今日は震災の様子を伝える、気仙沼市のリアス・アーク美術館に行って来ました。 

 

今まで戦争や震災の博物館に行ったことは何度もあるけれど、これまでで一番気味の悪い思いがした。

 

だって展示されている津波被害の非現実的で恐ろしい写真たちのキャプションには、私の知っている場所の名前がたくさん記されていたから。

 

「南気仙沼駅」

私がいつも朝出勤するのに使っている駅。

 

 

 

「波路上」

昨日仕事で行ったいちご農家さんが住んでいる地域。

 

 

 

「最知付近の線路」

私がいつも乗っている、電車の代わりにできたバスが通るところ。

 

 

気仙沼の人は震災があったことを語ることはほぼないし、優しい人ばかりで、思ってたより人々と津波の被害は遠いものなのかもしれないな。

さら地になっているところは、もともと大したものは建ってなかったのかもしれない。気仙沼だし。

 

って思ってた。

だけどそんなことなかったんだと思う。

 

今日まで、気仙沼の被災について知らなかったことがたくさんあった。

街中が重油の匂いになったこと。

火災があって、しかもその日は、12日間消えなかったこと。

町中に魚市場の魚が散らばって、腐敗してハエが絶えなかったことも。

 

 

そう思うと、気仙沼の人は何を思いながら今生活しているんだろう、とか。

私みたいにちょっとだけ訪れる人のことをどんな思いで見つめているんだろうとか。

2週間過ごして、街や温かい人に触れたからこそ、その奥底に抱えているものを考えると、なんだかどうしたらいいかわからなくなってしまいました。

 

 

展示されていた中で、もっとも心に残っている言葉を貼っておきます。

 

 

津波被害は、気仙沼に住む者の使命なのでしょうか。

 

 

 

そしてたまたま岩手の大船渡で私と同じように復興庁のインターンをしている友達と一緒に回ってて、同じ津波の被災地でも大船渡と気仙沼とを比べた。新たな視点が得られた。 

 

例えば、 

・気仙沼は被害が壊滅的でメディアでも取り上げられていたこともあり、外からの復興支援者が多い一方、大船渡はそうではない。被害は確かにあったけれど、何もなくなったわけじゃない。 

 

・大船渡は行政がもともと高台にあって、商業地区と居住地区がくっきり分かれている。その中で商業の地区だけが被災してしまった。綺麗な再建ぶりが奇妙なくらいだから、大船渡が被災したことはわかるけど、気仙沼は街を歩いていても、海ぎわしか被災したなんてとても信じられない。 

 

地方創生をしているといっても何も言っていないのと同じで、一概に震災復興を語ることなんてできない。 

逆に言えば、そういう現場では、依拠できる明確な理論もないまま、次から次へと溢れ出てくる課題に向き合って、時には非難や絶望、要求を背後に感じながら、ベストな方法を探していくプロセスを積み上げなければならないんだと感じた。 

それは他でもそうかもしれないけど、地方行政や、地域の動力となっている人たちは本当にすごいなと思った。 

 

さらに話してて、その地域にずっと当事者としているからこそ見えるものがあるのだと感じた。 

 

例えば被災コミュニティ。 

家を完全に失った人と、仕事場だけなくなった人。同じ壊滅した不便な町に住むはずなのに、後者の人が物資の救援を受ける列に並ぼうとすると、すごい目で見られたり。 

失職者が雇われた”仮設住宅相談員”。その人も仕事を 

失って大変なはずなのに、仮設住宅に住む人に「あんたんちは残ってるんだからいいでしょ!死ねばいいのに!」と怒鳴られたり。 

 

津波被害を受けていない地域に仮設の人が引っ越してきて、もともと住んでいた人と新しい人との間で不和が生じたり。

 

だけどストレスフルな環境で、みんな自分の家族を守るのに必死で、誰を責められる訳でもない。

 

 

そして子供のPTSD。 

当時2歳くらいだった小3の女の子は、今でも一日何回も、トラウマに襲われていろんなものが揺れて見えるんだって。2歳でもPTSDを引き起こしうるのだとびっくりしたけど、目の前で人々がパニックになっている姿や、ものすごい怖い気持ちをまだ言語の形にすることができなくて、それが心理的ショックになってしまったのかもねえ、って言ってた。 

 

 

こんなことを聞いたあと、私が今こうして復興庁を通じてインターンに来ている意味はなんだろう、とか、気仙沼や被災地域、もっと広げて言えば社会にとっての自分の価値、自分がいる意義ってどこに見出せばいいんだろうとか。社会にgoodなことをしたい、絶望的なニーズに応えられる人になりたい、とか、なんらかの突き動かされる想いはあるんだけど、果たしてそれをどこに着地させていこうか。そんなことを考えさせられる機会になっています。