マスカット空港発ドバイ行きの飛行機は明日の夕方なので、これから
ショッピングモール散策→歩いて空港へ→空港泊
という流れになります。






UAEと同様スーパーの入り口で荷物を預けて、散策しました。
まあ、普通のショッピングモールです。ドバイのを見た後なのでしょぼく感じます。



ショッピングモールから空港までは5kmくらいあって、荷物もあったので3時間くらいかかりました。疲れた…
しかも完全に高速道路歩いてる変な人でした。


ちなみにマスカット空港はフリーwifiあります。
デバイス数の制限か何かがあったけど一晩くらいなら問題ないです。










そして翌日、ドバイ空港に到着。
今回の発着は第2ターミナルだったのですが、寝れそうなところも、フリーwifiもなく、第1ターミナルまで移動して時間をつぶすことにしました。




私たちはターミナル間を徒歩で移動しましたが、こんなことしてる人は他にいません。普通タクシーです。
しかし私たちにはDhがない…





高速道路歩いてる変な人再び。












アディスアベバの空港では、入ってすぐエボラのチェックがありました。







そして、悲しいことにバックパックカバーがなくなっていた…
アフリカの洗礼を受けました…( ̄_ ̄)








空港のすぐ近くにATMがなさそうだったので、空港内で両替しました。
両替の職員の適当さ。お茶に行っていないて。これがアフリカか。






一応空港内をうろうろしたけど、茨城空港の方が栄えてるレベル。







空港出てすぐの駐車場(?)付近には空港利用者向けと思われる小さなレストランがいくつかありました。
こちらがエチオピア発食事。ピリ辛トマトソースパスタ!エチオピアでパスタと言えば大体これです。






隣のおじさんがビールをくれました。
私もすすむさんも下戸だからちょっと無理して飲んだけど、到着早々エチオピア人のやさしさに触れられて良かった。





空港に戻って、結局baggage claimの脇で寝袋敷いて寝ました。





翌日朝、ミニバスに乗ってピアッサ地区(安宿街)へ向かいます!



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野宿が続くとね…
お風呂に入れないんですよね…








ですが!!
ここニズワには、なんと無料の浴場があるんです!!
昨日のドイツ人が教えてくれました!場所はここですにこ

















こちらです!!!
浴…場…?笑

用水路に屋根がくっついただけ。



でもちゃんと中には荷物を引っ掛けるフックもあるし、石鹸の袋も落ちてる…








何より衝撃なのはね、魚が元気に泳いでいること。

水はけっこうきれい。ほんのり温かいです。


野宿派にはおすすめしたい。



















今日はこれからマスカットに戻り、ルスタクへ向かいます。







とりあえずタクシーに乗ってニズワから5km離れたファークへ。
バスターミナル周辺に着きましたが、ONTCの看板らしきものはあるもののオフィスが見当たらないのでまずはその辺の人に聞き込み。

マスカットまでのバスはない、8時にくる、8時半にくる…皆言ってることがばらばら。


信じてまっていると8時半頃にバスが来ました感動








マスカットに着き、聞き込みすると、やはりルスタックやナハル行きのONTCバスはなく、ミニバスとタクシーを乗り継いでいくしかないとのこと。



ルイ-(ミニバス)→空港-(タクシー)→ムサナ-(タクシー)→ルスタクフォート

と乗り継ぎ…








ルスタクフォートに着きました!!


このフォートは1250年頃にペルシャ時代の残骸の上に建設されたそうです。







内装はほとんどなく、シンプルな感じです。あと電気がなくて暗い。







ルスタクの町。








昼休みだからか、あんまり人がいないです…






ルスタクからナハルまで、タクシーで向かいます。











ナハルのすぐ近くにある、アイン・アットワラに着きました。

ここではなんと、温泉に入れるんです感動キラキラ







温泉脇のいい雰囲気の集落。







こんな感じで、ちゃんと浴槽が作られてます。






地元の人がたくさんいますねー
けっこう温かくて、ちゃんと温泉でした。










温泉に入った後は今日の野宿地探しです。









大通りの西側に草原が広がっているのでそこを目指します。

歩いていたら途中でオマーン人が声をかけてくれ、大通りまで乗せてくれました。
やっぱりオマーン人やさしい…感動






まだ19時なのでレストランで時間つぶし。








こんな感じのところで寝ました。
周りに何にもないのにめちゃくちゃ蚊がいました( ̄_ ̄)











起きて早速ナハルフォートへ向かいました。







入る前に、一休み。








ナハルフォートは17世紀にプランテーションの警護のために建てられたそうです。




ここはデーツの貯蔵庫。






これは…足かせかなあ。








部屋が家具で飾られていて、見ていて楽しいです。






ここはダイニングかな?


オマーン人の伝統衣装がすごくしっくりきますね~









大きな岩の上に造られているんですね。








この寝室もかわいい…。







何も入ってないことの方が多いけど、宝箱開けるとたまに民族衣装が入ってたりします。







入り口にあったポスター。オマーンのベストフォート賞。
ムサンダム地方(UAEを挟んで飛び地になってる地域)の八ッサブフォートが選ばれたそうです。行ってみたいなー。






タクシーに乗るのがもったいなくなってきたので、マスカット行きのヒッチハイクにチャレンジしました。手を上げてものの1分でつかまりました。笑









空港近くのショッピングセンターまで乗せてくれた親切なオマーン人のおにいさん。
しかも紅茶やらデーツやらおごってくれました感動






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オマーンはイスラム教国家だからか金曜日になんやかんやイベントが多いです。




私たちは行きませんでしたが、ロンプラによるとバルカでは闘牛が見られるそうです。ただしバルカ内のどこでやるかは毎週場所が変わるので、ツアー会社などに聞きに行く必要があるそうです。

