昨日、元町映画館に『富美子の足』を観に行った。「TANIZAKI TRIBUTE」と題して、谷崎潤一郎の作品をもとに作られた映画が3作、日替わりで上映される。原作の舞台は大正8年。江戸時代に生まれた大金持ちの老人(といっても今なら十分若い63歳)、塚越が17歳の芸者あがりの妾、富美子を側に置き、そこに遠縁にあたる美術学校に通う野田が入りこみ、老人とともに富美子の足の虜になるという物語。
 
映画はその原案を舞台を現在にうつし、「でんでん」演じる塚越は70歳。野田は画家ではなくアニメのフィギュアを制作しているという設定で等身大の富美子の足を作るように依頼される。
 

 

 
この映画から谷崎文学から匂いたつ背徳的なフェティシズムのにおいは漂ってこなかった。とにかく、何もかもが大げさなのだ。そして、富美子は気位の高い芸者ではなく、子どもの頃から「足」フェチの男たちに目をつけられてきたことを悩み、足だけが目立つのがいけない、と顔や身体を整形するような悩める女性。塚越は「死んだら2億円の財産はみんなやる」といって、富美子を家に連れてくるのだが、原作の富美子と異なり、洗濯をしたり、身の回りの世話をしたりと、ハウスキーパーのようなことをさせる。この設定が、なんだか貧乏くさい感じがして、谷崎作品の趣とは一線を画す。
 
さすがに片山萌美(今までまったく知らなかった女優)の足は美しいし、その長くて綺麗な足を見るだけの価値はある。だが、映画が小説と決定的に異なるのは、小説の野田がもともと足フェチなのに対し、映画の野田が最初はまったく富美子に興味を示さなかったこと。塚越にいい作品を作るには、足の魅力に気づくべきだといわれ、犬のようになってすりすりするのだが、気持ち悪そうな態度をとる。富美子にすれば、そんな男は珍しかったのか、あるいは足に興味を持たないことが腹立たしかったのか、酔っぱらうと野田にからむ。そして、半ば強引に富美子のほうから関係を結ぶ。
 
そこから一転、野田は足フェチとなり、富美子の犬に成り下がる。ここが、やりきれなかった。セックスしたから、女の虜になる、というのでは本当のフェティシストとはいえない。偏愛と呼ぶことは許されないとわたしは思う。また、富美子の母は寝たきりで、富美子の稼ぎで暮らしている。母は自身の介護人の男から金を取って、富美子に相手をさせる。暗い顔をしたまま、いいなりになる富美子は、そのあと必ずバッティングセンターへ行き、バットを振り回す。
 
映画を作った監督の意図はいったいどこにあるのか?ということが途中から気になってきた。唯々諾々と男たちに身を委ねてはいるものの、酔えば乱暴になり、野田を蹴りまくったりバットを振り回したりする。妄想のなかで、母にバットを振り下ろすこともあった。それほど激しい怒りがありながら、我慢しているのは、お金を得るためらしい。塚越が早く死ぬようにと願っている富美子。この小説にはない母の存在は、富美子が仕方なく塚越のいいなりになる理由のためかもしれない。富美子の手枷足枷として、母を置く必要があったのか。あるいは、塚越と野田の足フェチだけだと時間が持たなかったのかも。いずれにしろ、純粋なフェティシズムの話においては、母は邪魔。
 
この段階で、感じたのは富美子の悲哀だった。人間扱いされない、足という体の一部だけが愛されるというのは、女として嬉しいものなのだろうか。人間性などどうでもいい、という扱い。この映画はもしかしたら、フェティシズムを描きながら、性差別から女性を解放しようという一種のフェミニズムの映画なのか?
 
何度も出てくる比喩的な場面があった。塚越が庭に投げ捨てたアイスキャンディーの木の棒に真っ黒な大きな蟻がわさわさとたかって右往左往するシーン。木の棒に群がる蟻が、富美子の足にまとわりつく塚越と野田、とでもいうのだろうか…。富美子の暴力がエスカレートしていくなかで、耐える塚越と野田は滑稽でしかない。そこで、はたと気づく。これはもしかして、喜劇なのか? まったく笑えないけど、笑いをとるためのパロディーなのだろうか?と。モノに対する偏愛がフェティシズムだとして、アイスキャンディーの棒に群がる蟻は、とても比喩とは思えない。砂糖の成分がなくなったら、蟻は寄り付かないから。それでも蟻が棒にまとわりつき、その小さな口で棒を吸い続けるならばフェティシズムになるだろうが、それはあり得ない。
 
一方、映画のなかで妙にくっきりと力を感じる台詞がふたつあった。
富美子の足を評して…
「柔軟と共に強直があり、緊張の内に繊細があり、運動の裏に優弱があるのです」
「真っ直ぐな、白木を丹念に削り上げたようにすっきりとした脛が、先へ行くほど段々と細まって、踝の所でいったんきゅっと引き締まってから、今度は緩やかな傾斜を作って柔らかな足の甲となる」
 
なぜ、こんなに正確に台詞がわかるかというと、この部分は小説の中に書かれている印象的な描写の部分だから。はちゃめちゃな映画のなかで、この台詞だけが浮き上がっていた。恐るべし、谷崎の描写力。
この2冊は、今回「TANIZAKI TRIBUTE」をいっそう楽しむために買った短編集。どれも掌編といえそうな短さで、今まで読んだことのない作品ばかりがずらりと並んでいる。永平寺での一泊二日の修行体験に持って行き、床の間に飾られた達磨大師に睨まれながら読んだ。そこに描かれている世界は、永平寺の修行僧たちのすべてをそぎ落としたような姿と対極にあって、いっそうフェティシズムの世界が際立つような気がした。
 
度を越したフェティシストというものは、まったくフェティシズムを解することのない人からみれば、滑稽以外のナニモノでもないのかもしれない。谷崎潤一郎の作品も読む人が読めば滑稽に違いない。確かに、『痴人の愛』や『鍵』、『瘋癲老人日記』は滑稽であり、同時に悲しい。さらに描写が細やかで美しいから、主人公の偏愛が愛おしくなる。だが、この映画はそこまで突き抜けていない気がしてならない。大げさに振る舞い、大声を上げることと突き抜けることは別物だ。
 
ラストは小説と映画はまったく異なる。ここに書くとネタバレになるから省略するが、それはないだろう、というもの。富美子だけでなく、塚越も野田もとことん不幸になる。フェティシズムのなれの果ては、こんなものだよ、とうすら寒くなるようなメッセージが聞こえた気がした。
 
笑えない。まったく谷崎をTRIBUTE(称賛・賛辞)していないのではないか?ということで、あと、2作品を観にいくのはやめにした。わたしの大好きな谷崎は、頭のなかで妄想するにかぎると思った。