イランについていろいろとまとめます

→中東問題、イスラム原理主義について→イスラム教とは
イランの歴史(前半)-------------------------------ピンクは世界遺産などになっている場所です。
紀元前3000年頃イラン高原に
エラム王国ができる。この頃
チョガー・ザンビールが作られた。
王国はアッシリア(現在のイラク北部)とバビロニア(〃南部)の戦争に介入していたが、アッシリアの攻撃で衰退していった。
紀元前2000年頃インド・ヨーロッパ語族が中央アジアを起点として東西に移動を始め、東側=イラン高原・インド亜大陸に向かった人々はアーリヤ人と自称するようになる。
アーリヤ人の一部はイラン高原南部のファールス地方に住み着いた。
このファールス地方をギリシア人がペルシアと呼んだのが”ペルシア”の語源となり、またアーリヤは”イラン”の語源となった。
紀元前700年頃現在のハマダーン(テヘランの西)辺りにメディアという国家が築かれるが、アーリア人の王国、
アケメネス朝の創始者キュロス2世に滅ぼされた。また、ペルシア系の王がシャーという称号を用いるようになったのはアケメネス朝が始まり。
紀元前500年頃アケメネス朝はエジプトまで征服し、大帝国を建設した。はじめの都が
パサルガダエである。
黄金期はダレイオス1世の時代で、この頃
ペルセポリスが築かれた。
ダレイオス1世~息子九セルクセス1世の時代にかけてギリシア制服を目論むが失敗した(ペルシア戦争)。
紀元前300年頃マケドニアのアレクサンダー大王によりアケメネス朝が滅ぼされる。
アレクサンダーの死後はセレコウス朝の治世下に入るが、その後バクトリア、パルティアなどが独立を達成した。
紀元前250年頃アルケサス朝パルティアがセレコウス朝の首都を征服。
100年頃サーサーン朝が起こり、パルティアを滅ぼす。
ゾロアスター教を国教としたこと、ローマ皇帝を捕虜にとったことなどが有名。
600年頃サーサーン朝はビザンツ帝国との抗争を繰り返しつつ存続していたが、イスラム教徒=アラブ人の侵略により滅亡する。
その後ウマイヤ朝(カリフを世襲制としたイスラム王朝)の支配下に入る。
850年頃アッバース朝(イスラム王朝)が興り、イランの被支配が改善されていった。
その後はイラン系イスラム王朝のサーマーン朝、東から移動してきたトルコ系の人々が興したセルジューク朝、モンゴル支配の時期のイル・ハーン朝、同じくモンゴル系のティムール朝…と支配が移り変わっていった。
16世紀頃サファヴィー朝が戦国状態に終止符を打った。
スーフィー教団(神秘主義教団)であったサファヴィー教団が政治化したもので、
シーア派十二エマーム派を国教に定めた。元はタブリーズを首都としていたが、エスファハンに遷都し、
エマーム広場の建設を始めた。また、
ペルシア式庭園もこの頃に作られた。
1722年。進入してきたアフガン人により滅ぼされ再び戦国状態に突入する。
18世紀末頃ガージャール朝がイランを統一する。
20世紀頃ガージャール朝が倒れ、イラン最後の王朝
パフラヴィー朝が成立。
------------------------------------------前に別の記事でペルシア文字とアラビア文字は似ているが、ペルシア語とアラビア語は全く違う…と書きましたが。こういうことだったんですね~。
インド・ヨーロッパ語族の中にインド・イラン語派があるそうです。サンスクリット語とペルシア語は兄弟で、しかもヨーロッパの言葉は遠い親戚みたいなものなんですね!
