おはようございます。

 

今日は『荘子』より。

 

 

引きこもりというと、現代に発生した社会問題のような印象がありますが、古代中国では「隠者」という立派な社会活動。

 

引きこもって何もしていないのではなく、大いなる大宇宙の導きで「そう」している、ということに対して新たな(中国哲学的には再認識ですが)理解が必要な時代が来たと感じています。

 

「何かをしなくてはならない、何もしないのは意味がない」と断定して他者に対して押し付ける価値観が「引きこもり」なのであり、押し付けている側が古くて幼いのかもしれないのです。

 

 

 

では、本文を見てみましょう。

 

 

古之所謂隠者、非伏其身而茀見也。非閉其言而不出也。非蔵其知而不發也。時命大謬也。當時命而大行乎天下、則反一無迹、不當時命而大窮乎天下、則深根寧極而待。此存身之道也。

 

『荘子』繕性 第十六

 

 

いにしえの昔、隠者と言われた人は、身を伏せるように世間から姿を消したのではない。

自らの言葉を閉じて語らなくなったのではない。

その知恵を惜んでしまいこんでいるわけでもない。

「時命」=本来生きるべき時がまだ来ていないだけである。

もしもその時が来たら、自らの本性を余すところなく生きればよく、そしてその形跡をわざわざ残そうとしなくていい。

まだその時が来ておらず、世間に生きることに窮しているのであれば、自らの内側に深く根ざし、静かな境地に佇むことを極めればよい。

それこそが、自らを大切に扱い心を安らかに保つ秘訣なのである。

 

 

私たち一人ひとりがこの言葉を深く理解したとき、真に成熟したやわらかな世界が目の前にあらわれるのかもしれません。