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2020年の本屋大賞を受賞した、凪良ゆう『流浪の月』を友人の勧めで読んだ。読書会の課題じゃない、純粋に楽しむためだけの読書は久しぶり。もともと作者はBL小説を書いておられたためか、繊細な男性「文」の描写が秀逸で、目の前に感情のない黒い穴のような瞳が見えるような気がした。

 

最初はじりじりとして、なかなか読み進められなかったが、途中から加速がついて止まらない感じになってくる。とうとう昨日と一昨日は寝不足になるほど読みふけった。

 

「更紗」と「文」の誰にも理解されない関係は、世間の常識を尺度として「事実」が決まる。どんどん歪み、捻じれて、更紗が認識している「真実」と乖離していく。焦りから更紗が世間に「真実」を告げれば、それがさらに泥沼でのたうちまわるような結果を招く――。「かわいそうな子」というラベルが強固に貼り付き、文の立場は悪くなり、更紗を苦しめる。

 

9歳の更紗と19歳の文の出会いは必然だった。

 

だけど、世間はそれを必然とは認めない。認めてしまうと自分たちの「常識」が揺らいでしまうからだ。更紗は被害者の烙印を、文は加害者の烙印を押される。昔、インターネットがないころなら、一時期新聞や雑誌、テレビのニュースを賑わせても人は忘れていく。

 

今は違う。烙印は映像や声を伴って、永遠にネットのなかを彷徨い、興味本位の人間によって掘り起こされては、白日の下に晒されてしまうのだ。「デジタルタトゥー」は恐ろしい。

 

更紗と文は、世間とは相容れない生きづらさを、自分をだましながらあわせることで、しのいできた。だけどガマンし続けたツケは自分のなかに澱となって積み重なっていく。更紗と文はふたりでいるときだけ、楽に息ができるのだ。恋人でも友達でも、ましてや家族でもない。ふたりの関係性を表す言葉はない。

 

男女関係の枠をはるかに超えたところで結びついたふたりの、ある意味神々しいともいえる関係は、作者が真摯に言葉を積み重ね、描写することで、読者の心に染みてくる。その作者の熱量が、わたしのなかに溜まっていく。ただ読書の快感に身を委ねて読んでいたはずなのに、たくさんの言葉が生まれてきて、吐き出さずにはおれなくなった。

 

難点をあえていうなら、更紗の父があっさり死に、ひとりで重み(更紗)を抱えて生きられない母が男といなくなり、引き取られた伯母の家が居心地が悪い、という設定だろうか。その枠組みがないと物語は成立しないのだが、そんな境遇でなくても生きづらい人はいる。文がそうだと思ったのだが、ラストまで読むと、文にも生きづらい原因があることが判る。

 

そういう目に見える不幸を描かずに、生きづらさは描けないのか、とは思うものの完成度が高いので最後まで読むと気にならない。

 

更紗や文のような人が、傷つかずにすむような社会はどんな風なんだろう? 相容れないと感じれば、静かに離れて詮索せず、好奇に満ちた視線を投げずに、それぞれが自分のテリトリーでのびのびと暮らせる世の中にならないか、と思う。