この日記は慶応元年四月一日から始まっています。この年は九月八日に明治と改元されました。それまでは慶応四年でした。
 この年は次のような出来事がありました。
 一月三日   鳥羽、伏見の戦い。
 三月十四日  西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸城開城の了解なる。五ケ条の誓文発布(十五日、五枚の立札を掲示)。
 三月二十一日 天皇が大阪行幸。閏四月八日京都へ帰る。
 四月四日   江戸城開城し、十一日徳川慶喜水戸に屏居謹慎し、榎本武揚が幕府の軍艦を率いて北海道へ向かう。
 四月二十五日 近藤勇、江戸下板橋で斬られる(三十五歳)。
 閏四月八日  天皇が大阪行幸から京都へ帰る。
 閏四月三日  福沢諭吉、芝に英学塾を移転し慶應義塾と改称。
 五月十三日  奥羽越列藩同盟(二十五藩)なる。
 五月十五日  政府軍が上野の彰義隊を攻撃。
 七月十七日  江戸を称して東京とする詔書発布。
 九月二十二日 会津藩降伏。
 九月二十日  天皇が東京行幸
 十二月二十二日天皇が京都へ帰る

 四月の木戸の主な出来事は次のようです。
 四月十一日  明治天皇行在所の置かれていた大阪へ行く。
 四月十七日  明治天皇に拝謁し天下の状勢と海外各国の大勢を申し上げる。
 四月二十三日 神戸へ行き初めて洋製の馬車に乗る。
 四月二十八日 豊臣秀吉の功績顕彰の布告草案を岩倉具視に出す。


ここから日記が始まります。 
四月一日
 岩倉卿(岩倉具視)の家へ出かけた。
 
※注
この日は休日です。一と六のつく日は休日でした。
「廣澤眞臣日記」によると一月二十一日に次のような出勤規則が出されています。
・ 一六の日は休日とする。
・ 午前十時出勤、午後四時退出すること。
・ 議事は総裁から参与まで全員が出席して行い、出席が無かった場合は次官が決すること。
・ 毎日午前十一時より議事を始めること。


四月二日
 肥前公(肥前佐賀藩主鍋島閑叟)の招待により官代からその藩邸へ行った。越春岳公(越前福井藩主松平春嶽)と秋月種樹公(日向高鍋藩世嗣秋月種樹)がその席におられた。近江の僧雪爪、大垣人の小原鐵心、越前人の中根雪江と境某、画工の愛山等が同席した。酒宴はたいへん賑やかで、書や画をおおいに楽しんだ。帰路、鐵心、障岳(廣澤眞臣)とともに三本木の月波楼に行き宿泊した。 

※注 
官代;太政官代はこの日記当時は二条城にあった。一月十三日太政官代が九條道孝邸に置かれ一月二十七日に九條邸より二条城へ移された。(「修訂防長回天史第六編」)
その後閏四月二十二日太政官は御所に移された。(「廣澤眞臣日記」)


秋月種樹(たねたつ);この日記の当時は参与。天保四年(一八三三)~明治三十七年(一九〇四)。九代高鍋藩主・秋月種任の三男として生まれる。若年より英明で知られ、文久二年(一八六二)部屋住みの身でありながら幕府学問所奉行に登用される。文久三年兄種殷の養子となる。同年、若年寄格との兼任を命じられた。秋月家は二万七千石の外様大名であり、異例の抜擢であった。元治元年(一八六四)将軍家茂の侍読に任じられた。慶応三年(一八六七)若年寄に任ぜられる。慶応四年(一八六八)二月、上洛し新政府支持の姿勢を示した。同月、新政府の参与に就任した。内国事務局に配属された。その後、公議所議長・左院少議官などを歴任した。明治五年(一八七二)、海外遊学。明治七年(一八七四)種殷の死去により家督を相続した。明治八年(一八七五)から明治十三年(一八八〇)まで元老院議官を務めた。元老院議官在任中の明治十年(一八七七)に西南戦争が勃発すると、三好退蔵とともに旧高鍋藩士に西郷隆盛率いる私学校軍へくみしないように尽力するも、坂田諸潔や石井習吉、弟の秋月種事らが高鍋隊または福島隊として私学校側についてしまい、弟の種事は鹿児島の城山にて戦死する。明治十四年(一八八一)隠居し、息子の種繁に家督を譲った。明治二十三年(一八九〇)元老院議官に再任され、同年、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた。明治二十七年(一八九四)貴族院勅選議員になった。明治三十七年七一歳で死去。従二位勲二等に叙せられる。(ウィキペディア)
「秋月は書画をよくし、将軍家茂の侍講までつとめた文人だったうえに、両国橋のそばの大川端にある旧諏訪藩中邸を維新後もらっていて、箱崎町の容堂の新しい邸(旧田安御殿)とは舟で簡単に行き来ができる。柳橋ではやっていた唄に、高知高鍋女護ケ島」(「醒めた炎・下巻」村松剛著394頁)

小原鐵心;この日記当時は参与。名は忠寛。文化十四年(一八一七)~明治五年(一八七二)代々大垣藩城代を務めた小原家に生まれる。天保三年(一八三二)家督を相続し、藩主・戸田氏正に仕えた。氏正に重用されて城代に任じられ、西洋文明の導入や大砲の鋳造など、藩政改革を積極的に行なった。家老ではなかったが「藩老」(藩の老臣)と称され尊敬されていた。嘉永六年にペリーが浦賀に来航すると、浦賀奉行戸田氏栄は本家である大垣藩戸田家に支援を要請した。鐵心は藩兵とともに浦賀警備のために派遣され、氏栄を助けた。氏正が隠居したのちも新藩主戸田氏彬のもとで重用され、文久三年(一八六三)には氏彬に従って上洛した。元治元年(一八六四)の禁門の変では福原元僴(もとたけ)率いる長州藩の軍勢と戦い、伏見まで追いつめる武功を挙げた。慶応元年(一八六五)に氏彬が没し、弟の戸田氏共が十二歳で藩主となると、氏共に引き続き仕えた。慶応四年一月三日、参与に任じられて新政府に出仕。しかし、この日に始まった鳥羽・伏見の戦いでは、大垣藩は幕府軍に従って出陣し、養子の小原兵部(忠迪)率いる藩兵が淀への先鋒を務めた。鐵心は新政府の許可を得て十日に大垣に帰り、佐幕派と論争を行った。隠居していた氏正の支持を受けた鐵心は氏共を説得して藩論を尊王派で統一し、恭順を誓う氏共の請書を京都に持ち帰った。新政府に恭順した大垣藩は、以後の戊辰戦争で新政府軍に加わり、鐵心は兵部を東山道先鋒として従軍させた。新政府では御親征行幸御用掛、会計官判事を歴任した。明治二年、版籍奉還により大垣藩大参事に任じられている。明治五年死去。享年五十六歳。(ウィキペディア)

中根雪江(なかね ゆきえ、せっこう);この日記当時は参与。文化四年(一八〇七)~明治十年(一八七七)。通称は栄太郎、靱負(ゆきえ)。靱負を雪江とも書き、さらに「せっこう」と音読みした。文化四年(一八〇七)、福井藩士(七百石取り)・中根衆諧の長男として越前国福井の城下に生まれる。江戸に赴いて平田篤胤から国学を学んだ。天保九年(一八三八)に松平慶永(春嶽)が藩主に就任すると御用掛となり、橋本左内らとともに藩政改革に参与する。江戸幕府の幕政に進出した慶永の参謀となり、嘉永六年ペリー艦隊が来航して通商を求めると、攘夷論者であった慶永に開国を進言した。安政の大獄によって慶永が隠居させられると同時に失脚するが、慶永が幕政に復帰して政事総裁職になると、横井小楠らと公武合体政策に従事し、将軍・徳川家茂の上洛の運動をした。明治新政府の参与として出仕するが、翌年に免職。福井で隠居し、『再夢紀事・丁卯日記』『戊辰日記』など著作活動を行った。明治一〇年七一歳で死去。(ウィキペディア)