だからアラビアで生まれたアラビア語とは全く違うんですね。
ちなみにアラム文字やそれから派生した文字(アラビア文字や現在のペルシア文字)が広まる前は、イランもメソポタミアで生まれた楔形文字を使っていたそうです。
なのでペルセポリスのお土産やさんとかでよくみる文字はこの楔形文字です。

メソポタミアは現在のイラクにあたるのですが、かの有名なメソポタミア文明は、シュメール、バビロニア、アッシリア、アッカド、ヒッタイト…などのメソポタミアの地に興った国々の文明の総称です。
すごい面白そうな場所なのに政情不安で入れないのがなんとも残念です…。
イランの宗教-------------------------------歴史を見てわかるように、イランはイスラム勢力がやってくる前はゾロアスター教を国教としていた時代もありました。
そしてその後、シーア派を中心とするイスラムとイランの文化の融合が進み現在のイランの宗教が形作られます。
ゾロアスター教とはイ
ラン高原辺りで紀元前7世紀頃にゾロアスターによって始められました。それまでのペルシア人のさまざまな宗教を統合し、世界を善悪二神の対立するものとと
らえました。主神は善神であるアフラ=マズダであり、信者はその象徴の火を崇拝します。悪神アーマリンは破壊と暗黒の神とされています。
火、水、大地を神聖視し、それらを汚すことを嫌い、そのため風葬、鳥葬という習慣があります。現在はイラン(特にヤズド、ケルマーン)やインド、パキスタンに教徒がいるそうです。
十二エマーム派とはムハンマドの死後、イスラム教の最高権威である後継者の位をめぐって、イスラム教は以下の二つに分かれました。
スンニ派:イスラム教徒の総意に基づいて後継者を決めようとする
シーア派:ムハンマドのいとこかつ娘婿のアリーの血統を後継者とする
”カリフ”とは後継者のことを指しますが、”エマーム”はスンニ派では礼拝で合図をする役割の者、シーア派ではアリーの血統をもつ正統後継者を指します。(シーア派における正統なカリフがエマームってことかな…?)
シーア派はアリーの血統のうち何代目のエマームがガイバなのかをめぐり、さらに十二エマーム派(95%)と七エマーム派に分かれます。
ガイバとはイスラム世界が崩壊するときに救世主として現われ、人々とイスラム世界を救うために姿を隠している状態のエマームを言います。
十二エマーム派において、11代までのエマームはスンニ派により迫害され、皆殉教したとされています。各エマームが殉教した日や場所は現在も祭日、聖地となっています。12代エマームこそガイバであり、10世紀の半ばに姿を隠し、現在もそれは続いているとされています。
また、サファヴィー教団の祖:シェイフ・サフィーオッディーンはイスラム神秘主義(スーフィズム)を信奉し、数々の奇跡を起こしカリスマ的存在となりました。その子孫はサファヴィー朝を開き、イランの国教を十二エマーム派と定めました。
神秘主義(スーフィズム)とは、9世紀に流行した、踊りや神への賛美を唱えることで神との一体感を求める信仰形態および思想のことで、宗派ではありません。
自我の意識を脱却して神と一体となることを説き、形式的なイスラーム法の遵守を主張するイスラム法学者たちの教えに対し、より感覚的で分かりやすいその教えは都市の職人層や農民にも受け容れられていったそうです。
イスラーム教の普及拡大に大きな役割を果たしましたが、同時に各地で土俗的な信仰と結びついたりして、本来のムハンマド教えからは離れる傾向もあり、18世紀に起こったワッハーブ派の運動のなかで厳しく批判されています。
サファヴィー教団の他、メヴレヴィー教団も有名です。
メヴレヴィー教団はトルコのコンヤを中心地とし、セマーという、スカートをはいた信者が音楽にあわせてくるくると回転をし踊るという宗教行為で知られています。
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イランと言えばシーア派というイメージですが、南イランはスンニ派が多いそうです。
ホームステイさせてくれたスンニ派のイラン人は、「自分たちはシーア派のことも尊敬しているけど、向こうは自分が一番って感じなんだよね」といっていました。
