昭和20年父はオホーツク海にいた。15歳だった。
その時乗っていたのが、第二号新興丸。全長90,8m。総トン数2577t。最高速度約13ノット。ただし、13ノット出すとぶっ壊れそうだったと父。昭和16年に軍に徴用されて改造され機雷の設置などに使われました。
下の写真は昭和18年の物。
昭和20年父は志願して少年兵として乗っていた。
父は飛行兵として志願したが、私と同じで運動神経が鈍くはねられたそうです。(受かっていれば特攻隊ですね)
海なし県で育った少年はオホーツク海で船に乗り1週間吐きまくったそうな。
少年兵の仕事は電探要員。電探とはレーダーの事です。
ちなみに上の写真当時は電探ついていません。
当時の日本軍の電探は相手の方向と距離しかわからないものが多かったのですが、この船の物は新しいタイプで高度も分かったと父は言っていました。
さて、大した活躍もなく終戦を迎え、樺太(サハリン)からの引き上げに使われます。
8月15日を過ぎてピストン輸送で船倉に積んである米などもそのままで、樺太と留萌を往復したそうです。
そんな8月22日早朝、3600人ほどを乗せ留萌に近づいた時に
ソ連の潜水艦から魚雷攻撃を受けます。
もう日本は降伏しているのにですよ。
魚雷は前日まで父が寝ていた船倉に当たりました。ここには引揚者が大勢いました。350人以上が亡くなったようです。
浮かび上がってきた潜水艦はなおも攻撃しようとしましたが、
武器庫の封印を解いて新興丸が反撃。12cm砲などで撃退しました。三船殉難事件として歴史上も残っています。
3隻いた引揚船のうち2隻は撃沈されています。
その後も修理をして、引き揚げ船として使われたのち貨物船として海外で働きました。(船がね)
1973年ぐらいまで使われたようで、同型艦としては最も長生きだったようです。
さて、終戦後大学に入った父は父は母と見合い結婚。
私たちを育ててくれました。
ありがとうございました。
父、享年89歳。安らかに