雪爪;鴻雪爪(おおとりせっそう)文化十一年(一八一四)~明治三十七年(一九〇四)。曹洞宗の禅僧、宗教家。備後国因島生まれ。家は宮地氏、豪農であった。六歳のとき、同島出身の石見国津和野大定院の住持であった無底和尚の小僧となる。大垣全昌寺、越前孝顕寺、彦根清涼寺の住持となる。慶応三年松平春嶽から京へ呼ばれ、慶応四年キリスト教に対する建白書を出した。西洋諸国と交易を広めるときはキリスト教の禁止は解かざるを得ない。神道、儒教、仏教の三教でキリスト教から国を防御しなければならないという意見であった。明治二年五月教部省御用掛に任命されるが、仏教廃止、キリスト教入るべからずという神道家の論が大勢を占めたので、辞職し清涼寺へ戻る。明治四年再び命ぜられ左院の少議生に任ぜられた。このとき政府の要請により還俗して鴻(おおとり)と称した(それ以前は清涼寺雪爪と称していた)。明治五年、政府は神仏合同布教のため大教院を設置し、その院長となる。その後神道管長となるが明治十七年職を辞す。明治三十七年没する。享年九一歳。(「論説 鴻雪爪-明治政府の宗教行政を指導した禅僧-」杉山剛著)
広島県尾道市因島中庄町七六七ー一の中庄幼稚園に碑がある。
 
愛山;谷口藹山(たにぐち あいざん)越中国新川郡鉾ノ木村(富山県立山町)の農の生まれ。十八歳で江戸に出ると坂井右近の紹介で谷文晁の写山楼に入門。文齋と号した。梁川星巌と知遇を得てその薦めを受けて天保八年(一八三七)に高久靄厓の晩成堂に入塾。本格的に文人画を学ぶ。皇居、二条城が炎上し、安政二年(一八五五)、塩川文麟・小田海僊・森寛斎・望月玉泉らとともに障壁画の修復事業に選出され、杉戸絵二枚を描いた。この頃富山藩士西村喜間多の養子となり士族となった。攘夷運動が活発化しており、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・横井小楠・藤本鐡石・頼三樹三郎・松本奎堂・鴻雪爪ら勤王の志士との交流を重ね自らの潤筆料を攘夷運動の資金に供している。(ウィキペディア)

廣澤眞臣;この日記当時は参与。号は障岳。

境某;「廣澤眞臣日記」には酒井十之丞とある。この日記当時は参与。
酒井十之丞;文政二年(一八一九)~明治二十八年(一八九五)。越前福井藩士。側用人から中老となる。中根雪江らと藩主松平慶永、茂昭(もちあき)をたすけ京坂の地で公武合体運動に活躍。王政復古後、一時新政府の参与となった。明治二十八年死去。七七歳。名は忠温,のち直道。通称は別に彦六。号は帰耕。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

大垣人の小原鐵心、越前人の中根雪江、酒井十之丞、長州藩の廣澤眞臣は一月十八日参与に任命されている。(「廣澤眞臣日記」)


四月三日
 官代へ行った。

四月四日
 対州(対馬藩)の大島似水と月波楼で会った。雪爪、鐵心(小原鐵心)、海鷗(菱田海鷗)も来た。共に雪爪の旅宿へ行き泊まった。此日は晩方に官代から帰った。

※注
大島似水;友之丞、文政九年(一八二六)~明治十五年(一八八二)。慶応二年(一八六六)から対馬藩大監察,側用人。(ウィキペディア)
映画監督の故大島渚の曾祖父。
 「孝允は、蛤御門の変のとき長州陣に入らず藩邸におり、藩邸が加賀藩に攻撃されたとき対馬藩邸に逃げている。公用方の大島友之助は孝允の縁戚にあたるという」(「逃げの小五郎」司馬遼太郎)
 「幾松は対馬藩の友人に頼んでかくまってもらい、その後、対馬へ落ちのびている」(「桂小五郎の妻」邦光史郎)

菱田海鷗;大垣藩老小原鐵心と共に勤王か佐幕かで紛糾する藩論を勤王に統一した。慶応四年、鳥羽伏見の戦いにおいて、鐵心の子兵部が幕軍に属したため、海鷗は鐵心の命により兵部の順逆を諭しに行く途中、長州藩兵に捕えられ、まさに斬られようとしたとき、絶命の詩を賦して死を免れ、その後鐵心と共に大垣藩を勤皇方に導いた。(菱田海鷗居跡説明文 (大垣市指定史跡))

僧雪爪、小原鐵心;四月二日に記載


四月五日
 官代へ行った。午後、莱山堂を訪れた。夜、鐵心(小原鐵心)、海鷗(菱田海鷗)と会った。話は全て十年来の時勢についてであった。

※注
小原鐵心;四月二日に記載。菱田海鷗;四月四日に記載。


四月六日
 莱山堂を訪れ、共に清雅堂へ行った。思いかけず□□と会った。□□から書を頼まれ、招魂場のための詩を書いた。鐵心(小原鐵心)を訪ねたが家にいなかった。此日は加州人と約束があり、障岳(廣澤眞臣)、頭仙とともに栂尾へ行った。加人は今後の同盟懇親を求めた。それで、次の書状を贈った。
「我が長州藩の、癸丑(嘉永六年ペリー浦賀来航)、甲寅(安政元年ペリー再来航)、戊午(安政五年、藩是三大綱(朝廷に忠節、幕府に信義、祖宗には孝道)決定)、壬戌(文久二年、藩是三大綱を転換し破約攘夷を決定)以来の成り行きは、最初は攘夷、第二に開国、第三に攘夷、第四に今日の形勢となりました。その次第はただ条理に基づき安苦は度外視してきました。第三の攘夷実行の苦節のときに大いに尊藩の方から高誼を受けました。僕は今でも骨に刻み忘れていません。今この会合でその人に会えないのが残念です。しかしながら、今日は大政が一新され、天下は一つになりました。同盟を無限なものにし、皇国を世界の一等国としなければなりません。願わくは世の中の気運にとらわれず、共にそれぞれ道のあるところにしたがって進んでいきたいものです。
戊辰(ぼしん)四月六日夜十時前
加州士大夫へ進呈します。申し上げたいことがまだ少しありますが用紙がなくなったので筆をおきます。」

※注 
この日は休日です;四月一日に記載。

□□は文字が欠けている部分、以下同じです。

小原鐵心;四月二日に記載。


加州の人;加賀藩主前田慶寧(よしやす)は「世子時代から尊皇論に共感を持ち、尊王攘夷派のよりどころとなる。第一次長州征伐には異議をとなえ、父斉泰を説いて幕府に反対を建議させた。」(「幕末維新最後の藩主二八五人」)
木戸は元治元年(一八六四)の蛤御門の変のとき、天皇をお移しするさいには琵琶湖北の近江海津(現マキノ町)の加賀藩飛地に迎えてほしいと頼んだ。慶寧に従っていた不破富太郎(百五十石)はこれを承諾した。慶寧自身が勤王派に説かれその気になっていた。加賀の佐幕派家臣団は慶寧に反対し、長州の敗勢が明らかになると慶寧は病気を理由に慌ただしく京都を引き払った。藩主斉泰は激怒して慶寧に謹慎を命じ、不破富太郎以下四人を切腹させた。ほかに在京家老の松平大貳(四千石)が切腹し御徒士の小川幸三郎は断首、与力の福田惣助は生胴(腰斬)の刑に処せられた。流罪、禁牢、閉門等、連累者は四十余人に及び、加賀勤王等はここに息の根を絶たれた。(「醒めた炎・上巻」村松剛著)
 
