いよいよ7/15に芥川賞の選考会があります。

それに先立ち、今回もまた7/11(土)に親しい文学仲間と集まり、作品の合評をし、それぞれが良いと思う作品に上から5~1の点数をつけ、合計点でベストを選ぶという【芥川龍之介賞・勝手に選考会】を開催。

 

参加者は12名だったので、全員が5点をつけると60点になります。

 

◆候補作◆

石原 燃 『赤い砂を蹴る』 (文學界6月号)
岡本 学 『アウア・エイジ (Our Age)』 (群像2月号)
高山羽根子 『首里の馬』 (新潮3月号)
遠野 遥 『破局』 (文藝夏季号)
三木三奈 『アキちゃん』 (文學界5月号)

 

わたしが良いと評価した順に簡単な感想を書き、併せて全員の採点も記載します。今までになく評価は割れました。

 

※5点※

遠野 遥 『破局』

一人称の「私」は常に自分自身を疑うかのように、検証を試みる。

たとえば…

佐々木の家へ行くには、国道に乗る必要があった。しかし考えてみれば、いつか佐々木から国道と聞かされただけで、本当に国道かどうか確かめたことはなかった。車が止まり、左を見ると服を着た白いチワワがいた。私が知らないだけで、チワワはみんな白いのかもしれない。

といったぐあいだ。客観視する私がほかにいて、「おいおい、ほんとにそれでいいのか?」と問いただされてでもいるかのようで、のっけから少しズレた印象を受けた。自分自身の観察にとどまらず、「私」は他の観察にも余念がない。先ほど引用した部分の「チワワ」についての描写は延々と続く。チワワが「私」の顔をじっと見ているのは、私が見るからチワワのほうも見るのか、と考える。

 

「私」は高校時代にラグビーをしており、大学生活のかたわら、母校の指導に行く。勉強も真面目に取り組み、公務員試験の準備も計画通り進めており、さらには政治家を目指す麻衣子という彼女もいる。こう書けば、体力、知力に恵まれた何の不足もない大学生のようだが、自分を疑い判断の物差しが自分の外側にあるような主人公の意識に、居心地の悪さを覚え、読んでいて不安になる。

 

肉が好きで、セックスが好き。肉は旨くて、セックスは気持ちがいいから……。極めて動物的に欲望には素直に従う「私」。麻衣子と別れたのち付きあいだしたセックスの経験のない灯という彼女がだんだん、セックス依存症のようになっていく。料理を作らなくなり部屋で飼っていたメダカが死んでもそのままという状況が不穏そのもの。「正しく」生きているはずの「私」の人とは異なる小さなズレによる亀裂。

 

高校のラグビー部でも「勝つために」(優勝ではなく準決勝に進出するため、というのがまた中途半端で良い……)自分のストイックな考えで編み出した練習方法を後輩たちに押しつけ、少しずつ居場所が崩れていく。麻衣子が幼かったときの男から追いかけまわされて逃げるエピソードや、北海道に灯と旅行に行き、雨が降ったために部屋で観たゾンビ映画についての細かい描写は、一見本筋には関係なさそうなのに、引き込まれて身体的にぞわぞわする。

 

麻衣子を追いまわした男やゾンビは、このとき自分を律することのできる「私」とは一線を画した向こう側にいるものたちなのだが、その境界はそんなに強固なものだろうか、という疑念がわたしのなかに生まれてきた。

 

「私」の行動規範のひとつに世間一般の「マナー」がある。男女共用のトイレで便座が上がったままなのは、物心ついたころから許せなかったのだが、その理由は次に使う人への配慮がない身勝手なマナー違反だから。たしかに、正しい。だけど、なにか違和感がある。また、灯が笑い、それを真似て笑った、というのも変だ。灯に飲み物を買ってやれなかったために泣くのだが、そのあとで悲しくなる理由はないので悲しくはないはず、と断じる。

 

この小説には生い立ちなどをふくめ、両親や兄弟も出てこない。麻衣子による思い出話は少しあるが、過去回想もないところが潔くて良い。いつから彼がこんな考え方を身に付けたのか、と想像してみる。たぶん、幼いころから人間だけでなく、あらゆることに興味を持ち観察していたのだろう。陰毛がなぜ縮れているかまで考えるのだ。

 

