あれからもう30年も経ったか…
当時は学生時代だった自分…1月半ばから3月いっぱいの長い春休みだった…
大学が休みだと現在の羽沢横浜国大前駅がある横浜羽沢貨物ターミナル内にあったスーパーのダイエー配送センターで荷物の検品と仕分け、出荷のアルバイトに勤しんでいた頃。山村硝子の子会社の山村倉庫の運送会社ヤマソー運輸の契約社員になっていた。スーパーのダイエーが最期の輝きを見せていた時代だった。
友人から相模原市在住の筋ジストロフィーの身体障害者の旅行の介助を依頼された。
その男性は電動車椅子での移動生活。生計は障害者年金で暮らしていた又さんという当時50代の男性。
手脚が不自由かつ言葉もはっきりと発言出来ない。その男性は障害者年金をコツコツ貯めて年に一度の国内旅行を楽しんでいた。
又さんは相模原市大野台3丁目にアパートを借りて独り暮らしをしていた。 
日々の生活の手助けは近くにあった和泉短期大学の福祉関係の学生さんたちがアルバイトと実習を兼ねて行っていた。
いつもならば和泉短期大学の学生さんたちを引き連れて旅行をしていたが、この年は和泉短期大学の学生さんたちの都合が合わず、福祉関係とは無縁な我々のところに話が来た。
条件は旅費(交通費、食費、宿泊費など)は全て又さんがアルバイト代として負担する、個人的に食べたいものや欲しいものなどは各自負担、あとは又さんの食事や入浴、お手洗いと車椅子移動の世話をする、言葉が不自由だから通訳みたいなサポートをすることが条件だった。
旅行先は九州。
鹿児島~熊本~長崎~福岡だった。
旅行先の中身は我々と又さんで後日決めた。
これは美味しい旅行だと快諾した。しかも身体障害者の介助という未経験の経験ができるからだ。
出発日は3月20日に決まった。

少しさかのぼるが同じ年の1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生した。
阪神淡路大震災により陸路の東西の交通網が寸断されていた。確か名神高速道路も寸断されていたのではなかったか?東海道・山陽新幹線はまだ3月いっぱいは寸断されたままだった。
新幹線が動いていれば往路か復路は新横浜~博多間は新幹線移動にするつもりだった。又さんは長い新幹線移動の間に車内販売のお弁当やお酒、おみやげが楽しみだったらしいが、新幹線での移動が叶わず残念がっていたのが今なお記憶に残る。
結局、羽田空港から飛行機で鹿児島へ、鹿児島から熊本へ、熊本からフェリーで長崎へ、長崎から博多へ、福岡空港から羽田空港へ帰るということになった。 
3月20日、私は横浜線沿線住民だから始発電車で小机駅から淵野辺駅へ向かい、淵野辺駅で予約したタクシーに乗って又さんの自宅へ。そのタクシーを待たせて又さんを乗せてタクシーで羽田空港まで向かった。タクシー代は相模原市のタクシー会社だったから相模原市の発行した福祉タクシー乗車券が使えたからタクシー代金の支払いはなし。私は付添人だから淵野辺駅から又さんの自宅までの料金も福祉タクシー乗車券で賄えた。
羽田空港で大学の友人たちと合流した。
その時は平和そのもの、いつも通りの当たり前な羽田空港の光景だった。
又さんを飛行機に搭乗させないといけないから空港スタッフや航空会社スタッフ、客室乗務員への手配やら連絡などを行うために飛行機の出発前は3時間前には航空会社のカウンター前に到着した。
確か飛行機の出発は9時半頃だった。航空会社は全日空だった。
事前に旅行会社を通じて航空券や鉄道などは押さえていたから全日空には既に情報が伝わっていてスムーズだった。宿泊施設は個別に予約していた。 
順風満帆な九州旅行の始まり…
空港のロビー待合室にて搭乗まで1時間前、NHKの朝の連ドラを映すロビーのテレビを暇つぶしに観ていた。
あの当時は連ドラは8:15スタートで8:30終了だった。
その連ドラが終わったかと思ったら画面が突然、霞ヶ関上空からの映像に切り替わった。