栂尾;とがのお、右京区梅ケ畑の清滝川沿い。蛤御門の変の前、木戸は攘夷列藩同盟の結成を進めた。五月に栂尾で因幡、備前、安芸、対馬等十一藩の藩士による集会が開かれた。このときの世話役は因州藩で、長州藩が立つときには因備二藩はできるだけ早く援兵を出すこと、安芸、筑前も出兵に努力することが議定された。(「醒めた炎・上巻」村松剛著)


四月七日
 官代へ行った。夜、福山藩の齋藤素軒他数十余人の求めで、井筒楼で会った。この楼の婦人でこの席にいたものは全員六年前の知人であった。
 
四月八日
 官代へ行った。夕方、清輝楼で似水(大島似水)、雪爪、鐵心(小原鐵心)、海鷗(菱田海鷗)等と会った。愉快に飲んで夜半となった。

※注
大島似水、菱田海鷗;四月四日に記載。僧雪爪、小原鐵心;四月二日に記載。


四月九日
 朝、燕石(日柳燕石)らが楼に来た。九時、官代へ行った。予に大阪へ行くよう命令があった。此夜、柏亭で別れの宴会の約束をした。薄暮に会った者は、土州(土佐藩)の福岡藤次(孝弟)、高山左太衞、長岡健吉、阿州(阿波徳島藩)の中島榮吉、讃州(讃岐高松藩)の燕石、大垣(大垣藩)の鐵石(藤本鐵石)、海鷗(菱田海鷗)、竹州(菅竹洲)であった。雪爪禅師も来て別れの詩の筆をふるった。また、先日、嵐山へ行ったときに作った巻物を写した。それぞれ思いのままに書を書いたり画を描いたりした。明後日、秋月侯(日向高鍋藩秋月種樹)の旅館へお招きがあると、雪爪禅師が伝えた。

※注
大阪へ行く命令;天皇は三月二一日に京都を出発して、二三日大阪の津村御堂(西本願寺)の行在所に着かれた。閏四月七日大阪を出発、翌日京都へ帰られた。(「維新の大阪」鷲谷樗風著1頁)
また、この日、岩倉具視が大阪へ行った。(「松菊木戸公傳・上巻」928頁)

日柳燕石;くさなぎ えんせき、文化十四年(一八一七)~明治元年(一八六八)。江戸時代末期の志士。讃岐国那珂郡子松郷榎井村字旗岡(現・香川県仲多度郡琴平町)の出身。幼名長次郎のち耕吉、名は政章、字は士煥、号は燕石、別号柳東・春園・白堂・楽王・呑象樓・双龍閣。父は加島屋惣兵衛という。幼少時代から気が鋭く、伯父の石崎近潔に学び、その後十三歳で琴平(松尾村)の医師・三井雪航に学んだ。三井雪航や岩村南里に経史・詩文、奈良松荘に国学・歌学を学び、河野鉄兜や森田節斎らと交遊した。詩文に天賦の才を持ち書画をよくした。当時の榎井村は幕府直轄地の天領で、豪商・豪農が軒を並べており、その財力や文化程度は高く、また隣の松尾村の街には、江戸、上方をはじめ全国各地から金毘羅大権現 松尾寺に参詣客が訪れてくるため、当時最先端の情報が集まっていた。そのような環境の下、加島家という豪農で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、十四歳頃までには「四書五経」を読破した。反面、侠気をもって知られ、二十一歳で父母に死別したのちに家督を相続して三十三歳頃まで遊俠したことで、千人を超える郷党浮浪の徒の首領となり、博徒の親分としても知られていた。また勤王の志が非常に厚く、天下の志士と交わり国事のために私財を投げ出して尽力した。文久末年頃より長土諸藩の志士で幕吏の追跡を受けて彼の家に潜匿するものが多く、よくこれらの志士を庇護していたが、慶応元年に(一八六五年)、高杉晋作が幕吏に追われて榎井村に燕石を頼って亡命したのをかくまい潜匿・逃亡させたことから嫌疑を受けて、高杉の身代りに四年のあいだ高松の獄に幽せられた。慶応四年(一八六八)正月二十日に出獄し、その後赦免の朝命に接して京都に上って書を奉った。朝廷は召して御盃を賜い燕石を桂小五郎(木戸孝允)と共に西国地方に周旋させた。その後、仁和寺宮嘉彰親王が会津征討越後口総督として出征する際に、史官に任じられて軍務方記録を掌り、北陸に従軍したが四年間の投獄がもとで従軍中に越後柏崎で病没した。享年五二歳。別号を柳東。(ウィキペディア)

福岡孝弟(たかちか);藤次。天保六年(一八三五)~大正八年(一九一九)。土佐藩士。徴士、参与として新政府に出仕。越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。議事政体取調所御用係を経て藩の少参事、権大参事。政府内では土佐閥の一人として、司法大輔に任ぜられた。その後、元老院議官、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官などを歴任した。(ウィキペディア)坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺されたとき隣の旅館に宿泊していたが駆けつけなかったという。

高山左太衞;「廣澤真臣日記」では神山左多衞となっている。

長岡健吉; 謙吉。天保五年(一八三四)~明治五年(一八七二)。土佐藩出身者。海援隊に参加し「船中八策」を成文化したとされる。龍馬が暗殺されると、海援隊の二代目隊長に選ばれた。坂本龍馬の死後の慶応四年二月に同志を率いて、瀬戸内海の小豆島や塩飽諸島の動揺の鎮撫に務めた。そして四月には土佐藩より正式に新海援隊長に任命されている。四月十八日には新政府に海軍建設の意見書を建白したが、閏四月には土佐藩の命により海援隊を解散し、六月には新政府の大津縣監察を命ぜられている。三河県知事、大蔵省、工部省などに勤務したが、明治五年に東京にて若くして死去した。享年三九歳。(ウィキペディア)

中島榮吉;中島 錫胤(なかじま ますたね)。天保元年(一八三〇)~明治三十八年(一九〇五)。徳島藩士。桜田門外の変を引き起こした水戸藩士の金子孫二郎、高橋多一郎らと関わったことから、万延元年に事件関係者として捕えられ、伏見で投獄された(のち赦免)。文久三年には足利三代木像梟首事件に関係したとして、小室信夫とともに幕吏に追われる。徳島に逃れ、豪商志摩利右衛門に匿われるが捕えられ、慶応四年四月まで獄中にあった。明治元年、徳島藩の徴士となり、刑法事務局権参事、刑法官参事として出仕。明治二年に兵庫県知事に任命された(任期はごく短期間であり、神戸に着任はしなかった)ほか、地方官として勤務。明治六年以後は司法省に勤務し、長崎裁判所長、静岡裁判所長、長崎・宮城・名古屋の各控訴裁判所長、元老院議官を歴任。明治元老院議官、山梨県知事、貴族院議員となる。明治二九年、男爵に叙せられる。華族一代論を主張していたため、死後襲爵の手続きがなされなかった。(ウィキペディア)

