おはようございます。

 

女子兵法部、部長の本橋です。

 

今朝は『孟子』の公孫丑章句の「怵惕惻隠(じゅつてきそくいん)之心」の段落を読んでいました。

 

皆様も、孟子(もうし)の性善説(せいぜんせつ)VS 荀子(じゅんし)の性悪説(せいあくせつ)という構図は一度ならず耳にされたことはあると思います。

 

 

孟子の性善説は「怵惕惻隠(じゅつてきそくいん)之心=命の尊さを畏れ、他者に対して憐れみの気持ちをもつ」のくだりで、乳飲子が井戸に落ちるようなことがあれば、どんな人も利益や功名心などからではなく自然に助けたくなるので、人間は本来善の存在なのだ、という論法になっています。

 

 

 

実は私、高校の倫理でこれを学んだ時から、ずーっと違和感を覚えていました。

 

孟子を読み進めていくと、むしろその後にくる「惻隠の心がないものは人ではない、悪を恥じる心がないものは人ではない、辞譲(礼儀や謙譲の心)がないものは人ではない、是非(物事の正誤の判断をすること)の心がないものは人ではない」という風に、むしろこちら側の方が強調されています。

 

精神科医になってからは、さらにしみじみ思うのですが、人間の面白さであり大変さは「善も悪も持ち合わせている」ところにあると思うのです。

 

その観点から『孟子』を読んでいくと、人間の性質は元々善であったのに、大人になるにつれて悪に染まってしまったというようなことではなくて、「善も悪も持ち合わせているからこそ、先人の知恵に学び、「善」の観点から己の思いや行いを自省して人間としての精度をあげよう」という趣旨なのではないか、と感じました。

 

 

明日は荀子の性悪説の根拠となっているところを読んで、反対側からも検証してみたいと思います。