いよいよ最後の1作です。
宮内悠介さんは、1979年生まれで早稲田大学卒業です。1992年までNYにおられました。
世間では、SF作家といわれています。2010年の創元社SF短編賞受賞で、デビューしていて、短編集の『盤上の夜』で直木賞候補になったからです。
ということで、この『カブールの園』は、読みやすいはずだと予想して最後に残していました。
主人公は、レイという日系3世のサンフランシスコで暮らす女性。
小学校のころに、同級生から「仔豚ちゃん(ピギー)」と呼ばれて、屈辱的な虐めを受けた過去を持ちます。
大学卒業式後、友人たちとクラウド関係の会社を興しても、過去のトラウマに囚われて治療を受けています。
母との関係性も悪く、依存と反発の問題を抱えていて、母が暮らすロスアンジェルスから逃げました。
ジョンというベジタリアンの男性と暮らしていますが、レイはいつも精神的に不安定です。
同僚のすすめもあって、ヨセミテにひとり旅をすることになりました。
その近くには戦争中の、日系人収容所があります。
アメリカで暮らす日系人の、日本人としてのアイデンティティ探しの様相を呈するようになっていきます。
収容所にまだ若い時祖父母が収容されていました。
さらに、過去の虐めは、個人的な理由からではなく人種差別に根ざしているのでは、という展開になっていきます。
この、作品のタイトルは作中に説明があります。ジョンがイスラム圏のカブールでは、豚が動物園にいる、と語ります。
豚は虐めの象徴であり、母との確執(甘いものを、与えられつづけて喜ばすために食べた)の象徴でもあるのです。
まず感じたのは、日系1世である祖母から母へ受け継がれ反発したものが、さらに主人公であるレイに繋がるという、3代にわたる物語を語るには枚数が足りないのではないかということ。
日系人の苦労の歴史を語っているのだが、まったく刺さってきません。
わたしの知り合いに、田島さゆりさんという写真家がいます。
彼女は、アルゼンチンで暮らす日系人を撮り続けていて生涯のライフワークとして、真剣に向き合い取り組んでいます。
写真展は、日経新聞にもとりあげられました。
わたしも写真展に行きました。
広い田園に佇む老夫婦。ただそれだけを写した写真から伝わってくるものがありました。
苦労、悲しみ、喜び…人生そのもの。
『カブールの園』に、「レイが旅する間に目が日系アメリカ人から日本人になった」と書かれている部分があります。田島さんの写真でもそれは感じました。
目だけではなく、佇まい、全身から溢れる雰囲気が日本人ではないのです。日系人の悲哀や傷。
その点で深く共感できないと、この作品は根底から崩れることになりはしないでしょうか?
虐めや母との確執も霧散してしまいます。
でも、この作品は日系アメリカ人のことにとどまらない、いまの日本にもある差別をも提示していると感じます。
日系アメリカ人と在日と呼ばれる人たちの違い。
在日という表現は、いつまでも日本人ではなくて、日本にいるよその国の人だと言っているのと同じだとあらためて気づきました。
物語のラストは明るいのですが、ただの数日の旅行で手放せるようなことなのか?という疑問がのこります。
アメリカで暮らしたことのある宮内悠介さんは、心から日系人をリスペクトしていたのでしょうか。
子どもの頃のエピソードだけで、読者の心を抉るのは、難しいと思います。
トラウマ化させた時点で、記憶という極めて曖昧なバイアスがかかってしまう。
自己憐憫に埋没して、ただの弱虫との境目がなくなっていきます。
わたしは心がえぐられる、傷みを感じる作品が読みたいです。
でも、上に書いたように国籍や国境といった普遍的なテーマは大切です。
上に書いた日本だけのことにとどまらず、世界で起きている難民問題もあって、移民というテーマは古くて新しいと思いました。
この作品は、きちんと1人の主人公に寄り添って、周辺の問題を浮き彫りにして、出来事や周囲の人との関わりの中で、変わっていく1人の女性の姿が描かれています。
そういう意味で、岸政彦さんの『ビニール傘』とは対極にあるといえるでしょう。
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芥川賞にふさわしいのは、いったいどの作品か知るために、数日間忘れてみます。そうしたら、どの作品が、より深く染みたかが判明します。
エンタメ作品の多くは、そのときおもしろい!と思っても、時間が経てば忘れることが多いです。
純文学として、刺さる作品かどうかは、時間が教えてくれるときがあります。