菱田海鷗;四月四日に記載。雪爪、秋月侯;四月二日に記載。


四月十日
 朝、秋月侯(日向高鍋藩世嗣秋月種樹)から書状が来た。明日の会合を今日にしたいという。十時、官代へ行った。関東より土州(土佐藩)の報告があり、高山(左太衞)が見せた。慶喜(徳川慶喜)を服罪させる命令の件であった。五時過ぎから秋月侯の旅館へ行った。集まったのは閑叟(肥前佐賀藩主鍋島閑叟)と春岳(越前福井藩主松平春嶽)の二侯、越前の中根(中根雪江)、青山(青山小三郎)、毛受(毛受鹿之助)と鐵心(小原鐵心)、雪爪、藹山(谷口藹山)、柳東(日柳燕石)、障岳(廣澤真臣)と予であった。書画を書き、詩を作り、酒を飲みとても面白かった。春岳侯は私が明日大阪へ行くのに贈るといって次の一句を作った。
朝旭暉時下澱江(ちょうきょく、じかでんこうにかがやく。朝日は今淀川に輝いている)
雪爪が次いで、
青山十里入蓬窓(せいざんじゅうりほうそうにいる。青々と広がる連山があばら家の窓から見える)
閑叟侯が続けて、
舟厨自一樽酒(せんちゅう、おのずからひとたるのさけ。舟の炊事場には一樽の酒がおいてある)
酙到華城愁魔降(くんでかじょうにいたり、うれえてまごうせん。その酒を飲んで大阪城へ行き、気がかりな悪魔を降伏させよ)
秋月が結句を続け絶句の詩を作った。
 また、秋月侯は予に次の詩を贈ってくれた。
要振皇紐折邪忠(皇紐を振るい邪忠を折ることを要す。天皇との結びつきを盛んにし正しくない忠義を断たなければならない)
夙夜在公匪為躬(夙夜公に在りて匪躬を為せ。朝早くから夜遅くまで天皇のそばにあって天皇のために忠節を尽くせ)
請見澱江々上景(澱江〃上の景を見ることを請う。淀川の川べりの美しい景色を見ることを願う)
山河西走護行宮(山河を西走し行宮を護れ。山河を西へ行き天皇の行在所を護れ)
午前二時、馬を走らせて家に帰った。途中、微雨にあった。

※注
中根雪江、小原鐵心、雪爪、谷口藹山、秋月公侯;四月二日に記載。日柳燕石;四月九日に記載。


四月十一日
 朝いろいろな客が来た。十時に家を出て十二時過ぎに伏見に着いた。昨日、上京した奇兵隊兵士が亀甲屋に泊まっていた。まだ出発していない者がいたので、誘って亀甲屋から池田屋へ行った。柳東(日柳燕石)が約束通りすでに来ていた。竹田路で雨にあい淀川舟で雨をついて下った。柳東と少し酒を飲みながらこれまでのことを話した。感慨深いものがあった。薄暮、桜の宮堤下を過ぎた。雨が大変激しかった。伜勝三郎の遺霊を拝礼して通り過ぎた。十三時前、中島の鴻市(鴻池市兵衞)の別宅に着いた。伊勢小淞(伊勢華)と藤井七郎(七郎左衛門)がこの別宅に泊まっていた。柳東もかつてこの別宅に泊まっていた。二氏は家にいなかった。伊勢を尋ねて柳東と河佐へ行った。思いかけず加人と会った。此日従ってきた者□□

※注  
□□は文字が欠けている部分です。


桂勝三郎;嘉永二年(一八四九)木戸の実父和田昌景は、木戸が病弱であり、藩法に家主が老衰または病弱なるときは後嗣を定めることになっていたため、木戸の義兄和田文穰と異母姉八重子の次男、直次郎を仮養子とした。木戸十七歳、直次郎十歳だった。しかし懦弱(ぐうたらで気が弱い)という理由で直次郎をやめ、三男の孝政(通称勝三郎)を養子とした。勝三郎は、元治元年(一八六四)蛤御門の戦いで福原越後に従って戦い負傷し、大坂桜宮で自刃した。十七歳という若さだった。勝三郎が行方不明であるため慶応二年(一八六六)幕長戦争が迫るなか万一のことを考え、来原良三と妹治子の次男正次郎を嗣子とした。正次郎は明治十三年(一八八〇)ドイツ留学から帰国途中セイロン島付近の船中で肝臓病のため死去、二十四歳だった。同年実兄の彦太郎が木戸家の相続人となり、孝正と改名した。(「松菊木戸公伝、第一編第八編」) 

鴻池市兵衞;鴻池家の別家で代々受け継がれた名前のようである。ただ、鴻池宗家の「鴻池善右衛門家」の家系図には見当たらず、かなり早い時期の別家らしい。分家ではなく別家のため、一族以外ののれん分けの可能性もあり、ほとんど情報がでてこなかった。分限者(資産家)の番付などで、その名が散見できるが、どれが何代目かは不明であり、経歴などは不明。大阪府立中之島図書館所蔵の『大坂袖鑑』や他の資料の記述から考えると、安永年間(一七七二~一七八〇)ころには、すでに長州藩の蔵元(名代になっている場合もあり)を務めていたらしい。(レファレンス協同データベース・レファレンス事例詳細)

伊勢華;文政五年(一八二二)~明治十九年(一八八六)。長州藩士。名・華(さかえ)、前名・北条瀬兵衛、通称は織之助、瀬兵衛、(北条)新左衛門、変名は小淞、秋航、管田。天保八年(一八三八)藩校明倫館へ入学し、天保十三年(一八四二)廟司役、弘化二年(一八四五)書物方役、嘉永元年(一八四八)退館して蔵元検使となる。嘉永五年(一八五二)手廻組に加えられ江戸方大検使、安政元年(一八五四)海防用務を以て相州備場へ差遣、ついで帰萩し大組に列せられる。安政二年(一八五五)大坂検使、安政四年(一八五七)江戸方用所役兼地方所帯方役、安政六年(一八五九)西洋学所に入り、万延元年(一八六〇)当職手元役、文久三年(一八六三)蔵元役で大坂詰となり、元治元年(一八六四)七月帰国、同年十一月に辞職した。慶応元年(一八六五)二月表番頭格として所帯方役、慶応二年(一八六六)二月手元役、同年五月、伊勢と改姓、十月、郡奉行役を兼務した。慶応三年(一八六七)上々勘算用聞役として討幕軍出征の輜重会計を監督した。明治元年(一八六八)七月新政府に召されて徴士・奈良府判事、明治二年(一八六九)倉敷県知事に任じたが、明治四年(一八七一)窮民救助方に専断の処置があったため謹慎を命ぜられ、明治五年(一八七二)退官帰国して文筆生活を送る。のち再び出仕し、宮内省京都支庁長官に就任。在任中に肺炎により死去した。(ウィキペディア)
周布政之助と青少年時に親友であった(「修訂防長回天史第二編」)。北条早雲の子孫と伝えられる。

藤井七郎左衛門;藤井勉三。天保十一年(一八四〇) ~明治十三年(一八八〇)。幕末の長州藩士、明治期の内務官僚。広島県令。長州藩士の家に生まれる。明治四年(一八七一)藩費でヨーロッパに留学した。
明治政府に出仕し、明治五年(一八七二)敦賀県参事に就任し、翌年同県権令に昇進。敦賀港の重要性から敦賀県と足羽県を統合して敦賀に県庁を置くことを大蔵省に提言し、翌年に両県が統合された。明治八年(一八七五)広島県権令に転じ、明治九年県令に昇進。初の広島県会を招集し、地方財政の組織化などに尽力。県内の巡視を積極的に実施した。病のため、明治十年に依願免本官となり退官した。(ウィキペディア)

慶応元年(一八六五)干城隊御用係、慶応二年舟木代官役を罷め蔵元役となり馬関に駐在。小倉戦争で前原一誠、野村右仲、国貞直人と小倉藩休戦交渉に当たる。慶応三年馬関伊崎新地都合役兼務、同年九月長崎へ行き小銃を購入する命を受ける。明治元年(一八六八)元徳東上の軍隊の御使番。明治二年藩主の命で勉三と改名。同年会計権少参事また戦功賞詮議用掛。明治三年権大参事野村素介とともに朝廷より洋行を命じられる。朝廷は二十万石以上の大藩より政治に預かる者一人会計に関する者一人を海外の事情を視察させようとして適任者を選抜させた。長州藩はこの二人を答申した。明治四年正月廣澤眞臣遭難の混雑で一時延期し五月出発米欧各国巡遊し、五年三月帰国した。(「修訂防長回天史」)