多神教と一神教の関係に近いのかなーと思いました。
イランの歴史(後半)--------------------------冷戦期
(原油国であったため)イランが冷戦の焦点となって以来、イラン最後の王朝:パフラヴィー朝はアメリカの強い後ろ立てのもと独裁体制を強化していました。農地改革、国営工場の民間払い下げ、
企業利潤の労働者への分配、婦人参政権、文盲撲滅などの目標を掲げた白色革命の発足とともに上からの改革を強権でもって進めようとしていました。
1979年しかし地主層や宗教指導層が反発し、パフラヴィー王朝は倒壊。
イラン・イスラム共和国が成立し、イスラム法の統治、つまり宗教指導者による支配体制が樹立しました。
カリスマ的指導者であった
ホメイニがこの体制を指導しました。王朝と手を組み中東最大の軍事拠点としてイランを確保してきたアメリカにとって、イラン革命は大きな打撃となりました。
欧米、および周辺国は金融的・経済的締め付けによってイランの孤立化を図りましたが、イランはこれに対抗し
アメリカ大使館人質事件などを引き起こしました。
これはテヘランのアメリカ大使館員がホメイニ師支持学生団によって人質にされたという事件で、アメリカは解放を要求しましたが、イランはその引き換えにアメリカに亡命していた国王の引き渡しを求めました。アメリカは人質救出のために軍事作戦を実行するも失敗し、1981年にようやくアルジェリアの仲介で人質は解放されることとなりましたが、この事件によってアメリカとイランの関係は断ち切られてしまい、それ以来両国は断交状態となっています。
1980~1988年1980年のイラクによるイラン侵略を発端とし、イラン=イラク戦争が勃発します。
イラク体制の崩壊がイラン革命の拡大につながると懸念した欧米、および周辺国はイラクを支援しました。戦争は全中東の政治情勢に大きく左右されて泥沼化し、停戦交渉は難航しましたが、88年、国連の停戦決議を両国が受諾しいちおうの終結をみました。
この戦争の結果、革命をイラン一国に封じ込めることには成功したものの、イラク軍の育成につながってしまいました。これがイラクのクウェート侵攻の伏線となり、湾岸戦争、イラク戦争へとつながっていきました。
1989年ホメイニの死後、2代目の”最高指導者”として
ハネメイが就任。ですがカリスマ性は継承できず、また経済の停滞からくる不満もあいまってイランのイスラム体制は民衆の支持を失いつつありました。”宗教に指導された近代化”という理念は厳しい現実に直面していくこととなりました。
なお、イランにも大統領は存在しますが、他国の大統領が国家元首であるのに対して、イランの大統領は単なる行政府の長であり国家元首ではありません。イランの国家元首はあくまで最高指導者であり、ホメイニ師やハネメイ師です。
1997年穏健派のハタミ大統領が政権の座についたことで、ヨーロッパ諸国との関係はかなり改善されましたが、アメリカとの関係はほとんど改善がみられないままでした。
2002年イラン反体制派が核施設の建設が秘密裏に進んでいると暴露。核開発疑惑が表面化しました。その後、ロウハニ大統領(現大統領)が欧州各国と交渉し、ウラン濃縮の一時停止を受け入れましたが、その後、強硬派の
アフマディネジャド大統領が核開発を加速させました。
2006年国連安全保障理事会がイランに対する経済制裁を決議しました。
2013年経済制裁によるイラン経済の停滞と国民生活の困窮が原動力となり、穏健派のロウハニ政権が誕生。10年以上行き詰まっていた核協議が急展開し最終合意を目指す段階にまで入りました。
保守強硬派を支援していたハネメイ師が、穏健派であるロウハニ政権の誕生に目立った抵抗をしなかったことから、ハメネイ師もまた、国民の不満を受け強硬路線の軌道修正に舵を切ったのではないかといわれています。ですが、今後どこまでロウハニ師の政策を許容するかは不透明です。
------------------------------------------私が話を聞いたイラン人の話だと、
・最初は皆ホメイニ師を指示していたが、彼は途中で考えが変わってしまった(理念が民主化からイスラム法支配にすり替わっていた…?)