やっぱ歩き方よりロンプラの方が充実してますね…。日本語訳でないかなあ。





ここ、ニズワでは金曜日にはスークにて各種マーケットが開催されます。





こちらはウェポンマーケット。







銃やらハンジャルやらを男の人たちが物色しています。この銃は何に使うんだろう…猟とかするのかなあ…飾りかなあ…。





ハンジャルを腰につけたかっこいいおじさん。





ゴートマーケットは一番奥にあるので、スーク内をずんずん進んでいきます。











着きました。ヤギ番をする仮面の女性仮面






円状の広場の周りをヤギがくるくる歩かされています。




気に入ったヤギが来ると声をかけて、交渉してお買い上げするみたいです。





ヤギ番の兄弟。






途中で飽きてきたのでターバンコレクションを作ることにしました。



幾何学模様。




刺繍タイプ。これかわいいなー。







このタイプのターバンが欲しくて後でお店でにいったら、3000円くらいする上にMADE IN CHINAだったのでやめました。




でもやっぱり、さまになりますね。





こちらはインディゴブルー。




最後。カメラ目線いただきました。




ちなみに帽子派もたくさんいます。





変われた動物たちはこのようにして運ばれていきます。
ドナドナ…やぎ






軽く腹ごしらえをして…








出発です!!






しばらく走って、ジャブリン城に着きました。
ジャブリン城はデーツ畑の中にポツンとあってそれがすごく素敵なのですが、遠くからの写真を撮り損ねました…涙


周りに広がるデーツ畑。すごく生前と並んでいます。勝手に生えているわけじゃなくて、ちゃんと畑なんですね。昔はすごい大切な食料だったんでしょうねー。




ジャブリン城は、1671年にスルタンの宮殿として造られました。イスラム法、アラビア語、歴史、薬学、天文学の教育の場でもあったそうです。





中はこんな感じです。








入ってすぐ脇に牢獄がありました。







ニズワフォート同様、侵入者に熱湯をかける仕掛けがあります。











調理場には食器が展示してあります。





中庭の吹き抜けの様子。





全体的にデザインがかわいいです。




ジャブリン城の見所は、この天井の装飾です。




宝箱。






周りは何もないです。








ジャブリン城を後にして、ハジャル山地の方へ向かいます。
世界遺産のバハラフォートは通り道でしたが行きませんでした。開いてるか分からないのと、他にもフォートは沢山あるので別にいいかなと…。





ハジャル山地は大体こんな感じです。
ジュベル・アフダル(一番高い山)に上る人はグル村あたりまで車で行って、そこから片道4時間かけてトレッキングするそうです。グル村までは頑張れば普通車でもいけるっぽいです。
ミスファ村までは普通車でいけます。

今日はドイツ人の彼にくっついて?山(名前不明)のトレッキングと、ミスファ村の観光に行きます!









登山道の入り口に着きました。ミスファ村から来た、という現地の人がピクニックに混ぜてくれました。








超絶絵になるおじいさん。ミスファ村やグル村では今でも、ハンジャルを腰につけた人がいくらかいるらしいです。






トレッキング開始です。







道も何もないように見えますが、ちょくちょく目印があります。









片道1時間程度で、山頂に到着。







すごい眺め!小山





山あいの村が見えます。








その後は、ミスファ村へ。ここは小高い山の上にある古い村です。






斜面に沿うように広がっています。





一応観光地らしく、地図なんかがありました。






岩を積み上げた家が建ち並んでいます。






結構古くて崩れそうな家もあります。






でも電気も引かれているし、ほとんどが今でも現役の家々なんでしょうね。







奥へ進むと、ファラジを利用したデーツの段々畑がありました。

ファラジとはオマーンにある地下水路を利用する灌漑システムのことです。コンクリートや石でできた用水路を張り巡らし、使いすぎないように時間を決めて各畑へ水を分配するそうです。






更に進んでいくと山あいの方にワディ(枯れ川)が見えました。






途中、もっと奥へ進んでキャンプするんだーという旅行者に会いました。
いいなー!うらやましい!
オマーンは自然も雄大だし、治安もいいし、キャンプには最適ですね。






ミスファ村から眺めたアル・ハムラ村方面。
アル・ハムラ村も伝統的な村だって歩き方にあるけど、こうしてみる感じ結構町なかにあるみたいですね。




今日一日車に乗せてくれた彼にご飯をおごり…
今日もニズワで野宿です。




今日は大胆にニズワ・フォートの脇で寝てみました。




一回インド人に起こされて、彼は「寒いからぼくの車で寝ていいよ!」と誘ってくれました。
昨日もそうでしたが、さすがに町なかで野宿していると現地の人も心配してくれるんですね。


浮浪者がいるような国でもないし…


でも結局丁重に断って、このまま朝を迎えました。


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マスカットから、朝一のバスでニズワにやってきました。




ニズワはオマーン内陸地方を代表する都市です。6~7世紀には首都として栄えていたそうです。見所はニズワフォートとスークです。
ちなみにマスカットからのバスはスークの前に停まるのですが、ニズワからマスカットに戻る場合、ONTCオフィスは5kmくらい離れたファークという町にあるので、そこまでタクシーかミニバスで行くしかありません。





見所周辺はこんな感じです。








まずはニズワフォートへ!!






オマーンにはたくさんのフォートがあります。

ニズワフォート(内装や展示がしっかりしている)
ナハルフォート(内装や展示がしっかりしている)
ルスタクフォート(内装が物足りない)
ジャブリンフォート(ジャブリン城とも。内装が物足りないが、ロケーションがいい)
バハラフォート(世界遺産に登録されているが、入場の制限があって時間がうまく合わないと入れない)

などです。






個人的には博物館とかも併設してあるし内装もしっかりしていたので、ニズワフォートが一番良かったです。



お土産やさんも併設しています。






このフォートは、17世紀頃、内陸地方の統治と防衛のために当時のスルタンによって作られました。敵の侵入を防ぐための工夫がそこかしこにみられます。


落とし穴があったり…






上には熱湯や油をかける穴が開いていたりします。







結構複雑なつくりなんですね。








塔からのみはらし。
茶色い土壁とデーツの木…タイムスリップしたみたいで素敵ですにこキラキラ





隣の大きなモスクも上から見ることができます。








中はこんな感じ。






おお…。かわいい…。








こちらは炊事場。




宝箱みたいなものがあったり…





これは中国の方から渡ってきた陶器でしょうか?