日柳燕石;四月九日に記載。


四月十二日
 行在所へ行き両総裁(三條實美、岩倉具視)にお目にかかった。江戸へ向かっている大総督(有栖川宮熾仁親王)からの報告があった。先鋒の両惣督(橋本実梁、柳原前光)は、去る四日に江戸城へ入城した。田安大納言殿(徳川慶頼)が慶喜(徳川慶喜)の処置についてのいろいろな条件を受け入れたという。城ならびに軍艦と器械は、五日から十七日を期限として十一日を目当てに命令通り差し出すと約束が決まったという。晩に儲君(もうけのきみ、毛利元徳)の旅館へ行き拝謁して京都の最近の情勢を申し上げた。此朝、鴻池市兵衞の息子の金二郎が来て、初めて面会した。昨夜から伊藤俊介(博文)が大阪に来ていること、また、井上世外(馨)が長崎から大阪へ来たことを、今朝聞いた。芳楳(伊藤博文)の手紙が私の留守に届いており、いろいろなことを尋ねていた。それで、築地の檜了介の旅宿へ行き、両氏に会い、最近の情勢を話し合った。長崎の耶蘇(キリシタン)の問題を初めて聞き慨嘆にたえない。

※注
田安大納言殿(徳川慶頼);田安徳川家第5代、8代当主。徳川宗家第十六代家達の実父。福井藩主松平春嶽は異母兄。
檜了介;慶応三年(一八六七)十一月長州軍上京、翌年一月大阪進攻に参加している。(「修訂防長回天史」)

鴻池市兵衞;四月十一日に記載。

毛利元徳の旅館;天皇行幸の供奉として近習十人手廻十五人隊兵百人士官七人先発兵二百人を率いて大阪に駐在していた。


四月十三日
 朝、廣岡久右衞門が来た。御内用金の預け方の大略を決めた。鴻市(鴻池市兵衞)父子も来た。朝、行在所へ行った。四時、岩卿(岩倉具視)の旅館の東本願寺へうかがった。條公(三條實美)、中御門卿(経之)がおられた。出席したのは後藤象次郎(象二郎)、三岡八郎、辻將曹、予の四人である。これからの大略を話し合った。明日、小松(帯刀)、後藤と予とが会って一定の結論を決め、明後日の十五日に再び会議をするようお願いして帰った。帰路、約束があって境辰楼へ行った。小淞(伊勢華)、柳東(日柳燕石)、吉松平四郎等が先に来ていた。僧□□が席にいて初めて面会した。

※注
□□□は文字が欠けている部分です。

廣岡久右衞門;ひろおか きゅうえもん、天保十五年(一八四四)~明治四十二年(一九〇九)大阪の豪商。加島屋久右衛門家の八代目当主・広岡久右衛門正饒の三男として生まれる。幼名は文之助。明治二年(一八六九)、父・正饒の死後、二十六歳で加島屋当主となり、兄・広岡信五郎、義姉・広岡浅子とともに、加島屋の経営を担う。明治二一年(一八八八)、加島銀行を設立、初代頭取に就任。明治三二年(一八九九)経営支援要請を受けた真宗生命(名古屋)を買収、社長に就任。社名を朝日生命(現在の朝日生命とは異なる)に改称。明治三五年(一九〇二)朝日生命を護国生命(東京)・北海生命(小樽)と合併させ大同生命を設立、初代社長に就任。その他、第1回大阪市議会議員、堂島米穀取引所(堂島米会所の後継)理事長など、大阪政財界の要人として活躍する。日本女子大学校 (現在の日本女子大学)設立時には発起人として尽力するなど、義姉・浅子の事業全般に協力した。

辻將曹;文政六年(一八二三)~明治二七年(一八九四)。広島藩士・辻維祺(豊前)の三男として広島に生まれる。弘化三年(一八四六)家督を継承し千二百石を給付された。嘉永六年(一八五三)のペリー来航を機に、浅野遠江・黒田図書らとともに広島藩内の改革派として台頭し、藩財政の再建・武備の拡張・士気の高揚などを藩に献言、失政を重ねてきた今中相親(大学)ら保守派執政から奪権を企てたが成功せず、安政二年(一八五五)にも改革を企てたが失敗した。しかし安政五年、藩主・浅野慶熾死去により浅野長訓が分家(広島新田藩主家)から藩主を襲封すると、維岳ら改革派が実権を掌握するようになり、文久二年(一八六二)、騎馬弓筒頭から抜擢され野村帯刀らとともに年寄(執政)に任命された。元治元年(一八六四)、年寄上座に昇進し、同年第一次征長の役が起こると、幕府と長州藩との間の和平交渉を周旋した。翌慶応元年(一八六五)、再び征長の議が起こるとこれを「無名の師」として藩論を中立の方向にまとめ、幕府に対し長州藩への寛大な処分と征長不可を説き、これが容れられなかったため、慶応二年の開戦に際しては広島藩の先鋒を拒否した。この結果、広島滞陣中の老中・小笠原長行により謹慎を命じられた。しかしその直後、少壮藩士の反幕的行動が激化したため、六月には放免された。同年、徳川家茂の薨去が公表され征長休戦になると、藩論を「王政復古」へと領導した。慶応三年に上洛し、在京の薩摩・長州両藩士の間で高まりつつあった倒幕の気運に同調し、小松帯刀・西郷隆盛らと謀り広島藩代表として薩長芸倒幕三藩同盟の成立に参加した。しかし、その一方で土佐藩の後藤象二郎が進める大政奉還構想にも同調しており、十月には土佐藩に続く大政奉還建白書を藩主長訓の名で幕府に提出した。同月、徳川慶喜が幕府重臣を二条城に集め今後の方針を議した際、將曹は小松・後藤とともに陪臣の身で召され意見を述べることが許された。しかし以上のような辻、ひいては広島藩の二面的な態度は既に倒幕に固まっていた薩長両藩の不信感を煽ることになり、広島藩は倒幕勢力の中心から外されることになった。大政奉還後の十二月の小御所会議に世子・浅野長勲とともに臨席し、山内容堂に対する岩倉具視の駁言をきっかけに薩摩藩と土佐藩の意見が衝突した際、長勲とともに後藤らをなだめて倒幕の方向で会議をまとめることに成功し、この功績により十二月他の広島藩士二名とともに新政府の参与に任命される。維新後は慶応四年に徴士として参与内国事務局判事となり、同年閏四月には大津県知事に転じたが、十一月には罷免されている。明治二年、復古功臣三四人の一人として永世禄四百石を下付され、明治三年に待詔下院に出仕し同閏十月には辞任した。後は、新政府の中枢に据えられることはなかった。明治十三年には他の旧広島藩家老とともに「広島士族授産所」(のち同進社)を設立、困窮する旧士族の授産事業を進めた。同年、元老院議官に任じられ従四位・男爵に叙されて華族に列せられた。明治二三年、元老院廃止にともない麝香間祗候を仰せつけられた。明治二七年(一八九四)死去、享年七二歳。特旨をもって正四位に叙せられた。(ウィキペディア)

吉松平四郎;慶応二年(一八六六)伊勢華の下で越荷方を勤めている。(「防長回天史、慶応記第四十五章」)

伊勢華;四月十一日に記載。日柳燕石;四月九日に機作。鴻池市兵衞;四月十一日に記載。


四月十四日
 朝少し酒を飲んだ。十時より小淞(伊勢華)、柳東(日柳燕石)と同じ舟で境辰楼を出た。二人は予が銅座にある住友の後藤(象二郎)の旅宿へ行くのを送った。後藤と同じ舟で、築地の小松(帯刀)の旅宿へ行き少し飲んだ。大いに前途のことを話し合った。予と後藤の意見は大同小異で小松も同じ意見であった。時が過ぎ暮れになった。今夕、岩卿(岩倉具視)のところへ後藤と伺う予定であったので、書状を書いて明日に延ばしていただくようお願いした。此日の議論は第一制度についてであった。帰路、伊藤(博文)の宿を訪ねた。阿楳も下関から来ていた。薄暮に旅宿へ帰った。世外(井上馨)が来た。長崎の最近の情勢を話した。

