るとき残賊は風に応じて去るだろう。江戸城は誓って去るべきではない。□□戦わずして平定の理を天地に求めることはできない。平定は決戦の中にある。みだりに凶器を好むのではない。一人を殺して億生を救うのである。

注;□□は文字が書けている部分です。
藤井七郎左衛門;四月十一日に記載。


閏四月二日
 昨夜、岩倉卿(岩倉具視)が大阪へ来られた。今朝六ツ時(六時)、條公(三條實美)の旅館で大会議があった。出席したのは、各総裁(三條實美、岩倉具視)、中山大納言(忠能)、烏丸侍従(光徳)、宇和侍従(宇和島藩伊達宗城)、長岡左京之亮(護美)と余であった。慶喜(徳川慶喜)が服罪し江戸城が平定したので、近日中に京都へ還幸されることに決定した。けれども幕府の残賊は未だ壊滅していないので動静により直ぐに大坂へお出ましになる天皇のお考えである。後藤象二(象二郎)も来て会議へ出た。十時から條公(三條實美)とそのほかの方は英国の軍艦へ行った。祝砲の響きが大阪の街中に響いた。今夕、容堂公(土佐藩主山内容堂)と約束があった。長堀西浜の土佐藩邸へ行き初めて容堂公にお目にかかった。宇和島公(宇和島藩伊達宗城)も来た。日頃の病がまだ癒えず酒を十分いただくことができなかった。象二郎と藩留守居役武市八十衞が同席した。夜十時旅舎へ帰った。

※注
中山忠能;(ただやす)明治天皇の外祖父、公家、議奏・国事御用掛、議定。(「防長回天史、総合索引」)
文化六年(一八〇九)~明治二十一年(一八八八)。老中堀田正睦が条約勅許を求めて上洛中の安政五年(一八五八),正親町三条実愛らと共に反対の建議書を提出。次いで八十八廷臣の列参奏上に参画,同年議奏に就任して朝議決定の構成員となった。和宮御縁組御用掛に任命され、文久元年(一八六一)江戸に赴く。次いで島津久光および薩摩藩の公武合体運動を支持,尊王攘夷派の志士と攘夷派廷臣の攻撃にさらされ,同三年議奏を辞職した。翌元治元年(一八六四)、前年の八月十八日の政変で失った勢力の回復を図って長州藩が武力上洛を敢行するが、その際支持の姿勢を示す。禁門の変で長州藩兵が敗北した直後、参朝・他人面会・他行の禁止に処せらる。慶応三年(一八六七)1月孝明天皇の死に伴う大赦によって処分解除。同志の長老として岩倉具視、中御門経之らと共に王政復古の政変を画策、討幕の密勅作成に関与した。政変後、三職制が新設されて議定に就任。以来,輔弼,神祇官知事、神祇伯。明治二年(一八六九)王政復古の功により賞典禄一五〇〇石を永世下賜。同四年麝香間祗候、同七年華族会館の設立に尽力、御歌会式取調掛、柳原愛子(大正天皇生母)御産御用掛、明宮(大正天皇)御用掛などを務め、80歳で没した。(コトバンク)
祐宮睦仁親王(明治天皇)は五歳まで中山家で育てられた。中山家は祐宮誕生の際に産屋を建てる金が無く、多額の借金をした。明治十七年(一八八四)に華族令の施行で華族が五爵制になると侯爵に叙せられた。叙爵内規では旧公家からの侯爵は清華家と定められており、羽林家の中山家は該当しなかったが、忠能の維新の功、および忠能が明治天皇の外祖父にあたるという関係から特例で侯爵に叙せられた。(ウィキペディア)

烏丸侍従光徳;からすまる みつえ、天保三3年(一八三二)~ 明治六年(一八七三)。尊王攘夷派公家として活動し、慶応三年(一八六七)、王政復古によって新設された参与の一人となる。慶応四年(一八六八)四月に参議となり、五月に東征大総督有栖川宮熾仁親王とともに江戸に下向、軍政下で江戸府が開設されると、同月江戸府知事となった。江戸には旧江戸幕府町奉行所を吸収した南北市政裁判所が置かれていたが、七月に南北市政裁判所を合併して東京府が設置される。八月初代東京府知事となった。東京府設置後も府の実態は市政裁判所の延長に過ぎず、京都から来た公卿は知事としての職務を遂行することが難しかった。十一月には東京府知事を辞任し、京都に戻った。明治二年(一八六九)賞典禄50石を授けられ、華族制度の発足によって華族になっている。

長岡左京之亮:長岡 護美(ながおか もりよし)。文政七年(一八四二)~明治三十九年(一九〇六)。外交官、華族(子爵)、貴族院議員。錦鶏間祗候、麝香間祗候。肥後熊本藩主・細川斉護の六男。嘉永三年(一八五〇)、喜連川藩主・喜連川煕氏の養子となり金王丸と称した。安政三年(一八五六)に元服し、喜連川紀氏と名乗った。官位は左兵衛督。安政五年(一八五八)、喜連川家を離籍し、実家の熊本に戻った。明治元年(一八六八)三月、明治新政府の参与に就任する。同月、従五位下左京亮、同年閏四月、従四位下侍従に昇進する。明治三年(一八七〇)、熊本藩知事で兄の細川護久に重用されて、大参事に就任する。藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行った。明治五年(一八七二)から明治十二年(一八七九)まで、アメリカを経てケンブリッジ大学に留学する。帰国後、旧熊本藩細川家から分家し、華族に加えられる。明治十三年(一八八〇)、外務省に入省してベルギーやオランダの公使、明治十五年(一八八二)、元老院議官に就任する。その後男爵、子爵に陞爵。貴族院議員をつとめ、錦鶏間祗候、麝香間祗候となる。(ウィキペディア)


閏四月三日
 朝、條公(三條實美)の旅館へ行った。此日、英国公使等が旅館に来た。応接に出席した者は、両総裁(三條實美、岩倉具視)、山階宮(晃親王)、宇和島公(宇和島藩伊達宗城)、坊城卿(坊城俊章)、後藤象二郎、大隈八太郎(重信)、他に外国掛り二名、世外(井上馨)、芳梅(伊藤博文)、余の十二人であった。越後の開港および延期のこと、旧幕府との間に約束があった大阪開港のこと、江戸の開市および延期のこと、長崎のキリスト教徒等の事件について、長時間議論し、十時から四時になった。それは我々が論を曲げなかったからである。大隈はキリスト教についての論を最も愉快に述べた。土藩の小笠原唯八が来て先月十六日、十七日、十八日の関東官軍苦戦の情勢を告げた。二手の官軍の不和の説があるという。小笠原唯八と肥前人の江藤新平を徴士に命じ、大総督に属す軍監とすることを岩卿(岩倉具視)へ申し上げ決定した。江藤新平は文久二年に勤王のため一旦亡命していたのを余が救って京都に潜伏させたことがあった。慶喜(徳川慶喜)が服罪したので、大総督の宮(有栖川宮熾仁親王)を江戸鎮台兼会津征伐大総督に改めて命じられ、備前侯(池田章政)を江戸鎮台輔兼警衞に命じることを決定した。世子公(毛利元徳)の帰国と余の長崎行きの内決があった。国情について井上世外(馨)、品川素狂(弥次郎)等の申し立てがあったからである。これを機会に帰国することができる。六時過ぎに退去した。此昼に誓得寺、□□、会席の約束があった。直ぐに輿を飛ばして行った。客は、伊勢小淞(伊勢華)、日柳柳東(日柳燕石)、長安和總、尾崎□□、外僧の知人三四人だった。八時に退去し、また京久楼へ行った。少し飲んで船に乗って帰った。すでに四更(二時)だった。小淞は楼に泊まった。夜半大雨。

※注
□□は文字が欠けている部分です。
山階宮晃親王;皇族、国事御用掛、外国事務総督(「防長回天史、総合索引」)

坊城俊章:ぼうじょうとしあや。嘉永元年(一八四八)~明治三十九年(一九〇六)。公卿(くぎょう),軍人。元治元年(一八六四)侍従。戊辰戦争の際,各地の巡察使となった。明治三年(一八七〇)初代山形県知事に就任するが,独断で税の減免をおこない免官となる。日清戦争に陸軍少佐で近衛歩兵第三連隊大隊長として出征した。貴族院議員。享年六〇歳。(コトバンク)


