読書会の課題で『心ふさがれて』を読んだ。

ボルドーに住む「ナディア」という50代半ばくらいの女性が主人公。ナディアの一人称で話は進む。

ナディアは離婚歴があり、およそ15年前くらいに今の夫アンジュと再婚する。この作品の雰囲気をわかってもらうために、訳者あとがきに書かれていた堀江敏幸氏の文章を引用する。

登場人物の顔かたちはある程度まで見分けられるし、舞台の雰囲気もおおよそ把握できるのだが、読み終わったあとに残されるのは、情報の少なさからくる抽象の匂いどころか、それとは正反対の、身体的な、粘ついた体液に触れたときの感覚、もっといえば、その透明な粘液に澄んだ光が乱反射しているような感覚なのだ。ねばねばとさらさらが混在している、ちょっとほかに類の見あたらない世界がここにはある。(『エスクァイア』2006年9月号)

この小説は、今までに味わったことのない読書体験となった。通常、一人称の小説の場合、どうしても主人公に寄り添って読んでしまうこととなる。しかしこの作品では、ねとねとと自分の在り様を語るナディアを観客として眺めている感覚になった。そして普通は一度、かわいそうなら、かわいそうと感じたまま最後まで主人公を見て読み進めることになるはずなのに、ナディアが憎らしくなったり、いらいらしたり、とわたし自身の感情がめまぐるしく変わっていくのである。それでも、目が離せない。

 

そんな友達がもしかしたらいませんか?(笑)

 

主人公夫妻は、ある日突然いわれのない差別のようなものを受けるようになる。まったく読者には理由がわからない。ナディアとアンジュはともに小学校の教諭で、まず、生徒から無視されたり、近所の人たちからイヤな顔をして見られたりする。そこにとどまらず、ある日アンジュは学校でお腹の肉を誰かにえぐりとられてしまう。虐めにしたら、えげつなすぎる仕打ち。

 

そこに今まで二人で存在を無視し、馬鹿にしてきた同じアパートの1Fに住むノジェという男が現れる。なぜか、ノジェは世間からつまはじきにされた二人の面倒を見だすのだ。アンジュの傷は腐臭を放ち、傷口から膿がだらだらと流れ出す。ナディアは臭いに耐えられなくなる。ノジェはバターをたっぷり使った高カロリーの美味しい食べ物を二人に用意する。ナディアはどんどん太りだす。

 

ノジェや近所の薬局の店主は、なぜナディアが周りの人たちが冷たくなったのか知っているようなのだが言わないし、ナディアもあえて聞こうとしないので、読者はいつまでたってもその理由がわからないままである。わたしは、この作品の時代がはっきりしないので、二人はユダヤ人でナチスの迫害がはじまったのかと思った。でも、そうではなかった。

 

いろんな人がナディアに「テレビは見ないのですか?」と尋ねる。そのたびに、ナディアは「私たちは見ないのです」と傲然と答える。新聞も読まないし、ラジオも聴かない。ナディアは自分たちにとって心地よい言葉しか耳に入れようとしないのだった。さらに、周囲の人たちに対して、傲慢といってもいいほど、居丈高に生きてきたことがじょじょにわかってくる。特に世話をしてくれるノジェに対して。

 

だが、そのノジェがどうやら元教師と本人の口から教えられ、さらに有名な作家であると他人から聞いてナディアは仰天する。「なぜ私は知らなかったのか?」と。

 

じょじょに、不穏な日常生活のなかで、ナディアの今までの生き様が浮かび上がってくる。付近の人たちや生徒たちに対して不遜な態度をとっていただけでなく、35年前に両親を捨ててきたことや、一人息子(ラルフ)と疎遠であり孫娘ができたのに会わせてもらえないことなどが…。ナディアは、孫娘の「スアール」という名前に過敏になっており、嫌悪している。

 

こういった数々のわからなさが、細密な描写とともに積み重なっていく。物語の中ほどで前夫がでてくるが、「前夫」とあるだけで名前はない。また後半で、ナディアはアンジュを捨てて息子が住む南仏の島へ行く。

 

あとはネタバレになるので、もし読みたい人がいたら申し訳ないので具体的なあらすじはひかえることにする。


最後まで読んでもナディアの受難の原因ははっきりとはわからない。だけど、この作者の出自じたいに謎の片りんがあると思われるし、読書会でもそこは言及された。

 

マリー・ンディアイはフランス人の母親とセネガル人の父親を持つ。セネガルは100年近くフランスの植民地だった国だ。古くは奴隷貿易にも関係していた。おそらくセネガル人は移民としてフランスには多く住んでいるのだと思われる。独立を果たした今もセネガルの公用語はフランス語である。

 

ナディアは過去を抹殺して生きてきた。だから両親には会わないし、「前夫」と別れ再婚したのも生粋のボルドー人であるアンジュといることで過去をさらに綺麗に消せると考えた節がある。孫娘のスアールという名前はイスラム圏の名前らしい。だから毛嫌いした。この移民の立場というものは、島国の日本に住んでいたらなかなかわかりづらい。さらに、海外の映画などでもいつも感じるのだが、キリスト教とイスラム教の確執は頭では理解しても肌身に感じることができない。

 

ナディアは自分の出自を消すことで、両親、自分自身、息子、孫の4代すべてを否定したことになる。ずっと出自の痕跡が出ないよう気を張って、誰にも後ろ指をさされないことだけを考えてナディアは生きてきた。リアルと幻想がないまぜになった世界で、太ったナディアが不安げに歩きまわる様子が、まざまざと目の前に現れてくる。

 

霧の深いボルドーの街そのものがうねうねと変貌し、街に出たらいつもナディアは迷子になる。実際に道が伸びたり縮んだりするようなのだ。でも、そんなわけがない。その部分に関してはナディアの妄想なのだが、これは一人称だから許される。読者にとって、ある部分ではナディアは信頼できない語り手だ。一人の人間の感覚ほど、あてにならないものはない。時間も伸び縮みするし、人の感情をはき違えたりするのは、日常茶飯事。

 

結局、ナディアが排斥された理由ははっきりとは書かれないままだったけれど、人種的な差別にまつわる何かだろうという余韻が残る。それは、いくらフィクションだからといって、はっきりと書けない部分なのかもしれない。そして、人から排斥されたとして大切なことはその内容なのではなく、傷を受けたであろう人の内面なのだとわかる。だから、一人称の小説なのだ。けっして三人称では描けない必然性がそこにある。そして、タイトルの『心ふさがれて』の意味が染みてきた。

 

ラストのあとあじは悪くはなくて、ほっとした。