








六波羅蜜寺からは松原通りを挟んで近い。拝観自由。門前に石標があり「六道の辻」とある。「六道」とか「辻」というのはなにかしら因縁深い印象。
このあたりから東山にかけて鳥辺野と言われていた頃は葬送の地であって、「六道」とはその弔いのための冥土への入り口だと言う。今でも「六道詣り」として8月に行事がある。
「小野篁卿舊跡(おのたかむらきょうきゅうせき)」と刻まれた石標がある。小野篁のゆかりの地ということだ。小野篁という人も伝説があるが、お寺自体も創建についてははっきりしないようだ。それだけ古いということもある。
立札の説明でも開基については説が分かれると言っている。古くは宝皇寺(ほうこうじ)の後身説がある。 宝皇寺とは、東山阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)山麗一帯に住んでいた鳥部氏が建立した氏寺で鳥部寺とも呼ばれていたというもの。
また、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊僧都が平安前期の延暦年間(783~805)の開創というのが知られている。
現在のものは 南北朝期の貞治3年(1364)建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)の再興・改宗したものだという。
当寺には「迎鐘(むかえがね?)」という梵鐘があって(写真3枚目)、六道まいりには十万億土のかなたの冥土まで響いて亡者を案内する。 鐘はオープンではなく堂内にあって、ひき綱?(写真4枚目)を引くようになっている。
そして閻魔堂(写真5枚目)には小野篁像(大きい写真)と閻魔像(写真6枚目)がある。特に断りもないので障子の拝観穴(自称)から拝ませていただいた。閻魔様は「伝 小野篁御作」とあった。
そして小野篁が地獄へ通ったと言う井戸。井戸自体は本堂横の奥にあるが、半公開?。写真では手すりのある階段を上がって木戸のすきまからのぞける。(写真7、8枚目)
たしかに10メートルほど向こうの木陰にそれらしきものが見える。竹製のふたがあるようだ。地獄からの帰りは嵯峨野・福生寺(大覚寺門前六道町辺り。今は廃寺)の井戸という。
今回小野篁のことを知ることになったが、なかなかに面白い人物であったようで、当時としては自由闊達な行状から閻魔様との伝説などが生まれたものだろう。
この小野姓は、あの小野妹子の血筋であるという。頭がいいはずだ。
PS・・・あまりわざとらしいことは言いたくないが、この最後の写真、光が差し込んでいるような写真、なにか普通でないような気もする、だからなんだと言われても困るが。