※注
第一制度;閏四月二十一日布告した政体書。中央政府として太政官を置き二名の輔相(ほそう)を首班とし、太政官の権力を立法、行政、司法の三権に分立させた。立法は議政官、行政は行政、神祇、会計、軍務、外国の五官、司法は刑法官の合計七官が担当することとした。しかし、権力者が兼務することが増え三権分立は実現しなかった。その後、明治二年夏に改正され、太政官は二官六省体制になる。議定は十名、参与は九名となり、それまでの議定三十銘参与百名から人数が大幅に減少した。また、地方制度を改革し藩のほかに府県を置くことを定めた。鳥羽伏見の戦い後、政府は元幕府の直轄地や幕府側に組した諸藩の所領を接収して政府の直轄地としていたが、政府の直轄地に府県を設置した。江戸は江戸府となっていたが函館が最初に府となり京都、大阪、長崎、越後、神奈川、渡会(伊勢)と続く。県になったのは旧幕府天領で、奈良、大津、堺、倉敷、日田などである。(「小説木戸孝允」中尾實信著)
「信じがたい決定であろう。三百諸侯がげんに存在し、新政府は諸侯の兵隊をかりて東北諸藩と戦っているというのに、その実情とは無関係に三権分立、官員公選の制度が布告された。」(「醒めた炎下巻」村松剛著)

伊勢華;四月十一日に記載。日柳燕石;四月九日に記載。 


四月十五日
 朝、行在所へ行った。世外(井上馨)に会って長崎のキリシタンの問題について決めなければならないことがあったが、今日は別に重大な会議があるので日を延ばした。午後、岩卿(岩倉具視)の旅宿へ出かけた。後藤(象二郎)、福岡(孝弟)の二人が来た。此日約束していた人がくい違いがあって来なかった。暮れ近くなったので今日の約束を明日に延ばした。この時、閑叟公(肥前佐賀藩主鍋島閑叟)、宇和島公(宇和島藩主伊達宗城)、條公(三條實美)がおいでになった。三岡(八郎)も来た。五時に帰った。儲君(もうけのきみ、毛利元徳)の旅宿へ行った。此日廣岡父子(廣岡久右衞門)、鴻池父子(鴻池市兵衞)、鴻善(鴻池善右衛門)を招かれ酒をくだされた。予に同席するよう命令があった。五人は相互に歌舞狂言を力一杯演じお目にかけた。儲君も数曲お唄いになられた。私らは初めて儲君の唄を拝聴した。みんな大変酔った。帰路、一同は河佐へ行き泊まった。

※注
福岡孝弟;四月九日に記載。廣岡久右衞門;四月十三日に記載。鴻池市兵衞;四月十一日に記載。

鴻池善右衛門;鴻池宗家。江戸時代の代表的豪商の一つである大坂の両替商・鴻池家(今橋鴻池)で代々受け継がれる名前である。家伝によれば祖は山中幸盛(鹿之介)であるという。はじめ酒造業であったが、明暦二年(一六五六)に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成した。十代目鴻池善右衛門の、鴻池幸富(天保十二年(一八四一)~大正九年(一九二〇)は鴻池家の別家である山中家に、山中又七の長男として生まれたが、後に宗家の養子となった。嘉永四年(一八五一)、家督を継いだ。豪商であったため、幕府から海防費の名目で御用金供出を命じられ、浪士組の芹沢鴨から五百両の軍用金を供出するように脅迫されるなど、幕末期は苦難を極めた。慶応四年(一八六八)二月、明治政府によって会計事務裁判所御用掛に任じられる。その後、通商司為替会社頭取などを務めた。明治六年(一八七三)には大阪に国立銀行を設立すべく計画された「第三国立銀行」の発起人の一人となるが、ほかの発起人との意見が合わず、実現しなかった(明治九年(一八七六)に東京で設立された第三国立銀行とは別銀行)。明治一〇年、第十三国立銀行(現、三菱東京UFJ銀行)を創設した。明治四四年(一九一一)、十代善右衛門幸富による産業振興の功績により、十一代善右衛門幸方は男爵に叙爵された。大正九年八十歳で死去。(ウィキペディア)


四月十六日                                                 
 朝八時過ぎ岩卿(岩倉具視)の旅館へ行った。横井平四郎(小楠)が初めて大坂へ来た。長谷川仁右衞門も共に来た。平四(横井小楠)の議論を聞いたが別にすばらしい議論ではなかった。まもなく約束通り、閑叟春山二公(肥前佐賀藩主鍋島閑叟、越前福井藩主松平春嶽)、條中二卿(三條實美、中山忠能)が来られた。後藤(象二郎)、三岡(八郎)、副島二郎(副島種臣)、福岡(孝弟)等みなが来た。平四も同席した。前日の議題を大いに話し合い、ついに制度一変の議論を決めた。これにより、今後は全国へ自由に天皇の行幸ができるようになること、大阪へこれからも度々行幸されること、大阪の天皇の御住居と官代は還幸後は二条城へお移りになること等、平素から熟考していたことがようやくその目的を果たせた。岩條二卿(岩倉具視、三條實美)へかつて内密に建言した件もあり、その数件が間もなく実行されると思うと感喜にたえない。二時過ぎに宿舎へ帰った。於久、於榮らが来た。藤井七郎右衞門(七郎左衛門)を訪ねた。五時に約束があって対州(対馬藩)邸へ行き公(藩主宗義達)にお目にかかった。六年前の昔のことを話した。佩刀をいただいた。銀造りで鍔鉄に龍の彫りがあり目貫は金の獅子である。刀身は肥前忠廣である。夜になってお酒をいただいた。藩主のそば近く使える家臣がみんな出て酌をした。四更(午前二時)に宿舎に帰った。

※注
横井小楠;平四郎。文化六年(一八〇九)~明治二年(一八六九)。熊本藩士。熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。維新の十傑の一人。享年六一歳。(ウィキペディア)

長谷川仁右衞門;肥後藩士。

福岡孝弟;四月九日に記載。藤井七郎右衞門;四月十一日に記載。


四月十七日
 今日、天皇が東本願寺へ行幸された。十二時にうかがうよう指図があった。朝、廣岡久右衞門の手代□□が来た。御内用金をお預かりすることを決めた。九時、急いで東本願寺へ参るよう指図があり速やかに参上した。思いかけず後藤象二郎と予とを天皇の席の近くへ招かれ、天下の形勢と海外万国の大勢を尋ねられた。嘉永六年ペリーの浦賀来航、安政元年ペリーの再来航、安政五年藩是三大綱決定、安政六年神奈川、長崎、函館を開港し貿易開始、文久元年航海遠略策の藩是決定、文久二年藩是三大綱転換し破約攘夷と決す、文久三年堺町御門の変、七卿落ち、元治元年蛤御門の変、第一次長州征伐、慶応二年第二次長州征伐から今日までの大勢と、また万国の大勢を申し上げた。終わってお茶と菓子をいただいた。官位のない者が天皇の顔を間近に拝見したことは数百年来聞いたことがない。感激の涙が襟に満ちた。ひたすら、今日の王政維新の大業の実行が進まないことを大いに嘆く。午後、相撲を御簾(みす)の内からごらんになった。岩條両卿(岩倉具視、三條實美)のもとへうかがい今日の大恩を感謝した。四時宿舎へ帰った。此夜、加人(加賀藩)の□□、河佐へ行き泊まった。

※注  
□□は文字が欠けている部分です。

東本願寺;行幸に随伴していた岩倉具視が旅宿としていた。天皇の行在所は西本願寺(御堂)であった。

廣岡久右衞門;四月十三日に記載。


四月十八日
 此日は祖先の忌日である。心からお祭りした。八時、岩倉公(具視)の旅館に行った。三岡八郎に会った。岩卿(岩倉具視)の考えをお聞きし還幸後の制度改革とその施行の順序を決めた。大いに豊國大明神の神霊を招き祭ることを話し合った。夜、□□久楼へ行った。柳東(日柳燕石)、藤七(藤井七郎左衞門)と少し飲んだ。かつて麻翁(周布政之助)が愛していた□□に会った。二更(午後十時)境辰楼に席を変えた。