ここは、使用人とかの部屋かなあ。







フォートの一部は、博物館になっています。






当時のスークを再現した展示など。




アラブの仮面文化の紹介。ニズワのスークでは仮面の女性をちらほら見かけました。






当時の交易。ラクダと船がメインだったんですねラクダ





ニズワフォート前の本屋さんにあった昔の写真。

ベドウィンの家。




かっこいいー…




これは移動用のテントかな・・・?





古い写真をみてるとときめきます
写真集欲しいなー日本帰ってからAmazonで買おうかなあーきゅん







こちらはスーク内のお土産やさん。オマーンでお土産を買うならマトラスークかここだと思います。






ニズワフォートに荷物を押し付けたまま、市内を散策。





内陸を代表する都市といっても、小さいです。人口は6万人程度だそう。
そもそもオマーン全体でも約360万しかいないらしいです。








ここはニズワフォートの入り口前にあるwifiカフェ。スピードそこそこ。




観光客向けなので普通にハンバーガーとかがメインです。


てゆーかハンバーガーか、インド料理しか見たことないので未だにオマーン料理がよく分からない…。





このカフェで隣に座っていたドイツ人と話していたところ、彼も明日ニズワの周辺をレンタカーで回るということで、私たちがタクシーで行こうと思っていたジャブリン城やミスファ村など乗せていってもらえることになりました感動



実はこの展開を期待して話しかけた自分がいます…ごめんなさい・・・にこ汗
でもラッキーだ!!






別のカフェで食べたアイス盛り。確か0.5リアルくらい。





昔のニズワの航空写真が飾ってありましたまっくろくろすけ








ニズワでももちろんホテルに泊まるつもりなんてないので、適当に見つけたスペースで野宿しました。寒くないのかとか声をかけられることはあっても、怒られることはありませんでした。









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起床。





ちなみに今いるのは、ここです。右下。




のどかな集落です。





オアシスの村~って感じですね。











車に乗り、とりあえずアルミントリブの方へ戻ります。







途中で放牧ラクダ発見!!ラクダキラキラ





近いとちょっと怖い。ラクダって蹴ってきたりすんのかな…








アルミントリブの町に着いたのですが、特に現地ツアーやってるような会社もありそうになかったので、とりあえず普通車でいけるところまで砂漠に近づいてみることにしました。







アルミントリブの南の集落。とりあえずここに停めて歩き回ってみようかな。






…と思って車を降りてすぐ、4WDに乗ったおじさんに声をかけられました。

「ベドウィンの家まで行って、お茶しないかい?」
20から値切って2人で15リアル。
ワヒバ砂漠のベドウィンに会うことはオマーンの目的の一つだったので、もちろん行くことにしました!!






わくわく。





おじさんはラクダのえさになる草を運んでいる途中だったみたいです。







舗装道路がなくなり、砂漠に近づいていきます。







ラクダめっちゃいる!!ラクダラクダラクダ






この辺に住んでいるのは皆ベドウィンです。
ラクダを飼ったり…






デーツ(?)を栽培したりしているようです。







おじさんのラクダ小屋につきました。








昔は砂漠移動に必須だったラクダですが、オマーンは各家庭で4WDを所有できる裕福さがあるので今ではラクダは単なるペットと化しているそうです。






むしゃむしゃ。






こちらがおじさんの家。






おじゃましまーす!







デーツ(?)畑。







コンクリート製の近代的な建物と、






昔ながらのヤシでできた建物と両方あります。







内部はこんな感じ。





お土産とか売ってるところをみると、よく観光客を招いているのかな?
それかどっかのツアー会社と提携してるとか。






オマーンではおなじみのデーツとアラビアンコーヒーをご馳走になりました。






その後、一人5リアルでラクダに乗らないかい?と言われ、ベドウィンに会えてテンションが上がっていたのでついお願いしてしまいました。


車で少し走ったところにあるたまり場(?)
おじさんの友達がここでラクダの準備をしてくれるそう。






ラクダ以外にヤギとかいろいろな家畜がいます。



談笑を始めるおじさんたち。





暇なのでぶらぶら…





今日で一生分くらいラクダ見た気がする。







私たちが乗るラクダがやってまいりました。






準備中。





つかまるところの心もとなさ。
でもあからさまな観光用じゃない感じがイイ!にこ







ベドウィンの家がある辺りを15分くらい歩いて終了。
もっと砂丘の方に行ってよ!って言ったけど傾斜が急すぎて無理って言われました。
見渡す限りの砂漠をラクダで歩いてみたかった…残念。






お疲れ様でした。







もっと砂丘の方に近づきたかったので、おじさんに待っててもらい登山開始。





てっぺんに着いたところで、絨毯登場にこ
この先はずーっと砂漠が続いています。





振り返るとこんな感じです。









満足したので、自分たちの車がある場所へ送ってもらいます。





子供がたくさんいます。






本当はもっと砂漠の町を歩き回りたかったのですが、レンタカーの返却時間を考え、先に進むことにしました。(結局返却時間に間に合わなくて二日分支払うことに…もっと砂漠でゆっくりすればよかった…orz)







途中にあったラクダ注意の看板。







次に向かうのはワディ・バニ・カリッドです。
砂漠から離れ、山々した景色になってきました。





ワディ・バニ・ハリッドに着きました!