小笠原唯八;文政十二年(一八二九)~明治元年(一八六八)。土佐藩士。変名は牧野郡馬。贈正五位。高知城下に、小笠原弥八郎(馬廻格、二五〇石)の嫡男として生まれる。藩主・山内容堂の信頼を得て、側物頭加役をはじめ、大監察兼同軍備御用役や仕置役等の要職に就く。土佐勤皇党の間崎哲馬らを取り締まり、元治元年(一八六四)には清岡道之助らによる「野根山屯集事件」を鎮圧する等、当初は佐幕派に属したが、後藤象二郎と共に薩摩藩との折衝に当たったことから次第に勤皇的思想を持つに至った。後に板垣退助や中岡慎太郎らと共に武力倒幕主義に傾斜したことから、一時失脚を余儀なくされた。戊辰戦争では迅衝隊の別撰隊小隊司令として藩兵を率い、佐幕派の伊予松山藩を降伏させた。その後、官軍の大総督府御用掛や江戸府判事、江戸北町奉行等に就任する。上野戦争や東北諸藩との戦いにおいても活躍するが、明治元年の会津戦争で討死した。享年四十。(ウィキペディア)
伊勢華;四月十一日に記載。日柳燕石;四月九日に記載。


閏四月四日
 朝、昨日大阪へ着いた綱緩、□□、等が来て、身の上を余に預けるというので寄留を決めた。後藤象二郎と約束があり十二時過ぎに訪ねて来た。彼は大いに抜擢の論を話した。余は前から彼の議論に反対していたので対立した。余が常に言うのは次の通りである。人を得るのは難しい。一旦、人を推挙しておいてにわかに退けることは、政事においてたいへん害がある。それで容易に人を抜擢するのを恐れる。抜擢するときはその人に全任しなかったなら益はない。有能な人があるのを抜擢することは公論である。だからよくその人を知って抜擢するのはよいことである。そうでないときはかえって国家の大害を残す。人を得るに最も専要なことを話し合った。談話中に障岳(廣澤眞臣)から書状が来た。東北の形勢により尾州から依頼があり西園寺(公望)卿が出陣されるという知らせだった。一時に役所へ行き條公(三條實美)へ申し上げた。西園寺卿を第二総督に、長岡左京之亮(護美)を副総督にする命令があり侍従に任じられた。此日、廣岡(久右衞門)から神戸同行の招待の約束があり、五時に堺辰楼へ行った。一緒に神戸へ行った外の者は小淞(伊勢華)と鴻市(鴻池市兵衞)の二人だった。清土の流儀でごちそうしてくれた。器物、肉、菓子は極めて珍しいものだった。十一時旅宿へ帰った。

※注
□□は文字が欠けている部分です。
長岡左京之亮;閏四月二日に記載。廣岡久右衞門;四月十三日に記載。伊勢華、鴻池市兵衞;四月十一日に記載。
 

閏四月五日
 暁四時、門を敲く者があった。山縣素狂(有朋)、福田悠々(侠兵)の二人だった。西郷(隆盛)等と航海し江戸から帰ってきた。関東大総督府の政策議論で緩急寛猛の二派があるので、余に速やかに上京し大いに西郷を助けるよう勧めた。余は西郷の説を聞き余が今日努力するべきと考えていることと一致していると思った。ただ軍艦派遣の件は少し異なっている。二人は余の軍艦を派遣しない考えに賛成した。余にはすでに帰国の話がある。それで、東西の利害の軽重をもって決めようと議論を尽くした。結局、帰国し長崎へ行くことが重大と決めた。そこで、福田悠々とともに帰国し長崎へ行くことに決めた。八時役所へ行き、條公(三條實美)にお目にかかり、関東の実情を述べた。先月十九日と二十三日に官軍は烈戦し終に宇都宮を平定したことなどである。みな二人の報告である。戦いはひとまず終わったが、薩(薩摩藩)が先鋒、第二が我が長州(藩)と大垣(藩)、第三が土因(土佐藩因幡藩)等である。薩は先鋒で烈戦し死傷者が四十人を超えたという。彦根(藩)から條公に出した書面を見た。十七日頃の戦争では彦根(藩)の死傷者が最も多い。板倉伊賀父子が宇都宮城で斬殺されたという。父子は全幕臣の罪の魁ではない。この災いにあったことは最も不幸なことである。慶長以来、諸侯のなかで父子がともに人手にかかって斃されたことは聞かない。ひそかに考えるに徳川のはじめから父子の祖先や父子が京都所司代を勤め大いに王家を圧するものがあった。それを除くのが喜びだったのか。実に恐るべきである。五時退出した。帰路、芳梅(伊藤博文)また素狂、悠々を訪ね、薄暮に旅宿に帰った。芳梅が船を浮かべて共に遊ぶことを促した。小淞(伊勢華)と富田楼へ行き泊まった。中井幸藏等も仏国コンシェル等と楼で快飲していた。

※注
福田悠々:侠平(きょうへい)。文政十二年(一八二九)~明治元年(一八六八)。長州藩士。名は良輔、諱は公明、号は悠々。周防国吉敷郡後河原(現山口県山口市)の長州藩士、十川権右衛門の次男として生まれた。のちに大津郡伊上村(現長門市)の福田貞八の養子となり、福田姓を名乗る。文久三年(一八六三)、三十五歳のとき、下関で奇兵隊が結成されると志願して入隊。元治元年(一八六四)には書記役として英仏蘭米四カ国連合艦隊との戦闘(下関戦争)に従軍、同年参謀へと昇格し、翌慶応元年(一八六五)には山縣有朋とともに軍監を兼務する。高杉晋作の功山寺挙兵に際してはこれを暴挙として高杉の馬前を遮って止めようとしたが、最終的には高杉に同調し、奇兵隊士を集めてこれに参戦した。その後絵堂・大田の戦い、第二次長州征討(四境戦争)では小倉口の戦いを歴戦し、戊辰戦争においては北越戦線から陸奥へと転戦する。明治元年十一月、戊辰戦争に勝利して凱旋、下関に滞在していたところ突然卒倒して死亡した。明治政府の成立を祝って大酒をしていたところ、二日後に倒れそのまま急逝したという。大の酒豪であり、戦闘中も酒を常に携えていた。戦況が不利になった時にも酒を飲みながら「騒ぐな、あせるな」と平然と指揮を続けたという。二十歳代の若い指導者が多い奇兵隊の中で、総督である高杉よりも十歳上の福田は良き相談役であるとともに、若い志士たちの軽挙を諫める思慮深い一面もあった。このことから、高杉晋作が最も信頼した男とも言われる。 福田も年下の高杉に心酔していたらしく、その遺体は遺言により高杉の墓の隣に葬られた。(ウィキペディア)

中井幸藏:慶応四年(一八六八)三月二十三日、天皇の接見を受けるために、英国公使パークスが京都御所に向かう途中で、刺客に襲われた。護衛役の中井幸蔵と後藤象二郎が犯人の朱雀操を斬り殺した。三枝蓊(しげる)は重傷を負って捕らえられ、後に斬罪された。

伊勢華;四月十一日に記載。 


閏四月六日
 朝小松(帯刀)を訪ねた。世子君(毛利元徳)が帰国をお願いした趣旨を説明した。薩(摩)と同誓している理由からである。山縣素狂(有朋)も来た。余は関東の土産の上布を贈った。世子君の帰国についていろいろの論があり、終日このために奔走し説明した。昨日西郷(隆盛)へ関東に係る一長文を書いて送った。今日帰国が決まったので障岳(廣澤眞臣)へ一書を送った。お召しがあり天顔を拝した。命令があった。「木戸準一郎 長崎表の切支丹宗徒御処置の儀は容易ならざる事件につき、取り扱いを仰せ付けるので早々に出発し尽力すること」と。五時退出し吉川邸へ行き、また御本陣へ行って世子君に拝謁した。讃州公(讃岐高松藩松平頼聰)と岩国世子公(吉川経健)もおいでになった。余も同席し酒を数杯いただいた。八時旅宿に帰った。
      
