おはようございます。

 

 

女子兵法部、部長の本橋です。

 

このところ、朝早めに起きて文章を書くことが習慣になり、また朝起きが楽しみになってきました。

 

社会人になってからは、朝早起きすることがあったとしても義務感や「電車が空いているうちに出勤するため」といった現実的理由からで、楽しみで朝起きするということはほとんどありませんでした。

 

 

ところがわたし、実は朝練好きだったことを思い出しました。

 

その朝練というのは、部活などで定められた朝練ではなく、自主朝練。

小学校4年か、5年生の冬休みだったのですが、朝5時過ぎに起きて走ったり、近所の空き地で体を動かしたり、というものでした。

 

真冬なので、当然かなりの寒さ。

我ながらよくやっていたなあと思います。

なぜ始めたのかも全く思い出せないのですが、ちょっと辛いながらも結構ワクワクしていたように記憶しています。

 

そして近所の同級生数名も誘っていたことを思い出しました。

今思い出すと、朝っぱらからすみません!という感じなのですが、一緒に朝練してくれてありがたかったです。

 

 

孟子の言葉に、

 

大人者、不失其赤子之心者也

 

というのがあります。

 

 

実はこの言葉、シンプルであるが故に、「大人」や「赤子」が何を指しているのか中国では様々な人が諸々の解釈を唱えてきたという経緯があります。

 

 

今日は純粋にそのまま翻訳して、

 

大人とは、「赤子の心」をいつになっても失わないもの

 

という風によんでいいと思います。

 

 

赤子の心とは、幼子のような無邪気さ、ということでもあるし、さかしらな考えを優先するのではなく、本来の純粋さに真っ直ぐに生きる、ということもあるかと思います。

 

 

 

精神発達から見ると、おおよそ11歳から「自我」という知恵が固まってきます。

そこからは、大人仕様のものの見方や考え方を中心に社会生活を営むスイッチが入るのでしょう。

 

それよりも前、人は自我と非自我の境界が曖昧な「神話」のような世界に生きているのかもしれません。

 

そんな自分の神話時代の感覚や思いを辿っていくと、思わぬ自分の原型にたどりつけるような気がしてきました。

 

それが「赤子の心」ではないか、と思います。