地元の子供たちが水浴びしています。




奥には大きな池が。






なんとこの池、野生のドクターフィッシュがいます!い
というか今回訪れたオマーンの水場には大体いました。
ドクターフィッシュ(ガラルファ)はトルコを始めとする西アジアが原産だそうです。






更に億へ進むとどんどん水が澄んでいきます。





めっちゃきれいー!もちろん泳ぎましたキラキラ
じっとしてるとすぐドクターフィッシュが寄ってきます。





オマーンの売りは、この雄大な自然ですね~






ワディ・バニ・ハリッドを後にして、昨日時間が足りずに断念したワディ・シャーブに向かいます。








ちなみにマスカット~ワディ・シャーブ~スールを結ぶ道は海沿いを走っていて、景色がいいことで有名です。







ワディ・シャーブに到着です。









道なんだかなんなんだか分からない場所をひたすら進みます。







シンドバッドが落とされた谷もこんな感じだったのかなあ…








一番奥に到着しました。片道一時間かかるだけあって、ワディ・バニ・ハリッドより大自然感がありますね。







服のまま入っても、乾燥してるので帰り道で乾きますナイス





こんなにきもちいい上に角質の掃除までしてもらえるという…






帰り道。石場よりも水路の方が歩きやすいです。






マスカットに到着後、支払い。
二日分になったから計18000円でした涙



夕ご飯は相変わらずカレー。オマーンに来てからカレーしか食べてない。







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エチオピアの遊牧民アファールを見に行くにあたって、遊牧民について一度整理してみたいと思います!ラクダ






まずは最近混乱してきたので地理区分について。

オリエント
ローマ時代にイタリア半島より西方はオクシデントとよばれた。オリエントはその対義語でイタリア半島より東方を指していたが、当時は東方といっても西アジアからエジプト・東地中海岸までしか含んでいなかった。東洋の語源であり、現在は広義には東洋とほぼ同じ広い範囲を指す。

近東、中東、極東
ヨーロッパから見て東洋を三つに分けた概念。中東は西アジアとアフリカ北東部の地域の総称で、それより東は極東、西(ヨーロッパ寄り)は近東。


ちなみにアジアの区分は国連の定義ではこんな感じです。

北アジア東アジア東南アジア南アジア中央アジア西アジア


これは大体の目安で、文献などによって微妙に判断が変わってきます。
アジアってこんなに広かったんだ…ハッ




遊牧民(ノマド)とは-------------------------


人類は主に以下の二つに分けられます。
移動民:遊牧、狩猟採集、または様々な職人・芸能的職業などを生業とするもの(ロマなど)。
定住民:農耕などを生業とするもの。


※ ロマ
北 インドを原郷とする移動型少数民族。ヨーロッパを中心に世界各地に散在。かつては流浪の民として知られたが現在では定住するものが多い。ジプシーが他称 で、自称はロマ。ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けていた歴史があるが、ユダヤ人ほどこの事実は強調されていない。


遊牧民とは、その名の通り、遊牧をしながら移動生活をする人々のことです。
主に東~中央~西アジア、アフリカなどの砂漠や草原に分布しています。その他、北欧、シベリア、ヒマラヤ周辺、アンデス高地などでもみられます。

家族ごとに夏営地・冬営地などの占有的牧地をもっており、気候の変動や家畜の状況にあわせながらある程度定まったルートで巡回しています。


また、遊牧民の生活には交易活動が欠かせません。遊牧生活では穀類や高度な工芸品を安定的に獲得することが困難です。
そのため、遊牧民は移動性を生かして岩塩や毛皮、遠方の定住地から遊牧民の間を伝わって送られてきた遠隔地交易品などを隊商を組んで運び、定住民と交易を行ってこれらの生活必需品を獲得してきました。






遊牧民の歴史-------------------------

世界史上最も大きな影響を及ぼした遊牧民は北アジアのモンゴル高原~中央アジア~イラン高原~東ヨーロッパのバルカンまで至る地域に広がった、スキタイなどの騎馬遊牧民です。
彼らは騎兵戦術に裏打ちされた軍事力で歴史を動かしてきました。
遊牧民を介してユーラシア大陸の東西はシルクロードなどを用いて交流し、中国で発明されたと言われる火薬などの技術が西に伝わりました。
しかし、これら遊牧民の軍事的活躍は鉄砲や大砲などの銃砲火器が発達するに連れて下火となっていきます。
また、農耕民は経済や科学力を発達させ、遊牧民の略奪を容易に許さなくなっていきました。
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以下、現代の遊牧民を紹介していきます。



北アジアの代表的な遊牧民--------------------

<モンゴル>
モンゴル高原~バイカル湖~アルタイ山脈の一帯を合わせた地域に居住する民族。遊牧民族として知られているが現在は牧畜をやめて都市や農村に居住する割合が多い。主な宗教はチベット仏教の流派で、文化的にチベットとの関わりが深い。



シベリア、北欧の代表的な遊牧民
-----------------


<サーミ>
スカンジナビア半島北部~ロシア北部に居住する先住民族。
トナカイ遊牧専業民はサーミ全体のわずかに過ぎず、トナカイ遊牧以外の生活様式を持つ人々のほうが多い。
トナカイ遊牧を専業とする人々は“山岳サーミ人”や“森林サーミ人”と言われる。だが現在では遊牧のみを職業としている人は皆無に等しく、その他副業として第一次産業についている人がほとんど。



アラビアの遊牧民族--------------------

<ベドウィン>
アラビア半島を中心にラクダ・羊の放牧や売買を行い、輸送や他の仕事を営むアラブ系の遊牧民。サハラ砂漠の大西洋岸~シナイ半島~アラビア砂漠へと伸びるほとんどの砂漠地帯で見られる。
イスラム教とその文化はアラビア半島に発し東西に広がっていったが、そこにはベドウィンの風習・文化が色濃く取り入れられた。そのためベドウィンはアラブの祖ともいわれる。
近年、都市とその周辺への定住が進んでいる。




アフリカの遊牧民族
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ラクダ系:トゥアレグ、ベルベル、ベジャ、アファールなど。
牛系:フルベ、ズールー、マサイ、カラモジョンなど。


サハラ縦断交易の中心であったベルベル、トゥアレグや、ダナキル沙漠の塩のキャラバンに従事してきたアファールなどラクダ系遊牧民は、行動範囲が広域にまたがるため古代から交易民としても活躍してきた。
現在は農耕牧畜として定住生活を送るものも多く、生粋の遊牧生活を送るものは年々少なくなってきている。


<ベルベル>
北アフリカの先住民。コーカソイド(白人系)。現在はイスラム教を信じ、アラビア文字を使用する。独自の文化を維持する一方でアラブ化が進み、特に都市部では同化しつつある。遊牧生活をする者と、定住する者とがいる。


