みなさま、こんにちは。

 

まだまだ残暑が続く8月最後の土曜日です。

 

 

先日、病棟のデイルームを通りがかったら、テレビでらい病のドキュメンタリー番組が放映されていました。

 

その後スタッフと、「らい病と精神疾患は社会での扱いが似ているよね」という話になりました。

 

 

まず、以前は精神科の薬も発展途上で、完全に症状を取りきれないことがほとんどでした。また副作用が強く、薬源性の症状が後遺症として残るケースも多かったのです。

 

また社会的には精神疾患というだけで偏見も強く、私が精神科医になった90年台にはまだ精神科の病院には鉄格子がありました。

 

 

病気もある程度良くなり、本来であれば家族や地域でケアができるはずの患者さんも、受け皿がないという理由で長期にわたって「社会的入院」を余儀なくされていました。

 

 

らい病を取り巻く環境も同様で、今ではらい病は治療できる病気になりましたが、つい最近までは「うつる病気であり、不知の病で、隔離が必要な病気」として、患者さんたちは家族や社会から隔絶されてきたわけです。

 

 

振り返ってみれば、5類に移行する前の新型コロナウイルス感染も、なんだか同じような空気が流れていましたね。

 

 

それで、『論語』のこんな一文を思い出しました。

 

伯牛有疾。子問之。自牖執其手、曰、亡之。命矣夫、斯人也而有斯疾也、斯人也而有斯疾也。

ーー『論語』雍也第六

 

弟子の伯牛が危篤ということで、孔子先生は見舞いにゆかれました。

そして、あかり取りの窓からの手をとり、「ああ、これでもうお別れだ。これも運命というものなのか。こんなに素晴らしい人でも、こんな病気になるのか。こういう人でも、こんな病気になるのか」

 

 

伯牛の病気がなんであったのか、今となっては想像するしかありませんが、一説には「らい病」であったとの見方があります。

 

このため、危篤と聞いて見舞いに行った孔子もあかり取りの小さな窓から弟子の手を取ることしかできなかったわけです。

 

伯牛は、いわば「隔離」されている状況だったわけですね。

 

 

 

感染、不治の病、隔離、偏見。

 

 

私たちは、これらにどう向き合っているのか。

 

一人ひとりが、時々自分の心をモニタリングしていく必要があるのではないかと思います。