※注
□□は文字が欠けている部分です。

祖先の忌日;養父、桂九郎兵衛孝古の命日、天保十一年(一八四〇)逝去、孝允八歳だった。

豊國大明神;慶長四年(一五九九)四月十七日、後陽成天皇(二九歳)により、秀吉は「豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)」の神号を授けられた。(ウィキペディア)

日柳燕石;四月九日に記載。藤井七郎左衞門;四月十一日に記載。


四月十九日
 行在所に行き條公(三條實美)にお目にかかった。耶蘇(キリスト教徒)の処置のことを決めた。宇和侯(宇和島藩伊達宗城)、三岡(八郎)、後藤(象二郎)、井上聞多(馨)がその席にいた。此日岩卿(岩倉具視)が帰京された。夕方井(井上馨)と約束していたので河佐楼へ行った。思いかけず廣岡(廣岡久右衞門)、鴻市(鴻池市兵衞)、小淞(伊勢華)、加州(加賀藩)の留守居役と会った。

※注
廣岡久右衞門;四月十三日に記載。鴻池市兵衞、伊勢華;四月十一日に記載。


四月二十日
 朝、柳東(日柳燕石)と英人カラハを訪ねた。互いにこの三年間のことを話し合った。新しい話も少なからずあった。余に拳銃を贈ってくれた。二時家に帰った。京都と国へ送る手紙を書いた。四時過ぎより柳東、長安、和惣、尾崎善右衞門と□□へ行った。夜十時宿舎へ帰った。

※注 
□□は文字が欠けている部分です。
日柳燕石;四月九日に記載。


四月二十一日
 朝伊藤芳梅(博文)が来た。今日は後藤(象二郎)と神戸へ行く約束があった。一昨日の十九日に但馬の直藏を神戸の伊藤のところへ遣わしていたが、伊藤とともに蒸気船に乗って帰ってきた。十時條公(三條實美)からお召しがあり旅館に行った。関東の報告があった。慶喜(徳川慶喜)は水府(水戸)へ退去して謹慎し江戸城を尾州(尾張藩)へ渡した。軍艦が十二日の朝品川沖を脱走した。一、二日前から軍艦脱走の説がありたいへん気にかけていたが真報を得た。軍艦はすべて房総に碇泊し嘆願書を先鋒総督府へ出したという。大総督府から厳しく田安(田安徳川家徳川慶頼)へ命じて軍艦を帰させる命令があった。條公から天皇還幸の当否の下問があった。大総督府から関東を降伏させ勝利したという報告があった後に還幸しても遅くない旨答えた。始終後藤と同席していた。一時に宿舎へ帰り、三時前に江戸堀の伊藤(博文)の宿舎を訪ねた。後藤も来た。共に舟に乗り天保山(大阪市港区)へ行った。この時西風が大変激しかった。上荷舟を雇い、強健な舟子を選び、風波を侵して舟を出させた。怒濤が三、四度舟を洗った。舟に乗っていた者の多くは色を失い、船を天保山へ引き返すことを勧めた。余は志気を屈することなく、舟子に強いて命じて蒸気船へたどり着き、やっとのことで乗船した。舟子らは今日の風波は八、九割は危険だったという。七時神戸港へ着いた。舟に乗っていた人の八、九割は甲板上に倒れていた。雨を衝いて上陸し鐵屋彌五郎宅に泊まった。此夜、柳原の藝妓が数十名来た。

※注
上荷舟;二十石を載せることができる小舟。

鐵屋彌五郎;天保二年(一八三一)~明治三十四年(一九〇一)。七卿落ち(文久三年(一八六三))の時、神戸で船を提供した。幕末長州藩が摂海防備に当った時の御用達商人で、元治元年(一八六四)の長州藩兵上洛の際、自宅を宿舎に提供し、負傷者の看護に当ったため、兵庫の大坂町奉行兵庫勤番所の幕吏の追及を受け、投獄された。維新後、神戸で旅館、廻漕業を営み、陸海軍の用達を勤めた。この屋敷は西南戦争の時、明治政府の運輸事務所となり、その後明治十三年(一八八〇)から明治一八年までは行在所として使われ、明治一九年からは明治天皇の御用邸として用いられるようになった。明治には、専崎弥五平と名のり、晩年は明治天皇御用邸番であった。明治元年(一八六八)、三宮神社前を通行中の備前藩兵が隊列を横切った外国人を負傷させた「神戸事件」では、伊藤博文が、「鉄屋」でイギリスと交渉した。伊藤は「鉄屋」に居候もしている。(ブログ「散策とグルメの記録・明治天皇御用邸跡の碑」)


四月二十二日
 朝腹が痛いので気力がでなかった。十時頃から英国コンシュルのラウダを訪ねた。慶応元年(一八六五)の夏から秋に度々下関に来た。それ以来四年間疎遠であったが思いかけずこの地で会うことができた。彼は当時この地のコンシュルだった。帰途、外国人の商店を回り一時過ぎに鐵屋へ帰った。三時頃、洋製の馬車に乗り芳楳(伊藤博文)と湊川へ行った。柳東(日柳燕石)も遅れて来た。共に楠公(楠木正成)の墓に参拝した。帰途、柳東、芳梅と同じ車で帰った。洋製の馬車に乗るのは今日が初めてだった。西洋人は二頭連引きの馬車を引いてきた。同行の人は皆二台の馬車に乗って市中を往復した。夕方、宴会が開かれ大いに快飲した。余は病気なので酔うまでは飲めなかった。晩、芳梅の旅宿へ行き後藤(後藤象二郎)と共に泊まった。同行の客はみんな柳原へ行った。芳楳の旅宿はたいへん幽静だった。
※注 
日柳燕石;四月九日に記載。


四月二十三日
 病気はまだよくならない。午後後藤(象二郎)と外国人の商店へ行った。ランセッタ一刀、スツール二脚、水飲み二口を買った。三時芳梅(伊藤博文)の旅宿へ行った。同行の人から西洋料理のごちそうをいただいた。英国公使が国書を持って近日中に来るという知らせがあった。此夜も芳楳(伊藤博文)の旅宿に泊まった。
※注 
ランセッタ;解剖や手術に用いるメスの一種。平たい諸刃(もろは)で先がとがっている。刃針(はばり)。笹針。披針(ひしん)。(三省堂大辞林)
スツール;背もたれのない腰掛け。(三省堂大辞林)


四月二十四日
 十時前乗艦し十二時前に川口に着いた。二隻の小船を頼み帆を揚げさかのぼった。微風で舟はたいへん遅かった。二時過ぎに安治川橋に着いた。急に逆風になり舟は進むことができなかった。薩州邸跡の前より上陸した。後藤(後藤象二郎)等と別れ、廣岡父子(廣岡久右衞門)、鴻池、金子もそれぞれ家に帰った。余も三時前に宿舎に帰った。伊勢翁(伊勢華)は過日からの病気がいまだ治らず病床にある。

※注
廣岡久右衞門;四月十三日に記載。伊勢華;四月十一日に記載。


四月二十五日
 朝、行在所へ行き條公(三條實美)にお目にかかった。また儲君(もうけのきみ毛利元徳)にお目にかかった。長崎裁判所判事の肥前人大隈八太郎(重信)が三條、宇和(宇和島藩伊達宗城)二侯の前に出た。井上聞多(馨)等と浦上辺りの耶蘇(キリスト教徒)の処置について評議があった。余は多くの人の意見を聞き自分の考えをまとめて次のように言った。その巨魁を長崎で厳しく罰し、他の信者三千余人をを尾州(尾張藩)以西の十万石以上の諸藩へ分けて預け、生殺の権を藩主に任せ、厚く教え諭し、やむを得ない場合はその首魁を処置し、七年間は一口半の扶助米を支給し、その巣窟をすべて処理するべきだと。みんな同意であった。夜、條公の命令で大隈は上京した。四時から日柳(日柳燕石)を訪ね御本陣に行き、儲君(もうけのきみ毛利元徳)にお目にかかった。儲君は日柳をそば近く呼ばれお茶と菓子を出され全国各地のことを話された。また絹と金を手ずから与えられた。番長の局へ行き酒と食事をいただいた。八時過ぎ退出し旅宿へ帰った。

