おはようございます。

 

女子兵法部、部長の本橋です。

 

 

今日は所用で札幌へ。

 

 

空の上では一種の変性意識状態になり、いつもと異なる視点でものをみることができると感じます。

 

そんな中、自分の中では静かな記念日を迎えています🎊

 

何故なら、永年モヤっていた「脳内宿便」が解消したからウインク飛び出すハート

 

 

 

この数日取り上げている性善説と性悪説。

人の本性は善なのか悪なのか、孟子に対して荀子は全く逆の立場から描写しています。

 

人之性悪、其善者偽也。

今、人之性、生而有好利焉。

順是、故争奪生而辞譲亡焉。

生而有疾悪焉。

順是、故残賊生而忠信亡焉。

生而有耳目之欲、有好声色焉。

順是、故淫乱生而礼義文理亡焉。

然則従人之性、順人之情、

必出於争奪、合於犯分乱理、而帰於暴。

故必将有師法之化・礼義之道、然後出於辞譲、合於文理、而帰於治。

用此観之、然則人之性悪明矣。

其善者偽也。 

 

 

 

実は、この段落で一番大事なのは、荀子の論点は善悪を材料に「為か無為か」を重点的に論じていることです。

つまり、善悪に為・無為という串を刺してみて、じっくり考えてみようじゃないか、ということ。

 

そしてこの、いわば「二重構造」の原点は『論語』に明記されています。

 

 

その前に、これは「学ぶ」という切り口においての論争であることに理解が必要です。

 

孟子も荀子も儒家ですが、始祖である孔子は『論語』の冒頭で、「学而時習之、不亦説乎」と説き、学ぶこと、時に学んだことをおさらいすることが「説(よろこば)しい」こと、すなわち人生の悦びであるという観点を明確に表しています。

 

学ぶこと、それを時々おさらいするのは楽しくないですか?(楽しいですよね!)と。

 

つまり、「学びは楽しい」という前提から儒家は始まっているのです。

 

しかし、勉強って最初から楽しい人は少数派で、ほとんどの場合は親や学校から「勉強しなさい」と言われて強制的にさせられている感じなのではないでしょうか。

 

 

また、勉強の本当の楽しさは、勉強を進め深める過程ではじめてわかるものだとも思います。

 

 

その意味で、学びとは為(作為、意図して行う行為)か無為(自然に任せる、自動操縦か)と聞かれたら、為(作為)ということになるのだと思います。

 

 

このことに対して、

 

孟子は「いやぁ、勉強って楽しいなぁ。教科書みたら自然にウハウハするもんね!」という、少数派を代表してのご意見なんじゃないか、と。

 

 

時代を下って、荀子がこれに反駁を加えます。

 

 

「ちょっとぉ、もしもし、孟子先生。孟子だけにもしもし、なんちゃって〜(爆)。

 

てかさ、ほとんどの人は先生みたいに勉強オタクじゃないし、ど変態じゃないから、ほっといたら勉強しないって!ふつう、教科書みてウハウハしないから!

 

今どき、教科書だけ目の前に置いてあって、あとは好きにしなさいっていったら、スマホでゲームしたり、席たちあがって出歩いたり、大騒ぎしたり、早弁したり(笑)、出会い系で彼氏とチャットしたり、バイト出かけちゃったり、収拾つかなくなりますよ。

 

やはりですね、コホン(偉そうに咳払い)、我ら儒家の教え、すなわち礼とは、義とは何かを座学や教師の生き様をもって仁の何たるかを生徒に教え、生徒は感化作用により謙譲やこの世の理(ことわり)を体得するのではないでしょうか」

 

と説いているのです。

 

 

ついでながら、学びをオートマ車に例えると、孟子は「学びの基本は平坦な路走行だ」と考えているようです。ギアがニュートラルならば、慣性の法則でゆっくりと前進しますから。

 

翻って荀子は、「学びの肝とは上り坂走行だ」、と言っているわけです。ギアを入れてハンドブレーキかけて、アクセルまで踏まないと前進できないよ」と言ってるわけです。

 

 

いかがでしょうか?

 

これが世にいう、性善説と性悪説の本質であり、論点は決して人間の本性が善か悪か、白黒つけることではないことがお分かり頂けるかと思います。

 

 

ちなみに、孟子=性善説、荀子=性悪説という構図ができたのがいつ頃なのかは定かでなく、一説には明の時代、朱子学の体系化とともに形成されていったとのこと。

 

また、中国では『三字経』の影響で、「人之初、本性善」と暗記している人が多く、性善説の存在は知っていても、荀子の性悪説は知らない人も多い印象です。

 

 

 

さて、これにて一件落着。

 

清々しい気分で新千歳に到着です