「忘れないで欲しい」
と僕は思った。
窓の外では台風が近づいていた。
ニュースでは電車が運休になるかもしれないとか大雨に注意とか、事務的な報告がされている。
つまり彼女は明日テレワークかもしれない。
「忘れないで欲しいな」
と僕はもう一度思った。
同じことを二回思う時、人間はたいてい暇か、自分の気持ちを整理したい時のどちらかだ。今の僕はたぶん後者だった。
二日間が終わった。
たった二日間なのに、妙にたくさんのことがあった。
転職を考えている話を聞いた。
「同じ部署なら辞めないです」
と言われた。
だから僕は「任せておけ」と言った。
今考えると少し格好つけすぎだ。
ただ、格好をつけた以上は何かしないといけない。
ヒーロー映画ならここで音楽が流れるところだが、実際には元上司と喫煙所に行って上に話を通しただけだった。
地味である。
驚くほど地味だ。
でも世の中を少しだけ動かすのは、たいていそういう地味な行動だったりする。
それから彼女は、当日の朝にパソコンのケーブルを忘れたことに気づいて、わざわざ会社まで取りに戻った。
僕は「偉すぎ、頑張りすぎです」と言った。
本当にそう思ったからだ。
たぶん彼女は頼るのが苦手なんだろう。
そういう人はいる。
自分で全部抱えることに慣れすぎていて、人に荷物を渡すタイミングがわからない人だ。
そう考えると、今日キャリーバッグを少し持ってあげれたのは良かったのかもしれない。
たった数秒だったけれど。
人生には意味のある数秒と、意味のない三時間がある。
そして不思議なことに、後になって思い出すのは前者のほうだ。
僕は布団に横になりながら考えた。
今夜彼女は少しでも僕のことを思い出すことがあるだろうか。
もちろん答えはわからない。
でも、ふと思った。
人の記憶って、案外雑だ。
毎日思い出される人なんてほとんどいない。
だけど、ある日突然思い出されるものもある。
河川敷のホタルとか。
雨の匂いとか。
10代の頃のウィルコムとか。
そういう何でもないものが引き金になって、昔会った誰かが急に浮かび上がる。
もしそうなら。
彼女の記憶の片隅に、僕が置き忘れた何かが残っていたらいい。
大きなものじゃなくていい。
海に浮かぶブイみたいなものだ。
邪魔にはならない。
でもそこにあることはわかる。
そんな存在でいられたら悪くない。
台風の風が窓を鳴らした。
明日は会えないかもしれない。
でも不思議と寂しくはなかった。
良い二日間だったからだ。