※注 
日柳燕石;四月九日に記載。


四月二十六日
 朝條公(三條實美)の旅館に拝謁した。関東の形勢と今後の見込みの質問があり、それぞれについてお答えした。昨日、儲君(もうけのきみ毛利元徳)が帰国したい考えであることをうかがったので、條公に帰国が必要であることを説明し、あらまし御内決の答えをもらった。一時に宿舎に帰った。昨日、井上石見から書状が来た。夕方、大島友之丞(似水)が来た。余を誘って舟で難波橋へ行った。帰ってまた河佐へ行った。盆を傾けたような大雨が降った。三更(十二時)宿舎へ帰った。

※注 井上石見;井上長秋(いのうえ ながあき)。天保二年(一八三一)~明治元年(一八六八)。薩摩藩士。鹿児島諏訪神社神職の家に生まれる。兄に藤井良節(本名:井上経徳、通称:井上出雲)。幕末動乱期において、兄とともに、岩倉具視ら倒幕派の公家と藩との連絡役を務める。慶応四年、西郷隆盛、大久保利通らとともに参与に任ぜられ、箱館府判事を命ぜられる。明治元年九月、択捉島視察の帰途に遭難、行方不明となる。(ウィキペディア)

大島友之丞;四月四日に記載。


四月二十七日
 朝、英国公使並びに、□□、サトーが條公(三條實美)の旅館へ来た。昨日、公使は宇和嶋侯(宇和島藩伊達宗城)へ申し出た。余も今日の会合に加わることをお願いした。かつて耶蘇(キリスト教)禁令は二百余年間最も厳しく数条の禁令があったのを、この度の改正ではただ「耶蘇宗門についてはこれまで通り固く御制禁のこと」と一行に短縮した。邪の文字を入れなかったのは新政府が今日各国との和親を発表したからである。ところが小河彌右衞門がいろいろ添削して一長文とし、再びこれを論じて昔のように、「邪を為すといえども」という小さな文字を邪蘇の二字の下に入れたことを知らなかった。辨事より布告が出され太政官日誌に入った。公使はこれを東久世公から手に入れておおいに怒り、今日條公のところへ来て申し出た。條公が大略を答え、余等はおおいに説明した。公使はすでに我が政府がキリスト教に心遣いをしていることを知って、再び問いただすことはなかった。終わって小松帯刀を訪ね、夕刻宿舎へ帰った。井上世外(馨)等と約束があった。井上、金□□、日柳氏(日柳燕石)、尾崎、□□とまた□□へ行った。帰路河佐へ行き、伊勢氏(伊勢華)等と共に旅宿に帰った。夜すでに四更(二時)だった。

※注
□□は文字が欠けている部分です。

小河彌右衞門:眞木和泉守と同じ文化十年の生まれで、志士歴は新政府の誰よりも古いだろう。豊後岡藩の大身(五百石)の家に生まれ、ペリイの黒船来航の嘉永六年に眞木和泉守や平野國臣と結んで尊皇攘夷運動を起こした。寺田屋事件の前夜には田中河内介とともに即刻蹶起の要を参集した志士たちに説き、帰国後そのために幽閉されている。木戸が青蓮院宮(のちの中川宮、賀陽宮)の命をうけて江戸に向かう岡藩主に会いに行き、小河の釈放を求めた。藩主中川久能も藩の重役もはじめは言を左右にして要求に応じなかったので、木戸は重役をその場で斬ろうかとまで思った。眞木、平野の僚友だった老志士(慶応四年には五十六歳)の小河にとって、キリシタンは邪宗門以外の何ものでもない。(「醒めた炎・下巻」村松剛)

日柳燕石;四月九日に記載。伊勢小淞;四月十一日に記載。


四月二十八日
 朝から、還幸前の布令の草案を書いた。今後は全国各地へ行幸される一条、還御後は二条城へお移りになる一条、今後は大阪へ度々行幸され親しく天下の大勢に従い治められる一条、以上三条の草案を書いた。豊臣秀吉公の神社造営の布告書も調え、束ねて一通とした。今日後藤象二(象二郎)と約束があった。夕刻みんなが来た。共に彼の舟へ行った。伊藤芳梅(博文)、吉□□、後藤象二、英人サトー、ミットホールと余の五人であった。南方の芸妓五六人を乗せた。それから東横堀川に入り富田楼へ行った。此日、伊勢(華)は快復後始めて南方坂辰へ行き、余をしきりに呼んだ。英人二人が帰ってから坂辰へ行った。伊勢はすでに寝ていた。私は輿(こし)を頼んで帰った。此日、後藤と狂詩を作り、中井もこれに合わせて詩を作った。

※注
□□は文字が欠けている部分です。

伊勢華;四月十一日に記載。


四月二十九日
 朝、新田三郎が来た。終日家にいた。布令書を清書した。夕刻、森寺、清岡、土佐の長岡健吉が来た。初更(八時)、旅館へ行き拝謁した。帰路、柏村(数馬)を訪ねたが留守だった。三更(十二時)宿舎に帰った。堀真五郎、井上彌八郎が来た。井上石見と廣澤(真臣)への添書を渡すと二人はすぐに上京した。過日から彼らが蝦夷へ行くことを計画してきたが終に今日決定した。余が計画している条件を示した。神戸行き以来の不快が癒えないので、今日医師の内藤□□。
付記。この医師が十四年前の知人だったことを知らなかった。共に昔のことを語りあって大笑いした。

※注
□□は文字が欠けている部分です。
新田三郎;大総督有栖川宮の軍監(「防長回天史、第六編上第八章」)
堀真五郎;天保九年(一八三八)~大正二年(一九一三)。長州藩士。脱藩して各国の志士達、特に久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を深めて尊皇攘夷活動に加わる。戊辰戦争時には徴士内国事務局判事、次いで箱館府兵事取扱役に就任した。明治元年(一八六八)十月に榎本武揚率いる旧幕府軍が蝦夷地へ上陸を開始すると侵攻を阻止するため防戦したが敵わず、箱館府知事清水谷公考と共に五稜郭を脱して青森へ逃れる。東京に箱館の事情を報告した後、役を罷免されるが翌明治二年一月に復職。しかし結局青森在駐軍の事務係とされてしまい、その後の箱館戦争には参戦しなかった。戦後六月に箱館へ戻り、降伏人などを取り締まる。維新後は東京始審裁判所長や大審院判事などを務める。(ウィキペディア)
 万延元年(一八六〇)脱藩し中国諸藩を遊歴、文久元年(一八六一)萩に帰り松下村塾に潜伏する。翌年、久坂玄瑞らに推され薩摩へ赴き、同藩尊王攘夷派の有馬新七らとともに上京し、寺田屋事変に遭遇。長井雅楽暗殺に失敗し囚われ、釈放後は高杉晋作に従い英国公使館焼打ちに参加、文久三年(一八六三)、吉田松陰の遺骨の改葬にも加わった。中山忠光に従い久留米に赴き、真木和泉らを救出して上京。八月一八日の政変後、山口に帰り八幡隊を編成、総督となった。 慶応元年(一八六五)内訌で大田・絵堂(美祢市)に戦い、翌年、四境戦争で芸州口・小倉口を転戦。明治元年討幕軍の中軍として福山城を攻略後、徴士内国事務局権判事として箱館(函館)裁判所へ赴いた。(萩の人物データベース)  
井上彌八郎;干城隊半隊長(「防長回天史、第六編上第二章、第十二章」)
長岡健吉;四月九日に記載。 井上石見;四月二六日に記載。