<トゥアレグ>
ベルベル人の一支族。北アフリカの内陸部~リビアなどで生活している。
トァレグ族の社会には、他のベルベル諸族にはない厳格なイスラム流の階級制度が存在し、職業や婚姻が厳しく制限されている。
ベルベル人は定住や遊牧、そして、隊商による砂漠横断交易に従事。対してトァレグ族は武装して駱駝に乗り、隊商の警護や襲撃を行っていた。サハラ砂漠を横断する隊商路を支配し略奪を働くことも珍しくなかったため、好戦的な部族として怖れられていたが20世紀初頭にフランス軍に鎮圧され単なる遊牧民と化した。最近は定住する傾向にある。

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主に移送を生業としていた砂漠系遊牧民は、放牧をメインに生活していた草原系遊牧民に比べて定住傾向が強いそうです。
理由は車など新しい輸送手段の出現で仕事がなくなり、生活が続けられなくなったからです。
オマーンのベドウィンもラクダを買ってはいますが、もはやペットだそうです。


ですが、エチオピアの遊牧民アファールは今も現役でキャラバンを組み塩を運んでいます。
エチオピアのインフラがもっと整備されたらいずれこれも見られなくなってしまうのかなあ…





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12時からでないと車がないと言われたので、朝からCostaで時間をつぶします。






12時ぴったりに行くと、帰ってくるはずの車が延長になったので、空港のMarkへ行ってくれとのこと。空港までのバス代は出してくれませんでした。





空港にて、無事レンタル完了。軽はスピードでないから普通車がいいよ、といわれ普通車にしました。そんなに急がないなら軽でもいいと思います。4WD以外は全てオートマです。ちなみに4WDはマニュアル車もあって、オートマより安いです。








14時頃、出発!!先発は自分です車(MPV車)キラキラ


道路がいいのでついつい飛ばしてしまい…
カメラがたくさん設置してあったのが気になってスピード違反で捕まったらどうしようかと後から超不安になりました。
今後スピードには気をつけようと固く誓いました。当たり前か…








16時過ぎにワディ・シャーブに到着。
ちなみにワディ(ワジ)は”枯れ川”という意味で、アラビア半島やアフリカ北部の、降雨時にだけ水が流れる川のことを指すそうです。


これ、雨降んなかったら枯れるの…?嘘や嘘やー





一番奥に続く道がある対岸には船で渡るしかありません。往復2リアル。17時終了。






あーなんかすごいアラビアンナイト感!!素敵!!!ラクダ






あと30分くらいしかないけど、いけるっしょと高を括っていた私たち。
いけどもいけども終わりが見えず…すれ違った人に聞いたら片道1時間とのこと。
間に合わない~!orz





明日もう一度立ち寄ることにしました顔なし





途中で通ったスールの町。ダウ造船所しか見所が無いのでスルー。



途中で寄ったレストラン。またカレー…笑










暗くなった頃にワヒバ砂漠の入り口となる町、アルミントリブに到着。
砂漠で寝たくて砂丘を探しながら走っていたのですが、暗いのもあってなかなか見当たらず、適当に奥まで進んで行き止まりになった場所で車を止めました。


車を降りてアラビアンナイトを散策夜




砂丘らしき影が見え、柵の抜け道を探したりしつつ何とか登頂。


しかし真っ暗で柵が何を囲んでいるのかも分からないし、ここが入っていい場所なのかどうかもわからない…しかも寒い…


なので遊ぶだけ遊んで満足したら車に帰って車中泊することにしました。




とりあえずイランで買った絨毯を敷いてみる。
野宿の時といい、最近大活躍の絨毯。絨毯としての役割を存分に果たしています、笑。









そして、クリスマスの日に砂浜でキャンドルナイトしよーって言って結局砂浜に行かずに出番を失っていたキャンドルが登場。


いいですね~砂漠欲が満たされていきますね~





こちらは奇跡の一枚。ほんとに飛んでるみたい、笑。
カメラマンの腕がよかったんだなきっと。












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ドバイからずっと野宿だったから、ホテルに泊まれて本当に幸せだった…。

さようなら、Marina Hotel…
そして結局、オマーンで宿に泊まったのはここが最初で最後でした泣



今日は、オマーンはどういう風に回ったらいいのか、ツアー会社やレンタカー会社に聞き込みをしに行きます。
マトラは観光地だからたくさんあるだろうと思いきや、ツアー会社もレンタカー会社も無く…( ̄_ ̄)

ルイ地区にいた時にたくさん見かけたのでとりあえずルイ地区へ戻ることにしました。





○△Tour とか ×●Rent-a-car   とか適当に入ってみましたがいまいちよく分からなかったので、地球の歩き方に載っているツアー会社Mark Toursへ行ってみました。



場所はここ。



概観。2階がツアー、1階がレンタカーです。


とりあえず2階のツアー会社に行ったところ、英語の達者なお兄さんが懇切丁寧にオマーンの回り方を教えてくれました。


一応ワヒバ砂漠へ向かうツアーも聞いてみたのですが、高すぎて諦めました。
なのでレンタカーを借りることに。


レンタカーの入り口。分かりにくい。




詳しくはこちらへ…→オマーンの回り方






明日以降の計画も完成したので、wifiカフェ探しへ。
Costaがオススメです。速いし。
ただちょっと高い。ドーナツ一個0.6リアル。










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イランについていろいろとまとめます

→中東問題、イスラム原理主義について
→イスラム教とは



イランの歴史(前半)-------------------------------


ピンクは世界遺産などになっている場所です。


紀元前3000年頃

イラン高原にエラム王国ができる。この頃チョガー・ザンビールが作られた。
王国はアッシリア(現在のイラク北部)とバビロニア(〃南部)の戦争に介入していたが、アッシリアの攻撃で衰退していった。


紀元前2000年頃
インド・ヨーロッパ語族が中央アジアを起点として東西に移動を始め、東側=イラン高原・インド亜大陸に向かった人々はアーリヤ人と自称するようになる。
アーリヤ人の一部はイラン高原南部のファールス地方に住み着いた。
このファールス地方をギリシア人がペルシアと呼んだのが”ペルシア”の語源となり、またアーリヤは”イラン”の語源となった。


