おはようございます。

 

今朝も夜明けと共に目が覚めました。

夏は苦手なんですが、日中のにぎやかさとは対照的なこの朝の静けさが好きなんです。

 

 

さて、漢文や中国の古典というと難しいと思っていらっしゃる方も少なくないと思います。

それは、学校教育が「正解は一つであって、正解を出さないと点がもらえない」という仕組みとも関係しているのかもしれません。

 

でも本当のところ、中国の古典ほど自由な世界はないのです。

 

私たちが目にする『論語』などの古典は、もともと第何章とかもないし、句読点すらありません。

もちろんレ点や返り点などもありません。

 

それこそ星の数ほどの人が2000年以上にわたって読み継いできた結果の一部です。

 

 

その文章を読んでどう感じるのか、どう解釈するのか。

 

実は、全て読み手にゆだねられています。

 

 

ただ自由な読み方ができるようになるためには、漢字だけではなく、人生経験も必要なので、知識として学んだり、先輩の読み方を参考にしているだけなのです。

 

 

ここで例を挙げていきましょう。

 

『論語』に「君子は器ならず」という名文があります。

 

原文は「君子不器」です。

 

 

この原文の「君子不器」には、主に下の二つの解釈があります

その一 : 人間は器物(入れ物や道具)ではない。人間こそが器物を使いこなす働きを具えていなくてはならない。

そのニ : リーダーとは、きまったことしかできない才能を持っている人物ではなく、あらゆる働きをする万能の器であるべきだ。

江戸時代の儒学者・荻生徂徠(おぎゅう そらい)はその一、中国・明代の儒学者・朱熹はそのニの立場をとっているようです。

 

 

その三:リーダーが必ずしも大器である必要はない。

 

リーダーが万能だったり、才気あふれる人物であることで活きるチームもあれば、逆に部下がつぶされてしまうケースもあるのではないかと思うのです。

 

どんな人にも隠れた能力がある。

チームの一人ひとりがその持ち味を出し合い、いかし合う。

 

リーダーはそれを静かに温かく見守り育む「場」を提供し、維持していくようなあり方が本来の理想なのではないかと思うのです。

 

 

もしかしたら、そんな社会こそが新しい価値を創造していくのかもしれませんね。

 

 

それではみなさま、素敵な金曜日をお過ごしくださいキラキラ