「膝」という変わった名前の友人がいる。同じ大学でお笑いのクラブに入っている。公務員試験に受かった先輩に話を聞くこともある。うまく人とコミュニケーションをとれるのに、そして主人公の「私」は特に不安になったりもしないのに、読者のわたしだけが不安になる。特殊な文体は、一人称の「私」の思考そのものであり、そこに取り込まれていくような気さえする。タイトルの「破局」がずっと頭のなかにあり「いつか破局する」とページをめくるたびに呪いのような言葉があふれてくる。

 

ラストは「破局」どころの騒ぎではなかった。たしかにセックスはしすぎたかもしれないが、マナーを守って正しく生きてきたはずの恵まれた「私」がなぜこうなってしまったのか今も考え、「おもしろい」という言葉では片づけられない余韻を引きずっている。

 

被害者も加害者もいないし、善悪もない。世の中と自分との間にある小さな小さな違和感を積み重ねたような作品で、もしかしたら世間に蔓延する気持ちの悪い同調圧力に対してのアンチテーゼになっているかもしれない。

 

<<3・4・1・1・3・5・5・4・4・4・3・5 合計40点 全体2位>>

2位であるにも関わらず、5点と1点の両方があるのは、非常に珍しい。「女性を人間として見ていないし、破局は当たり前」という否定的な意見があった。

 

※4点※

石原 燃 『赤い砂を蹴る』 

作品と生い立ちは関係ない、と思うのだが、どうしても太宰治のお孫さんで、津島佑子の娘さんというのは頭から切り離せなかった。書かれている内容も、母の死から立ち直る物語だから仕方がない。大阪女性文芸賞の選考委員をされていた津島佑子さんを、何度かお見かけし、お話しもうかがったことがある。すっと背筋を伸ばされ、低いけれどよく通る声が印象に残っている。

 

ブラジル移民の子孫で日本へ帰ってきた芽衣子と主人公の千夏は、芽衣子が生まれ育ったブラジルへ行く。日系移民のコミュニティは、力強く生命力を感じた。芽衣子は夫を、千夏は母を亡くした喪失感に包まれてはいるが、二人の喪失には差がある。暴力的でとんでもない夫ではあったものの芽衣子はしっかりと向き合ってきた。一方の千夏は、母と距離をとり最期のときだけを一緒に過ごした。

 

千夏には母と対峙しきれなかった後悔もあるようなのだ。ブラジルに移民した人たちは、結束しなければ生きられなかったという歴史があり、芽衣子はそこから逃げたのだが、戻るとしっくりと馴染んでいる。自由に生きてきた母と同じく「孤」を守って千夏は暮らしてきた。芽衣子と千夏の対比によって、千夏の喪失が浮き彫りになっていると感じた。

 

描写が鮮やかで、ブラジルの乾いているのに重たい空気が肌で感じられる。農場を歩いたり、みんなと一緒になにかを食べたりする移民のひとたちとの触れ合いのなかに、母や幼いときに亡くなった弟との思い出がはさまる。現在の意識の流れに、過去の想いが混じり合いひとつになるような文体。

 

作品のなかで千夏は2回「赤い砂を蹴る」。

 自分の痛みに鈍感な人間は、人の痛みにも鈍感になるだけでなく、暴力に対して無防備になる。そして、よりひどい傷を負い、ますます鈍感になっていく。

「なにやってんの。早く行こう。」

 芽衣子さんの声で我に返る。いつのまにか、ふたりに遅れをとってしまっていた。

 何メートルか先をあるくふたつの背中に追いつこうと、赤い砂を蹴る。

 サトウキビ畑が途切れ、視界が開ける。

風景を見る目と、過去の自分の行動や気持ちを見る目が等しいと感じた。背中を追って赤い砂を蹴ることによって、次のサトウキビ畑が途切れ、視界が開ける、というのは、母の背中を追わなかった千夏が囚われていた何かを破った瞬間。もう一度の「赤い砂を蹴る」場面も「小さな背中を追って」とある。ブラジルの濃い人間関係、豊かな自然のなかで、少しずつ千夏が再生していく。静かにすーっと水が流れるような読後感だった。

 

<<4・1・4・2・4・4・1・4・5・3・4・2 合計38点 全体3位>>

この作品も点数がばらけた。ブラジルを舞台にする必然性がない、という意見があった。

 

※3点※

高山羽根子 『首里の馬』 

最初は1点をつけていたのだが、ほかの人の「独創性が一番ある」という意見を聞いて点数を変えた。沖縄が舞台なのだが、説明が体験に基づくものでなく、一般的に知られていることをただ書いているように読めて、そこが引っかかった。