紀元前700年頃
現在のハマダーン(テヘランの西)辺りにメディアという国家が築かれるが、アーリア人の王国、アケメネス朝の創始者キュロス2世に滅ぼされた。また、ペルシア系の王がシャーという称号を用いるようになったのはアケメネス朝が始まり。


紀元前500年頃
アケメネス朝はエジプトまで征服し、大帝国を建設した。はじめの都がパサルガダエである。
黄金期はダレイオス1世の時代で、この頃ペルセポリスが築かれた。
ダレイオス1世~息子九セルクセス1世の時代にかけてギリシア制服を目論むが失敗した(ペルシア戦争)。


紀元前300年頃
マケドニアのアレクサンダー大王によりアケメネス朝が滅ぼされる。
アレクサンダーの死後はセレコウス朝の治世下に入るが、その後バクトリア、パルティアなどが独立を達成した。


紀元前250年頃
アルケサス朝パルティアがセレコウス朝の首都を征服。


100年頃
サーサーン朝が起こり、パルティアを滅ぼす。
ゾロアスター教を国教としたこと、ローマ皇帝を捕虜にとったことなどが有名。


600年頃
サーサーン朝はビザンツ帝国との抗争を繰り返しつつ存続していたが、イスラム教徒=アラブ人の侵略により滅亡する。
その後ウマイヤ朝(カリフを世襲制としたイスラム王朝)の支配下に入る。


850年頃
アッバース朝(イスラム王朝)が興り、イランの被支配が改善されていった。
その後はイラン系イスラム王朝のサーマーン朝、東から移動してきたトルコ系の人々が興したセルジューク朝、モンゴル支配の時期のイル・ハーン朝、同じくモンゴル系のティムール朝…と支配が移り変わっていった。


16世紀頃
サファヴィー朝が戦国状態に終止符を打った。
スーフィー教団(神秘主義教団)であったサファヴィー教団が政治化したもので、シーア派十二エマーム派を国教に定めた。元はタブリーズを首都としていたが、エスファハンに遷都し、エマーム広場の建設を始めた。また、ペルシア式庭園もこの頃に作られた。
1722年。進入してきたアフガン人により滅ぼされ再び戦国状態に突入する。


18世紀末頃
ガージャール朝がイランを統一する。


20世紀頃
ガージャール朝が倒れ、イラン最後の王朝パフラヴィー朝が成立。
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前に別の記事でペルシア文字とアラビア文字は似ているが、ペルシア語とアラビア語は全く違う…と書きましたが。こういうことだったんですね~。

インド・ヨーロッパ語族の中にインド・イラン語派があるそうです。サンスクリット語とペルシア語は兄弟で、しかもヨーロッパの言葉は遠い親戚みたいなものなんですね!
だからアラビアで生まれたアラビア語とは全く違うんですね。

ちなみにアラム文字やそれから派生した文字(アラビア文字や現在のペルシア文字)が広まる前は、イランもメソポタミアで生まれた楔形文字を使っていたそうです。
なのでペルセポリスのお土産やさんとかでよくみる文字はこの楔形文字です。


メソポタミアは現在のイラクにあたるのですが、かの有名なメソポタミア文明は、シュメール、バビロニア、アッシリア、アッカド、ヒッタイト…などのメソポタミアの地に興った国々の文明の総称です。
すごい面白そうな場所なのに政情不安で入れないのがなんとも残念です…。






イランの宗教-------------------------------

歴史を見てわかるように、イランはイスラム勢力がやってくる前はゾロアスター教を国教としていた時代もありました。
そしてその後、シーア派を中心とするイスラムとイランの文化の融合が進み現在のイランの宗教が形作られます。



ゾロアスター教とは
イ ラン高原辺りで紀元前7世紀頃にゾロアスターによって始められました。それまでのペルシア人のさまざまな宗教を統合し、世界を善悪二神の対立するものとと らえました。主神は善神であるアフラ=マズダであり、信者はその象徴の火を崇拝します。悪神アーマリンは破壊と暗黒の神とされています。       
火、水、大地を神聖視し、それらを汚すことを嫌い、そのため風葬、鳥葬という習慣があります。現在はイラン(特にヤズド、ケルマーン)やインド、パキスタンに教徒がいるそうです。



十二エマーム派とは
ムハンマドの死後、イスラム教の最高権威である後継者の位をめぐって、イスラム教は以下の二つに分かれました。
  スンニ派:イスラム教徒の総意に基づいて後継者を決めようとする
  シーア派:ムハンマドのいとこかつ娘婿のアリーの血統を後継者とする

”カリフ”とは後継者のことを指しますが、”エマーム”はスンニ派では礼拝で合図をする役割の者、シーア派ではアリーの血統をもつ正統後継者を指します。(シーア派における正統なカリフがエマームってことかな…?)


シーア派はアリーの血統のうち何代目のエマームがガイバなのかをめぐり、さらに十二エマーム派(95%)と七エマーム派に分かれます。
ガイバとはイスラム世界が崩壊するときに救世主として現われ、人々とイスラム世界を救うために姿を隠している状態のエマームを言います。

十二エマーム派において、11代までのエマームはスンニ派により迫害され、皆殉教したとされています。各エマームが殉教した日や場所は現在も祭日、聖地となっています。12代エマームこそガイバであり、10世紀の半ばに姿を隠し、現在もそれは続いているとされています。



また、サファヴィー教団の祖:シェイフ・サフィーオッディーンはイスラム神秘主義(スーフィズム)を信奉し、数々の奇跡を起こしカリスマ的存在となりました。その子孫はサファヴィー朝を開き、イランの国教を十二エマーム派と定めました。



神秘主義(スーフィズム)とは、9世紀に流行した、踊りや神への賛美を唱えることで神との一体感を求める信仰形態および思想のことで、宗派ではありません。
自我の意識を脱却して神と一体となることを説き、形式的なイスラーム法の遵守を主張するイスラム法学者たちの教えに対し、より感覚的で分かりやすいその教えは都市の職人層や農民にも受け容れられていったそうです。
イスラーム教の普及拡大に大きな役割を果たしましたが、同時に各地で土俗的な信仰と結びついたりして、本来のムハンマド教えからは離れる傾向もあり、18世紀に起こったワッハーブ派の運動のなかで厳しく批判されています。