霞ヶ関で地下鉄駅の車内や構内で気分が悪いという人たちが次々と現れ、119番通報が相次ぎ、東京消防庁の救急車や消防車両が集結している、何が起きたのかわかっていないと… 
その時は首都圏のみにそのニュースが流れていて首都圏以外では報道されていなかったようだった。
何が起きたのか、羽田空港のアナウンスで「霞ヶ関などで事故か事件が発生して地下鉄などがストップしているため、今後は航空機の出発時刻を変更する可能性があります。お急ぎのところ大変恐縮ではございますが何卒、ご了承下さい」と流れた。
我々も気がかりながらも我々が搭乗する鹿児島便は定刻出発ということで鹿児島へ向かった。
鹿児島に到着した。鹿児島市内ヘ。鹿児島では霞ヶ関でこんなことが起こっているという情報がほとんど流れておらず、鹿児島の市民は誰ひとり知らなかった。
鹿児島空港のスタッフたちすら知らなかった。都心の交通機関がストップして入るから羽田空港で航空機の出発時刻を遅らせるという情報しか入っていなかった。
カルト教団のオウム真理教がまさか地下鉄でサリンぶち撒く地下鉄サリン事件が起きていたなんて知る由もなかった。
宿泊先の鹿児島市内のホテルでテレビをつけてニュースを観たが東京都心の霞ヶ関駅など地下鉄の駅数カ所で気分が悪くなり倒れた人たちが相次いでいる、中には亡くなった方や意識不明の重体の方たちも相次いでいる。詳しい情報は入っておらず、状況は不明です。」ということだった。
3月20日を過ぎて九州ではようやくトップニュースで流れはじめ、6泊7日の6日目の晩は博多のホテルに宿泊したが街中のテレビはもちろん地元新聞は1面記事になっていた。
30年前はまだまだポケベル程度の時代、スマホどころかガラケー含めて携帯電話はなかったし、当然パソコンは家庭にはなかったし、SNSどころかインターネット自体がなかった。メールでやりとりなんか無い。
急ぎ伝えるは固定電話か公衆電話、最悪は電報だった。
だから現代のようにネット配信だのメールだのSNSだのなかった時代だったから現代のような憶測情報やらフェイク情報が全くなかったとは言えないが現代社会よりはそうした根拠がない情報が氾濫するようなことはなかったのが幸いだった。
しかし、ネットなどなかった時代、当時の世の中に絶望したり挫折したり、未来に希望持てない…などの若者たちが麻原彰晃こと松本智津夫率いるオウム真理教というカルト教団に相次いで入信して弁護士殺害事件、假屋さん殺人事件、その他信者の裏切り者をポアする(ポアするとは粛正という儀式の名のもとにて人を殺害すること)を行い、松本サリン事件を引き起こした。信者たちはマインドコントロールされて麻原を絶対的存在の教祖として神格化し、麻原の言いなりのままに次々と反社会勢力へと進んだ。
ネットなどの情報でなくても人はカルトやフェイク情報、憶測情報をも信じてしまう、根拠がない情報を信じて過ちを犯す…
今も昔も形や中身は違えども人間の根本は変わりはない。
そんな気がした。 
サリン事件で被害者たちが苦しむ中、我々は九州旅
行を満喫していた。
サリン事件発生から確か2か月くらいが経ち、オウム真理教の大本部があった山梨県上九一色村に数千人規模の機動隊員が続々とオウム真理教の施設に入り、事件に関わった信者たちや幹部、そして教祖だった松本智津夫が逮捕、連行される様子が生中継された。
こうした事件を繰り返さないために、情報氾濫社会の現代においてどうあるべきか、オウムサリン事件発生から30年経った現在に突きつけられた問題でもあるかもしれない、当時を振り返るとそのことを痛感させられているような気がしてならない。
そしてオウム真理教の後継教団には麻原彰晃を未だ神格化して崇め、サリン事件を知らぬ若者たちの入信が増えているという現在、日本は旧統一教会を含めて宗教という精神世界を利用して信者を増やしている反社会勢力組織への厳しい対応がなされていないことに危機感を感じるのは私だけだろうか?
サリン事件の本質を事実を明らかにし、戦後最悪のテロ事件ということをしっかり記録して忘れてはならないと考えている。