おはようございます。

 

女子兵法部、部長の本橋です。

 

 

今朝はいつもより一本早い電車に乗ったのですが、車両故障の関係で途中で足止めをくらっております。

旅は道連れ世は情け。

ボックス席でご一緒した方々と話ししていたら盛り上がり、記事を書くのを忘れてたよ(ヤバ・・・)ガーンウシシ

 

 

はい、気を取り直して、今日のお題は、昨日の孟子の性善説と荀子の性悪説に関しての議論の続きでしたね。

 

 

その前にいつもと違うペースになったせいか、ふと思い出したことが。

 

以前から、どうして中国哲学を学ぼうと思ったんですか?と質問されると「物心ついた時には目指していました」と答えていたのですが、

よく考えてみると、もしかしたら、父の影響かも、と思いあたりました。

 

父は理系でしたし、中国哲学に詳しいわけではないのですが、私が中学生か高校生から頃から言われていたのが、「最も理想的な社会というのは、ベンサムの効率論の世界だよ。最大多数の最大幸福という考え方が一番合理的だ」という話しでした。

 

実は功利主義を提唱したベンサムの考え方は、荀子に酷似しているといると個人的には感じます。

 

西洋思想に詳しくないので、あくまで私の理解での話ですが、ベンサムの考え方は、「快楽と苦痛の間で、自然に快楽の方を求めてしまう性質を持った私たちが幸福に生きるには、最大多数の最大幸福という観点から社会づくりをしていくことが最も効率的である」というもの。

 

ともすれば安きに流れやすい人間の性(さが)を十二分に理解した上で、無理のない精神的サスティナブル社会を(努力して)作っていくことをベンサムは見越していたと思うし、荀子も時代や言葉は違えども、同じ目線に立っていたように感じるのです。

 

 

朝練レベルでは一度に語りきれないので、時間を改めます。

(そう言って空に放ったままの記事が多くてすみません・・・)

 

では、外来いってきます!