閏四月七日
 朝行在所へ行った。卯の刻(六時)、天気は麗しく天子は還幸された。急に上京の命令があった。小松(帯刀)、後藤(象二郎)氏へまかせ、長崎行きの命令があるので上京は断ると申し出た。松本鼎三、中村芳之助、赤川敬三が大阪へ着いた。御国(長州藩)と京阪の実情が分からず人々が疑惑しているからである。山縣狂介(有朋)が来た。共に内外のことを論じた。御国を安定させることを急がなければならない。三人は御本陣へ行き、狂介と大略前策を論じ決定し帰った。午後、小松が来た。世子君(毛利元徳)の帰国、余の帰国のことを論じ、余の出立を一日延ばした。未刻(二時)に上田三郎右衞門のところへ行った。会席した客は伊勢小淞(華)、廣岡久(久右衞門)、鴻池市(市兵衞)、藤井七郎左(七郎左衛門)、長安和惣、尾崎□□である。薄暮よりみんな河佐へ行った。山縣狂介、松本鼎三が尋ねて来た。狂介は今から上京し直ちに越後へ行くので、来て別れを告げた。世子君の御帰国と余の帰国の主意を薩(薩摩)人によくわかってもらうように話した。狂介は別れに臨んで扇を出し書を願った。世人不知行人意(世人は行人の意を知らず)、一剣寥々春雨中(剣は春雨の中で寥しく見える)の二句を書いて別れとした。鼎三も共に去った。四更(二時)旅宿へ帰った。

※注
□は文字が欠けている部分です。
上田三郎右衞門;天明八年(一七八八)の長者番付には鴻池善右衛門や三井八郎右衛門らをおさえて、平野屋五兵衛と上田三郎左衛門が大関に名を連ねている(この頃横綱の位はなく、番付では大関が最高位だった)。上田の居宅は現在の府立中之島図書館の西にあり、間口二十三間(約四十四m)という敷地は大名の蔵屋敷にも匹敵する広さだった。この邸宅は「御預地」といって、幕府から提供をうけた土地だった。上田はもともと北国廻りの廻船問屋だった。享保の飢饉で名をうり、やがて幕府の御蔵米を輸送する廻船問屋となりまもなく大坂城の御蔵米をあつかう「御蔵米払方入札銀掛屋」に指名された。こうして大坂城の米が、中之島にある上田の邸宅で入札販売されるようになり、売却代銀は為替に組んで江戸に送った。このため江戸の駿河町にも店をもつようになった。そして三井組とならんで幕府の公金をあつかう「金銀為替御用達」となった。江戸時代の大坂商人はもっぱら西国大名との関係を大事にして幕府の御用を勤めようという気持ちはありませんでした。ところが上田三郎左衛門は幕府とのつながりを深めることで成長した。(ブログ「上田三郎右衞門について教えてください」)


松本鼎三:通心寺は、東光寺の末寺で黄檗宗です。この寺にいた釈提山という僧が、松下村塾に通っていました。提山は、天保十年(一八三九)周防佐波郡田島村(現防府市)の農家の生まれです。村塾には安政四年(一八五七)十一月、十九歳の時に通い始めたようです。安政五年、野山獄へ再び送られる松陰の駕籠を見送り、生姜糖一袋を差し入れしています。提山は、その後還俗して松本鼎三(造)、鼎と名を改め、禁門の変や幕長戦争、五稜郭の戦いなどに参戦しています。維新後は和歌山県知事や貴族院議員を務め、京都尊攘堂の維持・運営にも尽力しています。(ブログ「春風狂想曲」)

中村芳之助:南園隊、振武隊参謀。慶応元年(一八六五)、大田絵堂の戦いの時、一月七日未明、中村芳之助、田中敬助の両名が戦書を俗論党栗谷帯刀の本営(現美祢市柳井氏宅)に投じている。

赤川敬三: 戇助(こうすけ)。天保五年(一八四三)~大正十年(一九二一)。長州藩士。明治期の内政官僚、神職、秋田県令。名・忠郷(たださと)。通称、敬三。明治に戇助と改める。長州藩医・赤川玄悦の長男として生まれた。藩校・明倫館で学び、さらに藩医学館・好生堂で学んだが、文久元年(一八六一)から国事に奔走した。文久三年、下関事件に参加。同年六月、中山忠光に従い京都へ向かうが、途中でフランス海軍艦船による馬関攻撃の報を受け萩まで戻った。同年十月、同志を集め膺懲隊を組織。 元治元年(一八六四)、膺懲隊の司令となり四国艦隊下関砲撃事件に参戦した。慶応二年(一八六六)第二次長州征討では膺懲隊を指揮して芸州浅原口で戦った。明治元年(一八六八)、膺懲隊と第二奇兵隊が合わさり健武隊が組織され副総督に就任。翌年に藩の軍制改革で諸隊は解散した。明治政府に出仕し、明治五年(一八七二)宇和島県権典事に就任。以後、大洲支庁長、神山県権典事、愛媛県権典事・庶務課長、同権参事、同少書記官、同大書記官、福岡県大書記官、青森県大書記官、内務少書記官・取調局事務取扱、戸籍局長心得などを歴任。明治十六年(一八八三)、秋田県令に就任。政府と県会の板挟みとなり十分に能力を発揮できなかった。明治十九年(一八八六)、非職となる。明治二十一年(一八八八)、東京府島司に就任。明治二十三年(一八九〇)、依願免本官(諭旨)となる。明治三十五年(一九〇二)、廣田神社宮司に就任。松尾神社(松尾大社)宮司を経て、明治四十年(一九〇七)、長田神社宮司に就任し、在任中に死去した。

廣岡久右衞門;四月十三日に記載。伊勢華、鴻池市兵衞、藤井七郎左衛門;;四月十一日に記載。

閏四月八日
 朝井上世外(馨)が来た。松本鼎三も来た。彼は昨日君(毛利元徳)の前に出て国情を述べたという。十一時、御本陣へ行った。近臣の一人と政府の國貞廉平の帰国のことを話し合った。決まらないので君裁を願った。三時に退去した。帰路、大島似水を訪ねた。五時旅宿に帰った。長崎の同行につき納得のいかない命令があり、これを論じた井上宗右衛門が来て弁解した。此晩、下僕の来吉が京都から来た。余が大阪へ来るとき彼は病気だったので付いて来ることができなかった。廣澤(眞臣)の書翰が来た。御堀春江(耕助)、時山直八、僧善心の書状もその中にあった。
付記。御堀の書状は三月二八日、三月□□の日付のもので二通とも遅着した。


□□は文字が欠けている部分です。
國貞廉平:名ははじめ景孝、景廉から景行。通称鶴之進。直之進から直人に改め、明治三年(一八七〇)廉平と称す。号韓山、蹇庵。大組士(門閥士族で中土上等)六十五石二斗の国貞要助の嫡男。天保十二年(一八四一)萩に生まれる。藩校明倫館に入学、万延元年(一八六〇)二十歳のとき、江戸に出て桜田藩邸内の有備館に学ぶ。大橋訥庵の門にも入った。文久二年(一八六二)出仕して世子定広(のちの元徳)の近侍となる。慶応元年(一八六五)正月、鎮静会議員に加わって内乱を収拾し政府改造に力を尽くした。五月干城隊頭取、文学寮都講を経て九月国政方。同二年(一八六六)二月広島に使して、長州藩廃削の幕命は受けられない旨を、老中小笠原長行に伝えた。暮には小倉藩との止戦講和にあたり同三年(一八六七)一月和議成立。同年十一月、一門の毛利内匠を総督とする上京諸隊に参謀として加わり、十二月、長州兵は文久三年以来はじめて入京、禁門の衛に就いた。明治元年(一八六八)十月の新職制により、藩の二等官次席、同二年(一八六九)八月山口藩参政、十月会計少参事を兼務、さらに権大参事に進み、十二月諸隊脱走兵反乱の鎮撫に腐心した。同三年(一八七〇)四月いったん辞職、七月ふたたび少参事となる。同七年(一八七四)内務省に出仕、同十三年(一八八〇)愛知県の県令に進み正五位に叙せられた。明治十八年(一八八五)一月十八日在任中に名古屋で病死。享年四十五歳。憲徳院韓山良章大居士。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「故愛知懸令正五位国貞廉平君墓」。(掃苔帳)

松本鼎三;閏四月七日に記載。大島似水;四月四日に記載。


閏四月九日
 朝、十余枚の唐紙と二帖を書いた。□□と約束があり十時より浮船で天王寺の小池坊を訪ねた。同舟の客は小淞(伊勢華)、藤井七(七郎左衛門)、永安和(總)、廣久(廣岡久右衞門)、鴻善(鴻池善右衛門)、鴻市(鴻池市兵衞)、尾崎等に余である。昨夜雨が降り漸く晴れたが会席中また雨が降り青苔緑樹に色を添えた。小松帯刀の書状が京都から来た。明日長崎へ行くことにいよいよ決まった。世子公(毛利元徳)の帰国も九日十日両日中に決定されるという言葉があった。漸く先日来の尽力が実現すると感じる。けれども天下の形勢は容易ならざるものがある。世子公が大阪におられるかどうかもそれに大いに関わる。この故に今後の都合に齟齬が起こらないことを望む。一旦、條岩二卿(三條實美、岩倉具視)薩公(薩摩藩島津久光)とに約束が齟齬するときは、その災いは小さくなく、天下の興廃に必ず関係する。これまでの京都以来の書状を全て束ねて柏村侍御(数馬)へ送る。暮時に辞去し共に堺辰楼へ行った。すでに廣久、福原狂、佐々木等が来ていた。暁天の頃宿舎へ帰った。

