私にとって留学とは何か、っていうのを何処かのタイミングで定義したのですが、その時言語化した3つのテーマにそって、前半はどうだったかを考えてみたいと思います。
①人生の中のバカンス…ゆったりと過ごす、一人になる、いろんな経験や蓄積を増やす
これはもう、完全に満喫できていると思います、おかげさまで。
一人になることに関しては、今までなんでそれが嫌だったのかわからないほど、すごく満喫してます。多分一人が許されない社会(?)、孤独が目立つ社会に生きていたからなのかな。でも個人を重んじる、個が基本なヨーロッパ社会に生きてみて、一人の時間でゆっくりしたいとか、もっと自分を高めることがしたいとか、思えるようになったのがすごく嬉しかった。
蓄積を増やすの部分は後半になってから焦って始めたけど、今は新聞とかを読んでもゼロから知識を入れ始める手間がなくて、だいたい追いつけるようになったのが嬉しい。というかそれが普通か、、、。隙間時間にニュースを読もうと思えるようになったのは成長。
一つ反省するとしたら、経験を増やすことにもっと貪欲でありたかったかも。これまでいろんな経験をしてきたから、今は蓄積期間だ!と思って経験の方はややシャットダウンしてた感があります。両軸うまく立てるためには細やかな行動管理と振り返りが大事だなって思う。
②社会で戦える武器を増やす…英語力を上げる、グローバル人材になる
英語力を上げるの部分に関しては、大変苦労しました。というかまだ自分の求めるレベルには全然達していないし、この2週間日本語漬けになっているから帰ったら振り出しに戻っている気もする。笑
でもなんだろう、使えるフレーズが増えたりとか、英語で何かを説明する、っていうこと自体に慣れたとか、色々あるとは思う。アメリカの大学に行っているハーフの友達と久しぶりに会った時に、全部英語で話し合えるようになっていたのは感動した。そりゃ同じことをスウェーデンでやっているのだからできるのは当たり前かもしれないけど、前はできなかったことができるようになっているっていうのがその友達にもわかる形でわかって嬉しかった。
英語は本当にスキルというより、場数なのかなと思った。どれだけ自分のものにするかは、いかに数を重ねて頭を切り替えられるようにできるかにかかっている気がした。
自分でゆっくり考えたら書けるのに、みんなの前で説明できない、っていう謎について考えてみた時に、だいぶ心理的なものが大きいと思った。
というのも、日本語で人の前で説明することと比較してみると、自分で原稿を書いて読み上げることはできるのに、人前では説明が下手、っていうのは、そらで考えることができないのが問題。空で考えられないのは、多分トピックに対する思考力(これはトピックを深く知っているかどうかとかに関わりそう)と、周りから見られているというプレッシャーとが大きいのではないかと思った。
この辺を克服するのが課題になりそう。日本語でもさしてうまくできないことをやろうとしているんだなあってわかったのは、大きかった。
グローバル人材になる、の部分に関しては、なった、っていうか、グローバルな環境に身を置こうとした、っていう感じでした。よくわからないパーティに連れて行かれたり、自分より明らかに英語力が高い人の集団につっこんだり、いずれも「日本人」としての自分という特徴が全くアドバンテージにならないような、国際交流から一歩進んだ場でした。
グローバルな場に対する耐性はめっちゃついたし、私のインスタのストーリーだけを見ている人からはグローバルだね、と言われることも少なからずありました。
でも本当に本当に自分がまだまだだなって感じる場面ばかりでした。だけど同時に、それは主に英語力の部分についてであることにも気づきました。日本にいるとき私はきっと集団の中で結構喋るし、自分が会話の真ん中にいて何かを言って笑ってもらえることも多かった。というか私が心地よいな、好きだな、って思っていたコミュニティはそういう居場所が多かったです。でもスウェーデンではそれができなくて、「ひとりになる」っていう目標があることを理由に人と関わらないことの方が楽だなって思いつつ、一人の時間で自己肯定感を高めていたりしていました。でも多分私は人に囲まれているのが好きで、それにはきっとたくさん話せるようになりたくて、だからこそまだまだ英語力を高めて行きたいというか、場数を踏んで行きたいなって思います。
英語力以外の面について考えるといい変化もたくさんあったんだろうなあって思います。周りが自分のことをどう見るかじゃなくて、自分がどうしたいかを考えられるようになったのは本当に大きな成長だなって思う。周りと自分を比べて自分の特徴を見出すんじゃなくて、自分の好きや自分らしさを肯定してあげられるようになったのも。
③志をみがく…こういう社会がいい!とか、平和とは、とか
これに関しては、迷走したわけではなくて、でもものすごく見直す機会をもらったなという感じです。
主権国家体制を強く認識したことから、戦争がない状態としての平和についてあまり興味を持てなくなったのは前のブログに書きましたが、平和とか、最善とか、公平とか、良いとか、っていう曖昧だけどなんだか信じられてしまう言葉に懐疑的になりました。完璧に見えるスウェーデン社会も全然完璧なんかじゃなくて、人権や民主主義やいろんなイデオロギーも、唱える人によっていろんな解釈があるとか、とにかく絶対的にこれが良いなんてものは存在しないんだと悟りました。存在しないからこそみんな追い求めるのかもしれないけど、でも「社会のために」ってすることが実は自分のためになっているんじゃないかって、その自分のために向いている矢印を無視して人のために行動してます、って言いたくないなって思ったり。
大学に入ってから、自分がこれまで恵まれすぎていて、自分の存在価値(こんなにも恵まれている理由)を肯定するには、社会に何か恩返しをしなければいけない、とずっと信じてきました。だからこそ自己成長を求めていたし、その先に見ていたものはいつだって社会貢献でした。でも、社会貢献っていう言葉が持つ曖昧さと、さらに自分のちっぽけさ、つまり、社会がそこにあったとして、それを自分の裁量で自分らしく自由に動かせるわけじゃなくて、所与の職業とか在り方の中から関わり方を選択しなければいけないという事実に、やっと気づくことができました。
私は社会貢献をしたい、恩返しをしたい、って言っている自分が一番好きなのは変わりがないけれど、でも社会のために何かをするのは自己犠牲でもなんでもなくて、なんなら自分のその善意のようなものによって誰かが傷つく可能性もあるのだということを、認識している必要があるなと思いました。綺麗事なんかじゃない。まずは、私が何をしたいか、社会の中でどう振る舞っていたいか、どんな自分になら責任が取れて、明日を生きるために自分をモチベートできるか、それを考えていくことにフォーカスできるようになったのは、ある意味自己中心的なようで、大人になった証拠でもあるのかなと思います。
