おはようございます。

 

寝苦しい夜が続いていますね。

 

でも、お盆を過ぎた頃から、仕事が終わって病院を出ると頬に当たる風に涼しさを感じるようになりました。

鈴虫も鳴き始めましたね。

 

夏のクライマックスはすぎて、空気感に秋が混ざるようになってきました。

 

 

 

そんな今日は、『荘子』秋水篇から。

 

秋水時至,百川灌河,涇流之大,兩涘渚崖之間,不辯牛馬。於是焉河伯欣然自喜,以天下之美為盡在己。順流而東行,至於北海,東面而視,不見水端。於是焉河伯始旋其面目,望洋向若而歎曰:「野語有之曰:『聞道百以為莫己若者』,我之謂也。且夫我嘗聞少仲尼之聞而輕伯夷之義者,始吾弗信;今我睹子之難窮也,吾非至於子之門則殆矣,吾長見笑於大方之家。」

北海若曰:「井蛙不可以語於海者,拘於虛也;夏蟲不可以語於冰者,篤於時也;曲士不可以語於道者,束於教也。今爾出於崖涘,觀於大海,乃知爾醜,爾將可與語大理矣。」

 

秋の大雨の季節、あらゆる川の水が一斉に黄河に注ぎ込んでいました。

両岸は遠く隔たり向こうに立っているのが馬なのか牛なのかも見分けがつかないほど。

黄河の神「河伯(かはく)」はすっかりうれしくなり、天下の善と美がすべて自分のところに集まったと思い込みました。

 

河伯は黄河の流れに沿って東に進み、やがて北海(ほっかい)に到達します。そこで東を向いて眺めると、どこまでも果てしない大海原。

河伯は北海の神「北海若(ほっかいじゃく)」を見ながら嘆きました。

「私はこれまで実にうぬぼれていました。『百くらいの道理を聞いて世の中全てを知ったと思うな』という戒めがありますが、私がまさにそれです。以前は孔子の博識をとるに足らぬと見下したり、伯夷(はくい:古代の清貧の聖人)を偏狭だとバカにしている人たちのこともよく理解できませんでしたが、あなたの計り知れない大きさを見て、上には上があるものだと知りました。あなたのところにこうしてこなければ、私は真理を悟った人の笑い物になっていたかもしれないのです」と話しました。

 

すると北海若は、

「井の中の蛙に海のことを話してもしかたがない。蛙は小さな自分の棲みかになじんでいるのだから。夏の命しか持たない虫に氷のことを話してもしかたがない。夏の虫は自分の生きている短い時間だけをすべてと信じているのだから。

見識の狭い人間に大道のことを話してもしかたがない。その人は世間の教えに縛られているのだから。今お前は大きな海を見渡して、初めて自分の小ささを知った。今のお前ならば大道の理についても語り合えそうだね」

と言った。

 

 

これは、「井の中の蛙(かわず)」の由来ともなった物語ですが、この時期は井の中の蛙よりも、「夏の虫には夏こそが全て」という後ろの文章の方がしっくりきます。

 

 

残暑が厳しいですが、お身体大切にお過ごしくださいキラキラ