※注
□□は文字が欠けている部分です。
小淞、鴻池市兵衞;四月十一日に記載。廣岡久右衞門;四月十三日に記載。鴻池善右衛門;四月十五日に記載。


閏四月十日
 朝、大島似水、廣久(廣岡久右衞門)、鴻市(鴻池市兵衞)父子、上田□□等が来た。余の長崎行きにつき昨日對公((対馬藩主宗義達))から虎皮一枚を餞別として贈られた。十一時家を出て、西宮で小休憩し、七時過ぎ神戸に着いた。鐵屋に泊まった。世外(井上馨)はすでに来ており芳梅(伊藤博文)とともに兵庫の□□へ行った。余もまた遅れて行った。今日神戸駅頭でガラバメケンシに逢った。ガラバは余が輿(こし)の中にいるのを見て訪ねてきた。

※注
□□は文字が欠けている部分です。
大島似水;四月四日に記載。鴻池市兵衞;四月十一日に記載。廣岡久右衞門;四月十三日に記載。鐵屋四月二十一日に記載。


閏四月十一日
 朝ガラバ商社へ行った。思いがけず五代才助(友厚)に逢った。ヒコザーにも偶然面会した。ガラバと艦船の借用について話し合った。彼は承諾した。しかし契約はしなかった。大阪で引き続き談判することを約束した。公(毛利元徳)のご帰国の用意のためである。ヒコザーと商会のことを話し合った。藤井(七郎左衞門)、吉松(平四郎)等に交渉させたいと思う。土州(土佐藩)の人□□、筑前(福岡藩)の人□□に面会した。此日ガラバが横浜の新聞を見せた。官軍敗北の記事が二報あった。信ずるべからず、また侮るべからず。かつて官軍の薩(摩)兵が下総八幡へ進軍したと聞いたことがある。江戸近辺の合戦についていささか安心できないものがある。小松(帯刀)、西郷(隆盛)、大久保(利通)、後藤(象二郎)、廣澤(眞臣)の諸氏へ一書を出した。その主意は鋭鋒を集め迅急に残賊を掃撃し、その後に徳川の家名やその他の問題を条理をもって命令せんことを願う。関東の戦争は実に大政一新の最良の方法である。しかし遷延し時機を失するときは、取り返しのつかない大患害を生ずる。根本において大強忍大安泰の規模を確立し、小さい利害を顧みず迅速に一定の策を定めることを願う。次いで六、七件のことを述べた。
一、製鉄艦の事。五十万ドルを出し受け取るべきだという説があるがはなはだよくない。旧幕府においてすでに四十万ドル出しており残りはわずか十万ドルである。旧政府が注文したものを当政府が受け取るのは当然である。旧政府の償いを当政府が出しているものがある。
一、越後へ蒸気艦を回す一件。新潟はすでに開港の期限が過ぎ未だ引きのばすことの談判はない。故に速やかに五六艘の艦を回し、各国の開港により近辺で戦争がおこったときの規則にならって新潟を取り締り、国内については官軍の応援をなさんことを願う。
一、両肥(肥前佐賀藩、肥後熊本藩)へ御沙汰の事。両肥は未だ天朝のために苦戦していることを聞かない。年来、天朝と幕府のいずれに尽くすのか分からなかった。肥後の家臣は幕府に尽くすものがかつて多かった。世間はその二心を疑ったが、この大戦のなかで藩内は議論が定まり、藩外については大いに賊を圧するという意見がある。それで此の議論を提起する。
一、金論。三岡八郎の経済の才は官代中で一人として彼の右に出るものはない。彼は大いに今日通用している金の名と実が相反していることを憂いて、将来一新しようとしている。しかし今日諸藩の疲弊ははなはだしい。一度掃撃に及べば数十万の金はたちまちに散ってしまう。よって今日金穀を大融通する道を立てることを願う。
一、籏章(はたじるし)。陸海ともに官軍は天子の籏章は一つになることを願う。
一、諸侯の常供の減却。諸侯はわずかに一、二万石といえども数百人の人数を連れるためにその疲弊ははなはだ小さくない。皆これは太平尊大の大弊害である。いたずらに己が尊大に構えることで疲弊して、このような国家の大難にあたり公事に尽くすことができないことは大変嘆かわしい。よって急速に、大藩は六七十人、中藩は四五十人、小藩は十人か二三十人と一定の制限の命令を出されんことを願う。かつて建言したが重ねてまた催促する。
一、布令。賊徒は現に天子が保全なさる王土を掠めとり民は苦しんでいる。それなのに裏切りそむく心をもつ諸侯は少なくない。よって大義を布令し後日吟味のうえ罰がある旨をあらかじめ示すべきである。
今日の形勢で来年に及ぶときは天下の疲弊は言うまでもなく、ついに王命も行われなくなる。此の大機を失わず務めなければならない。御本陣の柏村(数馬)へ書状を出した。ガラバの艦船借用の交渉のためである。藤井七(郎左衛門)にもまた書状を出した。ヒコザー商会の話である。吉松平四郎と共に活動することを望む。四時過ぎに芳梅(伊藤博文)の寓居に行き、牛肉を食べ洋酒を傾けた。八九年前に江戸藩邸有備館で赤根忠助より贈られた牛肉を食べたが、その味ははなはだよくなかった。それで日本で調理する牛肉は今日に至るまで食べなかった。新鮮な肉はかつて食べたものとはなはだ異なり、洋人のもてなしを数十度受けたが食べてもその製法が異なっているので臭気を覚えない。夜世外(井上馨)を芳梅とともに訪ね兵庫のある楼へ行った。

※注
□□は文字が欠けている部分です。
赤根忠左衛門;老臣浦靫負の家来(「史実考証 木戸松菊公逸事」妻木忠太)
藤井七郎左衛門;四月十一日記載。吉松平四郎;四月十三日記載。


閏四月十二日
 九時乗艦。かつて大阪から神戸へ行った艦である。船名はクレーペル、船将は越(後)人□□である。風潮はなはだ悪く十二時を過ぎて明石の瀬戸を過ぎた。薄暮にはるかに高松城を見、暁に藝(安藝藩)州御手洗沖に着いた。同舟の客は世外(井上馨)、悠々生(福田侠平)、松本鼎山(鼎三)、長府の福原判、日柳々東(燕石)、世外婦人□□、その他手附婢僕十余人、大吉の弟□□は福原に従い昨日余を尋ねて来た。今日同船の一人である。
 
※注
□□は文字が欠けている部分です。
福田悠々;閏四月五日に記載。松本鼎山;閏四月七日に記載。日柳燕石;四月九日に記載。


閏四月十三日
 風潮ははなはだ穏やかであった。十時頃天気は快晴となった。十二時前に上関の沖を過ぎるとき、遙か向こうを蒸気船が過ぎるのを見た。三時過ぎ龍ケ口へ着船し、直ちに上陸し、土井六に行った。山田市(顕義)、山本重(毛利重輔)、駒井政(五郎)等が来た。今朝、品川彌(二郎)、野村靖、南貞(助)、作間正(之助)等が丙寅艦で大阪へ行ったことを聞いた。上関の海で見た蒸気艦がこれであった。夜、招魂場へ詣でた。日柳(燕石)、福田(侠平)とともに貞永幽(幽之輔、正甫)を訪れ、茶を飲み酒を酌み文雅について話した。竹田(田能村)と春琴(浦上)の掛け軸と十州桃源の巻物を見た。夜十二時に旅宿へ帰った。今日艦中で昼寝をし風邪を引いたように感じる。此夕、前原彦(一誠)が先日から政府に出勤し野村右中(素介)が政府に登用されたことを聞いた。