・ロウハニ大統領が経済制裁を解除しようとしているが、ハネメイ師がそれを抑えている。
・ハネメイ師を支持しているのは50%くらい。
・イランは地理的に重要なポジションなので、欧米との関係さえ良ければ世界の交差路としてドバイのように発展していたはずだ。
・何をするにも制限があることに不満を持っている。
・経済は落ちていく一方だ。
という感じでした。
経済制裁の影響で輸入品の関税がべらぼうに高く、外車なんかは関税100%だそうです。2倍の値段てこと?ほんとかな

プジョーなら50ヶ月、トヨタを買おうと思ったら平均月収だと一生かかるっていってました。
ちなみに英語教師の月収は250$だそうです。
なのでイランで売っているもろもろはイラン製のものが多いです。
イラン南部の港町の方はアジアやドバイとの交易が盛んで、輸入品はそこからイラン内陸へと運ばれていきます。特にゲシュム島という島は関税FREE(?)だそうでそこで車も含め輸入品を購入する人が多いそうです。特別に許されてるってこと・・・?
仕組みがよくわからん

ネット規制に関してはみんな何らかの方法で回避しているらしく、Facebookも普通に使われていました。ハリウッド映画なんかもばんばんダウンロードしてます。
ただ、公務員はばれると良くないらしくネット規制の回避は行っていませんでした。
衛星放送でトルコ等海外の番組を見ている家庭も多いのですが、たまに国の役員がアンテナを撤去しにくる場合があるそうです。
イランの歌手なんかは自由な活動を求めて海外に移住し、そこで歌った映像がアンテナを通してイランに届いているらしいです・・・
イランの服装-------------------------だいたいこんな感じです。
テヘランはカラフルなスカーフやヒジャブ+マーントーも多いですが、少し田舎に行くと真っ黒のヒジャブ+真っ黒のチャドルが多かったです。
南イランはニカブやカラフルなチャドルが多いです。
ブルカはイランではあんまりいません。アフガニスタンなどに多いそうです。

イランの暦--------------------------イランには三つの暦があります。それぞれ以下の用途に使い分けられています。
西暦(グレゴリオ暦とも。太陽暦の一種)→日常生活
イスラム暦(太陰ヒジュラ暦とも。太陰暦の一種)→イスラム教の行事(ラマダンなど)
イラン暦(太陽ヒジュラ暦とも。太陽暦の一種)→イラン古来の祭りなど
イランにおける元日(ノウルーズ)はイラン暦によって春分の日と定められています。
イラン暦は太陽暦なので毎年のずれはありません。
------------------------------------------ちなみに
太陽暦→地球が太陽の周りを回る周期を基にして作られた暦。
太陰暦→月の満ち欠けの周期を基にして作られた暦。
太陰太陽暦→太陰暦を基にしつつ閏月を挿入して実際の季節のずれを補正した暦。
太陽暦なら、毎年同じ日付は同じ季節、太陰暦なら同じ月の形というわけですね!
日本の旧暦は太陰太陽暦の天保暦です。現代の8月15日(十五夜)は毎年満月とは限りませんが、天保暦の時代は毎年必ず満月が見られたんですね。
季節の周期(1回帰年)は約365.2422日で、1年の長さがこれに最も近いのは太陽暦の365日で、4年に1度、ずれを補正するため閏日が置かれます。
太陰暦だと354日なので毎年11日ずつずれていきます。
ラマダンや、イラン以外のイスラム諸国の元日は太陰暦であるイスラム暦に準じてるので、毎年約11日づつ日付がずれていきます。
ずれっぱなしにせずに、その11日分を補正するために19年に7度、閏月を置くのが太陰太陽暦です。
日本の行事は旧暦に準じているので太陰太陽暦もっと勉強したいんだけど、
大の月だの小の月だの朔だのなんだの…
なんかすごく難しそうです
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