 

失われていくものを「伝える」ということに向き合った作品だといえる。タイトルの「首里の馬」とは「宮古馬」のことで、かつては競馬もしていたようだ。主人公の未名子は、順(より)さんがひとりで集めた沖縄にまつわる資料を保管する資料館の手伝いを中学生のころからしている。仕事はしていなかったが、オンラインでつながった相手にクイズを出題する仕事をやりはじめる。この設定がSF的でありながら、あってもおかしくはない範囲にある。

 

クイズを出す相手として、3人の人物が登場するのだが、宇宙や深海、戦地にいる。極めて現代的で世界の辺縁と、過去に何度も破壊されてきた沖縄という特定の地域の遺物が交わりあい、広がりを感じさせてくれた。未名子の前に突然現れる宮古馬によって、閉ざされた世界で生きてきた未名子が殻を破って積極的に動き出すさまは見事。

 

一読したときは、作り物の世界をうわべだけなぞったような印象を持ったのだが、沖縄の説明が受け入れがたかったため心を閉ざして読んでしまっていたようだ。仲間の意見はありがたい。

 

<<5・5・5・3・1・3・3・5・3・5・5・3 合計46点 全体1位>>

 

※2点※
岡本 学 『アウア・エイジ (Our Age)』
大学院に通っているときに「私」は映写技師のアルバイトをしていた。古い映写機を回す名画座での出来事とそこで出会った「ミスミ」という風変わりな女性とのやりとりがおもしろい。また、「殺されそうな」雰囲気をまとったミスミは実際に数年後殺されてしまう。残されたのは、ミスミの母が撮影したという塔が写った写真。亡くなった母が遺してくれた写真ということもあり、ミスミはその塔がどこにあるのかを知りたがっていた。

 

現在の「私」は40歳で、映写機のお葬式に行き、貼ったままになっていた塔の写真と再会する。そこからミスミやミスミの母の過去をたどりはじめる。その過程で「私」は癒されていく。ミステリー仕立てで、すべての伏線が見事に回収されていき、読んでいて気持ちよかった。しかしながら、すべてがクリアで作品のメッセージ「伝達すること」の重要性についてはっきりと書かれすぎており、読む楽しみはあったものの余韻はなかった。

 

死んでいる人の謎を追う、という作品の弱さを感じた。


<<1・3・2・5・5・2・4・3・2・2・2・1 合計32点 全体4位>>

最初ほかに5点をつけていた人がふたりいたが、合評会のあと点数を落とした。

 

※1点※
三木三奈 『アキちゃん』 

小学5年生の「わたし」(ミッカー)はアキちゃんが大嫌いなのに、離れることはない。大人になった「わたし」の視点で、テンポよく小学生だったときの自分やアキちゃん、ふたりを取り巻く人間模様やアキちゃんがいかに嫌いかを容赦なく描いているが、暗さはなく楽しい。だが、中盤でアキちゃんに関する大事なことが明かされる。そこで、唖然とするのだが、これを良しとするかどうかは意見が大きく分かれるところだろう。

 

わたしは良しとしなかった。なぜなら、子どもの視点で書いているなら言葉が足りなかったで済まされるものの、大人になった主人公が語るという手法をとっているため「わざと」叙述トリックにはめようとしていると感じてしまったからだ。また、大人になって振り返ってはいるものの実際に大人になったアキちゃんと対面せずに、上から分析しているように感じてしまった。現在時があまりにも弱い。

 

<<2・2・3・4・2・1・2・2・1・1・1・1・4 合計24点 全体5位>>

合評のあとさらに点数を落とした。最初から最後までトーンが変わらず、ラストがうわさ話で終わったのが残念、という意見があった。

 

※※※

候補作を事前に読むとほかの人の感想が楽しみになり、みんなで点数をつけると、実際の選考会の結果が待ち遠しくわくわくします。全体としての1位は高山羽根子 『首里の馬』  でしたが、実際に選ばれるのは、3位石原 燃 『赤い砂を蹴る』 とのダブル受賞になるのでは、と予想しました。それは、やはり話題性があるからです。

 

でも、個人的には、遠野 遥 『破局』 が断然おもしろく、文学作品として映像化もしにくく文字であるからこその喜びが大きかったので、受賞すると予想もするし、受賞してほしいと願ってもいます。

 

さてさて、どうなるでしょう!?