※注
日柳燕石;四月九日に記載。福田侠平;閏四月五日に記載。
貞永正甫(幽之輔);貞永家は代々三田尻の問屋口に住み、北前船を相手に塩や海産物を扱う問屋業を営んでいた。屋号は「関屋」です。五代目庄右衛門の長男である次郎右衛門清範は一門の厚狭毛利氏に仕える武士となり、末弟が六代目を継ぎました。六代目貞永庄右衛門は塩田二十枚、千石船十一艘を持つ豪商となりました。次郎右衛門清範が亡くなった後は息子の隼太が家を継ぎました。庄右衛門の家と隼太の家は隣同士で共に海に面していました。庄右衛門の店舗や住宅、倉庫は東側にあり東の貞永と称され、隼太の家は正面に通用門がある立派な邸宅で西の貞永と称されました。庄右衛門の家には多くの維新の志士たちが出入りしました。庄右衛門と息子の正甫(幽之輔)は長州藩に度々献金しました。慶応二年(一八六六)藩主敬親とイギリス東洋艦隊司令官キング提督の会見が行われたのが隼太邸でした。慶応三年(一八六七)正甫は自宅を藩に献納し海軍局の建物となります。明治二十二年(一八八九)貞永家の資金で山口県初の銀行である華浦組(後の華浦銀行)が設立されました。昭和十九年(一九四四)華浦銀行は第百十国立銀行と合併し(株)山口銀行が新たに設立されました。(「くらしお古今東西」)


野村素介;天保十三年(一八四二)に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。安政六年(一八五九)江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。文久二年(一八六二)帰国して明倫館舎長となる。文久三年長州藩士 野村正名の養子となり、慶応二年(一八六六)家督を継ぐ。攘夷を唱え勤王志士として国事に奔走。四境戦争では当初、藩主側近として働き、小倉城陥落後は九州方面の軍監を命ぜられ参謀 前原彦太郎(一誠)とともに講和談判などの戦後処理にあたった。明治元年(一八六八)に山口藩参政 兼 公議人 兼 軍政主事となり、翌年には権大参事となる。明治四年(一八七一)官命によりヨーロッパ諸国を視察する。翌年帰国すると茨城県令、文部大丞、学務局長、大督学、文部大書記官、元老院大書記官を歴任し、明治十四年(一八八一)元老院議官となる。さらに博物局長兼務、亜細亜大博覧会組織取調委員、内国勧業博覧会委員、同評議員などを命ぜらる。明治二十三年(一八九〇)に貴族院が発足すると勅撰議員に任命され、同年、錦鶏間祗候となる。明治三十三年(一九〇〇)男爵を叙爵。昭和二年(一九二七)東京上大崎長者丸の自宅にて没。享年八十六。勲一等旭日大綬章を授与される。晩年は素軒の号で書家として活躍。日本書道会幹事長、書道奨励会会頭、選書奨励会審査長などを務めた。行書を得意とし各地に筆跡が残されている。石碑も多くを手がけ、京都霊山護国神社の木戸公神道碑、上宇野令香園の毛利公神道碑といった勅撰碑のほか、全国で四十基ほどを確認できる。同じ長州出身の書家、杉聴雨、長三洲と合わせて「長州三筆」と呼ぶことがある。(ウィキペディア)
明治三年(一八七〇)会計権少参事藤井勉三とともに朝廷より洋行を命じられる。朝廷は二十万石以上の大藩より政治に預かる者一人会計に関する者一人を海外の事情を視察させようとして適任者を選抜させた。長州藩はこの二人を答申した。明治四年正月廣澤眞臣遭難の混雑で一時延期し五月出発米欧各国巡遊し、五年三月帰国した。(「修訂防長回天史」)


閏四月十四日
 朝、山田市(顕義)を訪ねた。整武隊の馬を借り山口へ帰った。途中で御堀耕助を訪ねた。御国と京大阪、藩内外のことが齟齬する原因を尋ねると、実情の通じていないところがあり、各々の意見の齟齬から起こっているところがある。細かにその始終を話すと彼は了解するところがあった。三月から藩庁へ出勤せず蟄居しているが、余がそのために山口へ帰ったのだから一旦は出勤すると答えた。余は一旦だけの出勤を望まず、議論は決まらなかった。一時に切迫して議論することを避け帰った。直ちに御舘へ行った。政府は余が帰った趣旨が何かを知らないようである。春から数度も直接ご書状をやりとりし、藩の内外が通じていない実情に大いに胸を苦しめ、漸く山口へ帰ってきて、世子君(毛利元徳)の近日ご帰国のために大いに尽力してきたことが、今日水泡のようなものだったと思う。しばらくして近臣が来た。君上(毛利敬親)が余を召されたので勧同局の士と共に君前へ出た。今日の天下の大勢は容易ならず内外一致して今時機を失ってはならない次第を申し上げた。君上は落ち着いておられ政府は別に異論がなかった。退出し五時に家に帰った。中山澄(江)、鈴木直等が来た。家内と共に少し酒を飲んで十時頃眠りに就いた。

※注
中山澄江;長州藩干城隊衝撃隊小隊指令(「修訂防長回天史総合索引」)


閏四月十五日
 終日、客があり藤田與(次右衛門)、服部半、小幡餅山(高政)、竹田祐伯、林半(七友幸)等が来た。夜、春江(御堀耕助)、悠々(福田侠平)の二人が来た。大いに時勢を話し、春江の出勤のことを論じた。議論は半ば決したが未だ二、三部が決まらなかった。二人と共に寝に就いた。

※注
小幡高政;文化十四年(一八一七)~ 明治三九年(一九〇六)。
【誕生地】周防国吉敷郡恒富村(山口市)。【墓】萩市北古萩町(海潮寺)。藩士祖式家に生まれ、のちに小幡家の養子となる。嘉永三年(一八五〇)家督をつぎ、非常手当表番頭、翌年大組物頭弓役、安政五年(一八五八)萩町奉行役などを歴任。同年、江戸留守居役に転じ、安政六年、評定所での吉田松陰への死罪判決申渡しに藩代表として陪席した。文久二年(一八六二)公武間周旋御内用掛として江戸・京都間を往復する。元治元年(一八六四)にいったん辞職するが、慶応二年(一八六六)表番頭として北第五大隊総督用掛をつとめ、長州戦争(四境戦争)では芸州口に出陣した。慶応三年(一八六七)、郡奉行となり、明治元年(一八六八)民政主事となる。その後、藩の諸役を歴任し、明治四年(一八七一)政府に召され少議官となり、宇都宮・小倉などへ赴任。明治九年(一八七六)辞職して萩に帰り、まもなく士族の救済のため夏橙の栽培に着手、耐久社を設立して産業化に成功した。また第百十国立銀行(現在の山口銀行)の創立にも加わり、二代目頭取となった。萩市平安古町の旧田中別邸は、もと小幡高政の邸宅で、邸内には小幡自身が明治二三年(一八九〇)に夏橙栽培の苦心を記した石碑「橙園之記」が建つ。(「萩の人物データべース」ウェブページ)
 明治維新後は小倉県権令などを務めますが、母の看病のために辞め、萩に帰ります。高政は当時、生活に困窮するようになっていた士族をみかねて、萩の武家屋敷の土地を活用し、ナツミカンを栽培することを思いつきます。そして士族による授産結社「耐久社」を結成して1万本の苗木を育て、士族などに配りました。栽培は次第に広がり、その果実は広島や大阪などに出荷されて人気を集め、明治30年(一八九七)代末ごろには萩の一大産業になりました。(山口県の先たち:平成の松下村塾、ウェブページ)


竹田祐伯;文政八年(一八二五)~明治十四年(一八八一)。本姓深栖氏。萩藩医で、蘭学者として名のあった竹田庸伯の養子となった。江戸に出て柴田方庵、また大阪の緒方洪庵に学び、帰国して湯田に開業し、七卿の尼口滞在中その侍医となった。のち好生堂院長となり、明治に入り典医に推挙されたが、後進に譲り辞して受けなかった。(「山口市史」)