サファヴィー教団の他、メヴレヴィー教団も有名です。
メヴレヴィー教団はトルコのコンヤを中心地とし、セマーという、スカートをはいた信者が音楽にあわせてくるくると回転をし踊るという宗教行為で知られています。


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イランと言えばシーア派というイメージですが、南イランはスンニ派が多いそうです。
ホームステイさせてくれたスンニ派のイラン人は、「自分たちはシーア派のことも尊敬しているけど、向こうは自分が一番って感じなんだよね」といっていました。
多神教と一神教の関係に近いのかなーと思いました。





イランの歴史(後半)--------------------------

冷戦期
(原油国であったため)イランが冷戦の焦点となって以来、イラン最後の王朝:パフラヴィー朝はアメリカの強い後ろ立てのもと独裁体制を強化していました。農地改革、国営工場の民間払い下げ、企業利潤の労働者への分配、婦人参政権、文盲撲滅などの目標を掲げた白色革命の発足とともに上からの改革を強権でもって進めようとしていました。


1979年
しかし地主層や宗教指導層が反発し、パフラヴィー王朝は倒壊。イラン・イスラム共和国が成立し、イスラム法の統治、つまり宗教指導者による支配体制が樹立しました。
カリスマ的指導者であったホメイニがこの体制を指導しました。王朝と手を組み中東最大の軍事拠点としてイランを確保してきたアメリカにとって、イラン革命は大きな打撃となりました。
欧米、および周辺国は金融的・経済的締め付けによってイランの孤立化を図りましたが、イランはこれに対抗しアメリカ大使館人質事件などを引き起こしました。
これはテヘランのアメリカ大使館員がホメイニ師支持学生団によって人質にされたという事件で、アメリカは解放を要求しましたが、イランはその引き換えにアメリカに亡命していた国王の引き渡しを求めました。アメリカは人質救出のために軍事作戦を実行するも失敗し、1981年にようやくアルジェリアの仲介で人質は解放されることとなりましたが、この事件によってアメリカとイランの関係は断ち切られてしまい、それ以来両国は断交状態となっています。


1980~1988年
1980年のイラクによるイラン侵略を発端とし、イラン=イラク戦争が勃発します。
イラク体制の崩壊がイラン革命の拡大につながると懸念した欧米、および周辺国はイラクを支援しました。戦争は全中東の政治情勢に大きく左右されて泥沼化し、停戦交渉は難航しましたが、88年、国連の停戦決議を両国が受諾しいちおうの終結をみました。
この戦争の結果、革命をイラン一国に封じ込めることには成功したものの、イラク軍の育成につながってしまいました。これがイラクのクウェート侵攻の伏線となり、湾岸戦争、イラク戦争へとつながっていきました。


1989年
ホメイニの死後、2代目の”最高指導者”としてハネメイが就任。ですがカリスマ性は継承できず、また経済の停滞からくる不満もあいまってイランのイスラム体制は民衆の支持を失いつつありました。”宗教に指導された近代化”という理念は厳しい現実に直面していくこととなりました。

なお、イランにも大統領は存在しますが、他国の大統領が国家元首であるのに対して、イランの大統領は単なる行政府の長であり国家元首ではありません。イランの国家元首はあくまで最高指導者であり、ホメイニ師やハネメイ師です。


1997年
穏健派のハタミ大統領が政権の座についたことで、ヨーロッパ諸国との関係はかなり改善されましたが、アメリカとの関係はほとんど改善がみられないままでした。


2002年
イラン反体制派が核施設の建設が秘密裏に進んでいると暴露。核開発疑惑が表面化しました。その後、ロウハニ大統領(現大統領)が欧州各国と交渉し、ウラン濃縮の一時停止を受け入れましたが、その後、強硬派のアフマディネジャド大統領が核開発を加速させました。


2006年
国連安全保障理事会がイランに対する経済制裁を決議しました。


2013年
経済制裁によるイラン経済の停滞と国民生活の困窮が原動力となり、穏健派のロウハニ政権が誕生。10年以上行き詰まっていた核協議が急展開し最終合意を目指す段階にまで入りました。
保守強硬派を支援していたハネメイ師が、穏健派であるロウハニ政権の誕生に目立った抵抗をしなかったことから、ハメネイ師もまた、国民の不満を受け強硬路線の軌道修正に舵を切ったのではないかといわれています。ですが、今後どこまでロウハニ師の政策を許容するかは不透明です。

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私が話を聞いたイラン人の話だと、

・最初は皆ホメイニ師を指示していたが、彼は途中で考えが変わってしまった(理念が民主化からイスラム法支配にすり替わっていた…?)
・ロウハニ大統領が経済制裁を解除しようとしているが、ハネメイ師がそれを抑えている。
・ハネメイ師を支持しているのは50%くらい。
・イランは地理的に重要なポジションなので、欧米との関係さえ良ければ世界の交差路としてドバイのように発展していたはずだ。
・何をするにも制限があることに不満を持っている。
・経済は落ちていく一方だ。


という感じでした。


経済制裁の影響で輸入品の関税がべらぼうに高く、外車なんかは関税100%だそうです。2倍の値段てこと?ほんとかな
プジョーなら50ヶ月、トヨタを買おうと思ったら平均月収だと一生かかるっていってました。
ちなみに英語教師の月収は250$だそうです。

なのでイランで売っているもろもろはイラン製のものが多いです。
イラン南部の港町の方はアジアやドバイとの交易が盛んで、輸入品はそこからイラン内陸へと運ばれていきます。特にゲシュム島という島は関税FREE(?)だそうでそこで車も含め輸入品を購入する人が多いそうです。特別に許されてるってこと・・・?
仕組みがよくわからん