林半七友幸;奇兵隊、第二奇兵隊、健武隊長官、民部権大丞(「修訂防長回天史総合索引」)
福田侠平;閏四月五日に記載。


閏四月十六日
 終日来客が絶えなかった。岡義(儀右衛門)、竹田祐(伯)等が来た。今日は疾病のために外出できなかった。

※注
岡儀右衛門;長州藩干城隊海軍方(「修訂防長回天史総合索引」)
竹田祐伯;閏四月十五日に記載。


閏四月十七日
 来客がたいへん多かった。十時、野村彌(弥吉、のち井上勝)より世子君(毛利元徳)が三田尻に御帰着されたことを告げてきた。四時頃、御館へ行き拝謁した。朝廷並びに列藩の実情と、大義名分の帰するところは、諸侯が朝廷のために尽くすべき時機を失うべきでないことが理であるので、君上(毛利敬親)が急いで御上京されるよう申し上げた。今日、小倉藩の使者の島村(志津摩)が拝謁した。赤川敬三、中村芳三が京から帰った。侍御局で面会した。五時過ぎに退出した。大津(四郎右衛門)を訪ねたが留守だった。昼、小川市(右衛門)、河野留(之進)等が来た。河野留は萩より戊辰艦に乗り越後へ行く命令を受けずっと薩摩の軍艦の来るのを待っていたが、それが実現し今日直ちに萩へ帰ると告げた。晩に帰宅した。福田悠々(侠平)へ送る書簡を書いた。世間は危疑が多く今日の時機に至りくだくだしい議論はやまず、我が長国の議論が多いのを歎き、人情の軽薄を思い、回復の事業はどうなるだろうと感慨の余り、信じている言葉二十八字を書き悠々へ送った。この時、陰雲が四方を囲み天地は暗黒となり東西が分からなくなった。
人間恰似黄梅節 人間あたかも黄梅の節に似たり
                世の中は黄梅の季節に似ている
半日陰晴不可知 半日陰晴を知るべからず
                一日の半分ずつ曇ったり晴れたりすることを知らない
七百年来時稍到 七百年来の時いよいよ到る
                七百年待っていた時がいよいよ来た
危疑尚恐誤機宜 危疑してなお機宜を誤るを恐る
                あやぶみ疑ってよい時機を失うことを恐れる
※注
島村志津摩;豊前小倉藩家老(「修訂防長回天史総合索引」)。
大津四郎右衛門;村田清風の子。
小川市右衛門;長州藩蔵元両人役、用所役(「修訂防長回天史総合索引」)。
河野(こうの)留之進;長州藩海軍局員(「修訂防長回天史総合索引」)。
赤川敬三;閏四月七日に記載。福田侠平;閏四月五日に記載。


閏四月十八日
 福田侠平が来た。現在のたいへん嘆かわしいことが多いことを論じた。十二時前に儲君(毛利元徳)が御帰殿になり徳山邸前を隊列を組んで御通行なさるのを遙かに拝見した。三時過ぎ缾山小幡翁(小幡高政)の家居を訪ね少し酒を飲んだ。鈴木彦之進の娘が山田の母子と江戸より来た。今日、鈴木の娘に逢った。関東の形勢が不安なので決意して山口へ来たという。七時過ぎ家に帰った。吉富(藤兵衛簡一)が来て一泊して帰った。今日大公(毛利敬親)から鯉をいただいた。
※注
吉富簡一;よしどみかんいち。天保九年(一八三八)~大正三年(一九一四)。吉富家は矢原村の豪農で、代々大庄屋、庄屋などをつとめていました。簡一は初め美之助、後に藤兵衛、維新後に簡一と名を改めました。文久二年(一八六二)に吉富家を継ぎましたが、この頃尊皇攘夷の動きが活発となり、簡一も同志と共に仲介役として立ち回りました。また井上馨の遭難の時は、所郁太郎と共に駆けつけ看護に当たりました。同じ日の深夜帰宅後に、吉富家に居住していた周布政之助の自刃にも遭遇しています。内訌戦では同志と共に鴻城軍を組織し、親類預けとなっていた井上馨を奪還して鴻城軍の総督としました。明治三年(一八七〇)脱隊騒動の際は、木戸孝允を助けて鎮圧に努力しました。維新後は一時中央政府に出るも同四年に帰郷し、地方の有志として公共事業に尽くしました。県会議員、県会議長、衆議院議員となり、山口共同会社の社長も勤め、同十七年には防長新聞を創刊しています。大正三年(一九一四)七十七歳で亡くなりました。「「山口市幕末維新史跡ガイドブック」)
福田侠平;閏四月五日に記載。小幡高政;閏四月十五日に記載。


閏四月十九日
 朝、鍔師の寺戸一郎が来た。金作りの小刀合口の金物を頼んだ。銀作りの大刀金物の図面を頼んでおいたのが来た。鹿の目貫、はみ出し鍔大小、馬鹿の小尻も一緒に頼んだ。先日桐の鍔も頼んでおいた。十時過ぎ政事堂へ行った。命により御堀春江(耕助)を訪問し同行して政事堂へ行った。両君上(毛利敬親、元徳)が春江を呼び出され懇懃慰諭され国家大事のときなので前途ますます勉励するように話があった。春江は訳があって春から退去していたので今日初めて政事堂へ行った。五時に政事堂を出た。山田星山翁(宇右衛門)の家の跡を訪ね、柿並、服部の二氏へ立ち寄り少し酒を飲み、柿並氏と碁を一局争い、勝ち負けなしだった。日柳(燕石)の宿を訪ねた。八時に家に帰った。昨日約束した缾山(小幡高政)夫婦と山田と鈴木の二人の娘が来た。少し酒を飲んで寝た。


山田宇右衛門;文化十年(一八一三)~慶応三年(一八六七)。諱、頼毅。号、治心気斎、星山。生家は増野氏。大組・山田氏(禄高百石)の養子になって家督を継ぐ。安政元年(一八五四)相州警衛総奉行手先役、安政三年(一八五六)徳地代官、万延元年(一八六〇)遠方方、文久三年(一八六三)奥阿武代官、元治元年(一八六四)郡奉行を歴任。
安政二年(一八五五)七月、西洋式鉄製大砲の鋳造方法を習得するため、反射炉築造に成功していた佐賀藩に派遣されるが交渉は失敗した。(ただし、その後も他の藩士が交渉に赴き、最終的に萩反射炉が築造されている)。文久二年(一八六二)政務座・学習院用掛のとき京都にあり、尊王攘夷運動に参加した。ただし藩政においては中立派に属していた。長州藩では元治元年(一八六四)の第一次長州征討を期に討幕派(長州正義派)が勢力を弱め、恭順派(俗論派)が台頭していたが、同年の正義派によるクーデター(功山寺挙兵)によって再び討幕派が藩政を握ると、慶応元年(一八六五)番頭格・政務座役に就任。参政首座となって、木戸孝允とともに藩内における指導的立場となり、兵学教授として軍備拡張を推進するなど藩政刷新に尽力した。慶応三年(一八六七)に明治維新を前に病没。山鹿流兵学は吉田大助について学び、大助の養子である吉田松陰の後見役でもあった。(ウィキペディア)

 藩士増野茂左衛門の三男として熊毛郡上関に生まれた。(「山口市幕末維新史跡ガイドブック」)
日柳燕石;四月九日に記載。小幡缾山(高政);閏四月十五日に記載。


閏四月二十日
 大雨。缾山(小幡高政)たち一行は昼頃全員帰った。缾山翁は次の詩を作り余に次のように言った。
晴雨不関意 晴雨を意に関せず
愛看草木肥 草木の肥ゆるを愛看す
山間煙霧處 山間の煙霧の處
杜宇有時飛 杜宇(ほととぎす)有りて飛ぶ
午後、来島亀之進、中村芳三が来た。しばらくして、福田侠平が来た。侠平はこれから下関へ行き北越へ向かうので別れを告げに来た。彼は京都や御国の事を大いに心にかけ余に早く上京するようしきりにすすめた。ともに数十杯酒を傾けた。日柳柳東(燕石)、阿部平右衛門も来た。山田市之允(顕義)も思いがけず来た。来島、中村が先に帰り、薄暮に福田侠平も出発した。夜になって山田が帰った。日柳と阿部は一泊して帰った。日柳は詩を二編作った。

※注
来島亀之進;来島又兵衛の子、妻は井上馨の末妹の厚子。井上馨は元治元年(一八六四)の遭難後、ようやく歩行ができまでに快復した十一月から亀之助のもとで療養した。亀之助の家は美祢郡本郷村(現、美祢市西厚保町本郷の厚保小学校)にあった。(「井上馨開明的ナショナリズム」堀雅昭著)
小幡高政;閏四月十五日に記載。福田侠平;閏四月五日に記載。日柳燕石;四月九日に記載。


閏四月二十一日
 朝政事堂へ行った。退出後杉呑鵬(孫七郎)とともに小幡缾山(高政)を訪ねた。それからともに鍔師寺戸一郎の家へ行き、前に頼んでいた小刀金具を見た。寺戸の家の上の山に山田星山(宇右衛門)翁の墓がありお参りをした。翁は多年国事に苦労し国家に益するところが多かった。君(毛利敬親)の無実の罪がまだ晴れないうちに不幸にして黄泉の客となる。翁のように公正実着な人は未だ見たことがない。余等が今日帝都に奔走して天顔を拝することができるのは、かつて翁とともに艱難の時に議論を極め天下を議論し、四方の敵を一掃しようとし、また余が薩州と力を合わせ回復を謀り、村田蔵六を推挙して軍政に用い防長二州の兵勢を改革しようとし、慶応元年の機会を失ってはならないとおおいに周旋に尽力したからである。この時にあたって余を助けてくれたものは独りこの翁だった。余はそのことを思い思わず涙が潸然とするのを我慢できなかった。翁は去っていった。今日かえって国論が乱れるのはどうしてなのか分からない。翁が今日生きておられたら余がこのように苦心煩念することはないだろう。今日のことは、これまで御先霊の勤王のお考えを実現しようと斃れていった志士烈士の大きな志に対し、将来は千年百年にわたる全ての国民大きく関係するものである。余の苦心煩念はやむを得ないわけである。しばらく墓にいて杉と星山の家の跡に行きいっしょに帰った。別れて井上五郎三郎を訪ね、また安部平右衛門を訪ね暮れになって家に帰った。夜、古箱を探し久坂玄瑞と高杉晋作の書を手にし読んだ。今日のことは偶然ではなかった。

※注
杉孫七郎;諱重華、通称はじめ少輔・九郎・徳輔のち孫七郎、号聴雨・古鐘・鯨肝・松城・呑鵬。天保六年(一八三五)~大正九年(一九二〇)。植木五郎右衛門の次男として周防国吉敷郡御堀村(現、山口市)に生まれ、のち杉彦之進の養子となった。明倫館に学び、また松下村塾に入って吉田松陰の教育を受けた。文久元年(一八六一)、幕府の使節に従って欧州を視察して帰国し、国事に奔走、特に藩の内訌戦には両派の鎮静のことに当たった。四境の役には杉山七郎と改名し、石州口参謀として出陣。維新後、山口藩権大参事となり、のち中央に出て宮内大丞・秋田県令・宮内大輔・特命全権公使、皇太后太夫等を歴任し、明治三十年(一八九七)枢密院顧問官、同三十九年(一九〇六)賞勲局議定官となり、多年の謹功により子爵を授けられ、没するに当たり従一位に昇叙された。(「山口市史」)
 安政三年(一八五六)相州警衛に派遣された。万延元年(一八六〇)手廻組に加えられ、藩主の小姓役となる。文久元年(一八六一)藩命により幕府の遣欧使節竹内保徳・松平康直らに従い、英・仏・蘭・独・露など西欧諸国を視察し、翌年、帰国した。文久三年(一八六三)、他藩人応接掛となり政務座に列する。さらに奥番頭格に進んで直目付役となり、元治元年(一八六四)当役用談役に就任した。慶応二年(一八六六)長州戦争(四境戦争)では軍監参謀を兼ねて石州口に出張した。明治元年(一八六八)戊辰戦争で備後福山藩・伊予松山藩を降したあと、藩に帰って副執政の用務をとる。明治三年(一八七〇)、山口藩権大参事として藩政の中枢を担った。また能書家としても知られ、聴雨と号して数多くの書を残している。(「萩の人物」データベース)
 母は周布政之助の姉である。杉考之進盛倫の養子となり、藩校明倫館で学んだ他、吉田松陰にも師事した。下関戦争では井上馨とともに和議に尽くし、元治の内乱では高杉晋作を支持しつつも、保守派との軍事衝突には最後まで反対した。(ウィキペディア)
杉彦之進の家督は百五十六石。


井上五郎三郎;光遠。文政十年(一八二七)~明治二年(一八六九)。井上馨の兄。慶応二年、四境戦争のとき山口町奉行兼代官を勤めており、石州口の幕府軍の軍目付一行九名が、現在の山口市宮野下にある法明院に滞在したとき宿舎の警備の責任者をつとめた。

山田宇右衛門の墓;山口市古熊神社の近くの古熊墓地にある。
小幡高政;閏四月十五日に記載。


閏四月二十二日 
 大雨。朝、廣澤(実臣)の留守宅を訪ねた。家内は安全だった。雨のなか三輪惣と萬代の家の前を通って缾山(小幡高政)を訪ねた。十時に藩庁へ行った。世子君(毛利元徳)に拝謁した。京都の現情について質問があった。今日、杉(孫七郎)氏が政事堂へ出ることを聞いた。余は公然とはこれを知らなかった。ひそかにこのことを大いに怪しく思う。三時過ぎ藩庁を出た。約束があり、側近の林、柏村(数馬)、杉(孫七郎)の三人と小缾山翁(孫七郎)が来た。暮れになり雨がますます激しくなった。余が住居を糸米に定めてから渓流がこれほど激しいのは経験したことがない。酒を 数時間飲んで、林、柏(村数馬)、小(小幡高政)の三人は 雨の中を帰った。杉氏は一泊した。今日、支配の坂章蔵より御用状が来た。□□徴士中□□、右の者は在勤中は家内を同伴するは自由であると仰せつけられること、右の通り御沙汰があったので御承知ください。閏四月二十二日。
夜、古い詩を出して杉氏と文字が妥当かどうかを論じた。

※注
廣澤実臣旧宅;山口市緑町の旅館「山水園」の日帰り入浴施設の北側の石垣跡が旧宅跡と言われる。現在は藪に覆われている。
小幡高政;閏四月十五日に記載。杉孫七郎;閏四月二十一日に記載。


閏四月二十三日
 晴。朝、貞永幽之助(正甫)が来た。大津四郎右衛門も来た。少し酒を飲んで閑談し午後ともに帰った。杉氏(孫七郎)が藩庁へ出ることは余はこれまで知らなかったが、昨日、藩庁の局がその趣旨を告げた。それで昨日書いた返書と御堀(耕助)の病気について質問の書状を出した。御堀はまた議論することがあるだろう。返書には理解できないところがあった。植木屋が来て杜鵑花(つつじ)の種をまいた。鍔師の寺戸(一郎)が来た。愛用の瓢箪の口と愛用の舶来の手燭の修繕を頼んだ。夕刻湯田へ行き来島(亀之助)、中村芳(芳之助)、山田市(市之允、顕義)の三子に逢った。大いに時勢のことを論じ、天下がこのように焼眉の勢であるのにいり乱れた議論が絶えないことを嘆いた。夜になって、杉(孫七郎)、貞永(正甫)、吉富(簡一)らが来た。しばらく話をし十時前に家に帰った。今日、杉原治人が京都から帰った。廣澤障山(眞臣)の手紙が届いた。

※注
大津四郎右衛門;閏四月十七日に記載。杉孫七郎;閏四月二十一日に記載。来島亀之助;閏四月二十日に記載。中村芳之助;閏四月七日に記載。貞永正甫;閏四月十四日に記載。吉富簡一;閏四月十八日に記載。


閏四月二十四日
 朝、山田七兵衛、井上五郎三郎、御堀春江(耕助)その他客でいっぱいだった。皆が帰り春江が独り残り大いに時勢のことを議論した。共に藩庁へ行った。人材登用の件と天下が未だ平定していないので出兵その他前途の大策の決定がなくては終末の最も大切な一大事につき四ヶ条の建言をした。五時に藩庁を退出した。上山を訪ね小幡(高政)のところへ行った。中村文右衛門がいた。共に小田村のところへ行き少し酒を飲んだ。薄暮に出て家へ帰った。小松(帯刀)、廣澤(眞臣)へ書簡を書いた。この時、雨が降り天が暗くなった。小幡(高政)、柿並、藤田、中村等が来た。ある者は酒を飲み、ある者は詩を作りある者は囲碁をし、一泊し互いに話をした。今日薩摩の使者木藤角大夫(覚大夫)が来た。小松より一書が届いた。

※注
山田七兵衛;長崎伝修生、干城隊頭役(「修訂防長回天史総合索引」)
中村文右衛門;山口藩施政司(「修訂防長回天史総合索引」)
井上五郎三郎;閏四月二十一日に記載。小幡高政;閏四月十五日に記載。