ネット規制に関してはみんな何らかの方法で回避しているらしく、Facebookも普通に使われていました。ハリウッド映画なんかもばんばんダウンロードしてます。
ただ、公務員はばれると良くないらしくネット規制の回避は行っていませんでした。
衛星放送でトルコ等海外の番組を見ている家庭も多いのですが、たまに国の役員がアンテナを撤去しにくる場合があるそうです。
イランの歌手なんかは自由な活動を求めて海外に移住し、そこで歌った映像がアンテナを通してイランに届いているらしいです・・・

イランの服装-------------------------


だいたいこんな感じです。
テヘランはカラフルなスカーフやヒジャブ+マーントーも多いですが、少し田舎に行くと真っ黒のヒジャブ+真っ黒のチャドルが多かったです。
南イランはニカブやカラフルなチャドルが多いです。
ブルカはイランではあんまりいません。アフガニスタンなどに多いそうです。








イランの暦--------------------------

イランには三つの暦があります。それぞれ以下の用途に使い分けられています。

 西暦(グレゴリオ暦とも。太陽暦の一種)→日常生活
 イスラム暦(太陰ヒジュラ暦とも。太陰暦の一種)→イスラム教の行事(ラマダンなど)
 イラン暦(太陽ヒジュラ暦とも。太陽暦の一種)→イラン古来の祭りなど


イランにおける元日(ノウルーズ)はイラン暦によって春分の日と定められています。
イラン暦は太陽暦なので毎年のずれはありません。

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ちなみに

太陽暦→地球が太陽の周りを回る周期を基にして作られた暦。
太陰暦→月の満ち欠けの周期を基にして作られた暦。
太陰太陽暦→太陰暦を基にしつつ閏月を挿入して実際の季節のずれを補正した暦。


太陽暦なら、毎年同じ日付は同じ季節、太陰暦なら同じ月の形というわけですね!
日本の旧暦は太陰太陽暦の天保暦です。現代の8月15日(十五夜)は毎年満月とは限りませんが、天保暦の時代は毎年必ず満月が見られたんですね。


季節の周期(1回帰年)は約365.2422日で、1年の長さがこれに最も近いのは太陽暦の365日で、4年に1度、ずれを補正するため閏日が置かれます。

太陰暦だと354日なので毎年11日ずつずれていきます。
ラマダンや、イラン以外のイスラム諸国の元日は太陰暦であるイスラム暦に準じてるので、毎年約11日づつ日付がずれていきます。


ずれっぱなしにせずに、その11日分を補正するために19年に7度、閏月を置くのが太陰太陽暦です。



日本の行事は旧暦に準じているので太陰太陽暦もっと勉強したいんだけど、
大の月だの小の月だの朔だのなんだの…
なんかすごく難しそうです



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マスカット概要**********************************

マスカットにはルイ地区、マトラ地区、オールドマスカット地区という核となる地区があります。
3地区はミニバスなどで簡単に行き来できます。3~4kmなので頑張れば歩けるかも。


ルイ地区:ONTCのマスカットオフィスがある。国立博物館(工芸品、民族衣装など)がある。
マトラ地区:マトラ・スークがある。
オールドマスカット地区:3つのフォートがあるが、中には入れない。

他、これらの地区から10km以上離れたところに、スルタン・カブース・グランド・モスク(大理石製の巨大なモスク)、オマーン博物館(地理や歴史の説明、工芸品など)などがあります。



ツアー会社やレンタカー会社は空港、もしくはルイ地区で探すのがいいと思います。

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ルイ地区はこんな感じです。







すごくお世話になったONTCオフィス。ルイ地区滞在中はずっと矢印の所で野宿させてもらってました。一回も怒られなかった…。




とりあえずONTCに荷物を置き、国立博物館へ行ってみます!





ONTC近くのいい感じのモスク。オマーンのモスクは色合いがかわいいです。






着きました、国立博物館!!


しかし、閉館中!顔なし英語しゃべれない警備員さんしかいなかったので閉館理由は謎です。
休館期間だったのか閉館日だったのか…。









国立博物館に振られたのでさっさとマトラへ向かいます。






マトラはこんな感じです。


一番安いNaseem Hotelが満室で、もう一つの比較的安いという噂のCorniche HotelもやっていなかったのでMarina Hotelへやってきました。

ツインルーム 25リアル(8000円くらい)
wifi付き、スピードそこそこ、ただしロビーのみ



部屋からの眺め。






観光地なのでカフェやレストランが多いです。



またカレー。







白に水色。かわいらしい色合い。








マトラはカブース港という港を囲むようにあります。右に見えるのはマトラ・フォートです。中には入れません。








マトラ・スークに着きました。

お土産やさんがたくさん入っています。そんなに広くないです。




これは乳香
乳香の木(主にサラーラ近郊に分布)から取れる樹脂を固めたもので、火をつけるといい香りがします。




古代エジプトでは宗教儀式に、ローマでは遺体の焼却や病気の治療に使用されたそうです。また、水が無く部屋の掃除や入浴が十分にできない時に、におい消しにも使われていたそうです。





乳香のにおいをはじめとして、小さなボトルで香水も売っています。





オマーン湾を行き来していた航海士の骨董品かなあ…。







東南アジアに始まり、ここまでほぼ全ての国で見かけているこいつ。
何者…






こちらはハンジャル(半月刀)。オマーンの国旗にも使われています。


半月刀はアラブ全体で見かけますが、ハンジャルはオマーン、ジャンビアはイエメンにおける呼び名です。半月刀を身に付けることは一人前の戦士としての証であり、14~15才になると男児は一人前と認められジャンビアを身に付けるようになるそうです。オマーンでもたま~に腰につけている人を見かけますが、イエメンでは今もこの風習が現役で、成人男性は皆腰に半月刀を身につけているそうです。




こんな感じ剣



オマーンでお土産を買うならここかニズワになると思います。








スークから帰る途中、伝統的なゲームをしている人に遭遇。
これ、ドバイの博物館で見たやつだ!






オマーンは男性が皆、伝統的な服装なので絵になります。







夕ご飯。





ロビーでwifiを使っていたら警備のお兄さんがケンタを分けてくれました感動
















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