閏四月二十五日
 雨が降りそうで雨にならなかった。朝共に数杯酒を飲んだ。京都への書簡を出した。世子君(毛利元徳)が余を呼ばれた。十一時頃共に家を出た。途中で別れて皆は松原(音三)のところへ行った。余は藩庁へ行き世子君に拝謁した。昨日の四ヶ条につき詳細にお尋ねがあった。詳しくその旨趣を申し上げ、また、これまでの政府の成り行きを説明して退出した。世子君はいささか不機嫌でおられ薩摩藩の使者の拝謁はされなかった。君上(毛利敬親)へ拝謁して退出した。四時頃木藤を訪ね帰路山田七(兵衛)と松原音三、野村(素介)を訪ね暮時杉(孫七郎)氏のところへ行った。四ヶ条のことについてである。杉と共に竹田へ行き十時過ぎに帰った。白井良三郎、平川新之丞が関東行きの願いがあって来た。澤半三郎は熱心に遊歴のことを願った。余は明日萩城へ行くので、諸子のことは杉氏に頼み、そのために一書を書いた。明日杉氏へ送る。萬代利兵衛が来て一泊した。留守中をまかせるのに伝えたいことがあった。昨日三輪惣が来た。今朝その弟がまた来た。借金返済のためである。

※注
白井良三郎;干城隊士(「修訂防長回天史総合索引」)
山田七兵衛;閏四月二十四日に記載。野村素介;閏四月十三日に記載。杉孫七郎;閏四月二十一日に記載。


閏四月二十六日
 十時に鴻城(山口)を出発した。大津(四郎右衛門)と日柳(燕石)が同行した。三時に佐々並に着いた。昼飯を食べ瓢箪の酒を少し飲んだ。宍戸備後介が萩より来て同席し話し合った。薄暮に萩に入り山縣彌八を訪れた。彼の母の六十二歳を祝う客で充満していた。みんなが余を引き留めたので思わず大酔して一泊した。日柳と大津は鹿島正の家へ行き泊まった。余が二氏に先だって萩へ入ったのは二氏の宿泊を頼むためであったが大酔したため忘れてしまった。

※注
宍戸璣;ししど たまき。文政十二年(一八二九)~ 明治三十四年(一九〇一)。前名は山県半蔵。長州藩士・安田直温の三男として生まれる。幼名は辰之助。名は子誠、のち敬宇。吉田松陰らと共に玉木文之進の塾(松下村塾)に学び、また藩校明倫館に学ぶ。嘉永元年(一八四八)、藩儒・山県太華の養子となり、半蔵と称する。安政元年(一八五四)には幕府の役人・村垣範正に従い、蝦夷地および樺太・露国巡視を行う。翌年には長崎へ遊学。その頃から諸藩の志士と交流し、安政五年(一八五七)に藩に戻ると、明倫館都講本役に任ぜられ、世子・毛利定広(のち元徳)の侍講となった。万延元年(一八六〇)、定広に従って江戸へ赴き国事に奔走する。文久2年(一八六二)には同藩の久坂玄瑞、土佐藩の中岡慎太郎らとともに松代藩で謹慎中の学者佐久間象山を訪問。長州藩へ招聘するも叶わなかったが、国際情勢や国防論について薫陶を受ける。翌年帰藩した後、九州諸藩に尊王攘夷論を遊説。同年の八月十八日の政変後は京阪に潜伏して形勢を視察した。その後も長州藩は尊王攘夷運動に邁進するが、禁門の変の敗北、下関への四国連合艦隊襲来により窮地に陥る。長州藩は恭順派(俗論派)の牛耳るところとなり、半蔵も禁固されるが、高杉晋作・伊藤博文らの挙兵によって藩論が再転換し、赦免される。しかし幕府は長州藩へ問罪使の派遣を決定。藩は半蔵を家老宍戸家の養子として宍戸備後助と改名させ、
広島の国泰寺で幕府問罪使・永井尚志に応接させた。交渉の長期化に伴い、広島藩に拘留されたが、翌年の第二次長州征伐開戦にあたり、幕府側の敗戦の調和策として放免された。この間の功績を認められ、宍戸家の末家を新たに建てることを認可され、直目付役に任ぜられた。また長防士民合議書を起草し各戸に配布し領内の団結を深めることに貢献した。明治維新後は、明治二年(一八六九)に山口藩権大参事となる。翌年上京し刑部少輔。明治四年(一八七一)には司法大輔。明治五年(一八七二)には文部大輔となる。明治十年(一八七七)元老院議官となる。明治十二年(一八七九)には清国駐剳全権公使に任命された。琉球藩を廃止し沖縄県を設置した(琉球処分)直後であり、琉球の帰属問題が両国間の懸案(分島問題)となっていたが、宍戸は琉球に対する日本の領有権の法的根拠を明記した寺島宗則・井上馨外務卿の覚書を清国総理衙門へ提出、翌年交渉は妥結する。しかし清朝の重臣李鴻章らの反対により調印には至らず、明治十四年(一八八一)には交渉を打ち切って帰国した。帰朝翌年には宮内省出仕となり、明治十七年(一八八四)には参事院議官。明治十八年(一八八五)には再び元老院議官。明治二十年(一八八七)にはこれまでの功績を認められ子爵を叙爵。明治二十三年(一八九三)帝国議会の発足に際し同年貴族院議員に任命され、同年、錦鶏間祗候となる。貴族院議員に一期在任して明治三十年(一八九七)に退任した。
山縣彌八;長州藩士、権大参事(「修訂防長回天史総合索引」)
大津四郎右衛門;閏四月十七日に記載。日柳燕石;四月九日に記載。


閏四月二十七日
 鹿島へ行き日柳(燕石)と大津(四郎右衛門)とを訪ねた。また実家の和田へ行った。妹や姪はみな壮健であった。高杉を訪ねた。山田や中村はみな平安だった。夜、日柳を訪れ共に宗像へ行った。夜半、祖式宗助(宗輔)、小川彦左衛門、長沼太郎兵衛、天野順太(順太郞)、大津四郎右衛門等が来た。酒宴が盛り上がり夜明けがたになった。訳あって天野と大いに議論した。奥平二水も来て一泊した。山縣(彌八)らは前もって宗像を余の旅宿に決めていた。

※注
祖式宗助(宗輔);長州藩手廻物頭、萩町奉行(「修訂防長回天史総合索引」)
長沼太郎兵衛;長州藩器械取調事務掛(「修訂防長回天史総合索引」)
天野順太(順太郞);長州藩装条銃大隊物頭(「修訂防長回天史総合索引」)
宗像氏;萩の藩用達(「修訂防長回天史総合索引」)
日柳燕石;四月九日に記載。大津四郎右衛門;閏四月十七日に記載。山縣彌八;閏四月二十六日に記載。


閏四月二十八日
 朝、祖式宗(輔)、天野順(太郞)、児玉采女等が来た。品川、駒井も来た。四時に宿を出て生家の和田へ行った。春日社へ参詣し桂雅樂之允を訪ねた。夕方、約束があったので久芳へ行った。山縣彌(八)、奥平二水、大津四(郎右衛門)等がすでに来て座敷にいた。祖式次郎兵衛が来た。干城隊を訪ねると諫早、福原が余を招いた。余に時間がないので明夜会う約束をした。十時宿に帰った。途中和田を訪ねた。夜盆を傾けたほどの大雨だった。二水が来て泊まった。

※注
桂雅樂之允;長州藩番頭(「修訂防長回天史総合索引」)
祖式宗輔、天野順太郞;閏四月二十八日に記載。山縣彌八;閏四月二十六日に記載。大津四郎右衛門;閏四月十七日に記載。


閏四月二十九日
 霄幼の百五十回忌の命日だった。これまで余は京都にいたので供養することができなかった。今日法事を営んだ。山田久が来て同席した。児玉少輔が来て同席して食事をした。四時に徳隣寺へ詣でた。寺内と小幡(高政)を訪ねたが留守だった。小川と佐伯に行き生家の和田へ帰った。大田嘉七の家へ大津(四郎右衛門)と日柳(燕石)が行っており度々使いが来たので暮れ過ぎに大田へ行った。久芳翁と進藤亦藏が座にいた。日柳は児玉少輔が同行して家へ帰った。夜、干城隊の壮士等と約束があったので早く退出し宿に帰った。すでに寺内老人、福原、諫早、祖式、原田その他数名が座にいた。余は今日は酒を飲みながら国事を議論することを戒めた。ところが諫早をはじめとする壮士等は酔いに乗り山縣彌八等のことを大いに議論した。余の胸中を安堵させるものがあった。思いがけず徹夜の大議論となり暁となった。余は酔い倒れ客が帰ったのを知らなかった。この日粟屋八右衛門より肥前良國の短刀を買った。藤井百合吉が所有していたものという。値四十圓。

※注
大田嘉七;長州藩萩の商人(「修訂防長回天史総合索引」)
藤井百合吉;長州藩大工頭(「修訂防長回天史総合索引」
大津四郎右衛門;閏四月十七日に記載。日柳燕石;四月九日に記載。山縣彌八;閏四月二十六日に記載。