浪江町(帰宅困難地域)の方に聞いたお話

 

・福島市内に、中古住宅を購入して妻と犬2匹と暮らしてる

・酪農家

・仕事を辞めたと同時に、原告団の活動をしている

 

 

原告団には共同代表が二人いて、その人が高齢だった。

自分がやらずに誰がやるかという感じで活動に加わった。

 

各地区、部落から世話人という感じで一部の人が活動している。

裁判なんてそれまで縁のないものだと思っていた。

まさか法廷で証人として意見陳列するとは。

 

 

福島の人の間では原発があったからこそ成り立っていたと認める面と、原発があったら危ないからダメという意見で半々になっている。

特に、双葉町は福島県のチベットと呼ばれるくらい、産業がなかった。出稼ぎするくらいしかお金を稼ぐ方法がなかった。そこに原発ができた。

作業員宿舎とかができて、そのおかげで地元にお金がおちていった。

一概に東電が悪いわけではなかった。

3・11が起こる前は、原発賛成派が多かった。直接、税金としてお金が浪江町に入っていたわけではなかったけど、周辺地域ということで産業活性化に貢献してくれていたという意識。

 

原発事故の映像をニュースで見たときは、夢か映画の映像かと思っていた。

現実味を帯びたのは、防護服を着た人や自衛隊の見たこともない車両がウロウロしているのを目にしたとき。

 

町に災害対策本部ができて、とりあえず西に避難しましょうということになった。

 

牧場に関して、3月中は毎日通って世話していたし、搾乳もしていた。

そのうち、農水省の方に搾乳を中止してくれと言われた。

線量検査に出して大丈夫だったので、牛はいろんな場所に買い取ってもらって殺さずに済んだ。

 

20km内の家畜は見殺し。ただ、電気もない中で世話をしに残った人もいた。発電しながら。

普段は泣くような人ではないけど、見殺しにしてしまったことを話すといまでも泣く牧場の主もいる。

 

若い人たちは避難後も仕事を見つけられているようだったが、そうでないと厳しそうだった。

それまでと違う組織で働くことになった年配の人は、上司に違うやり方を強要されることが苦痛そうだった。

 

避難先の親族の家で「あの人たちいつまでいるんだろうね〜」と言われる声を聞いて、居心地が悪かった。煙たがられる感じ。

いつまでもそう言われるのならいっそお金を親族に借りて中古住宅を買い、定住することにした。

元住んでいた土地は東電に買い取られて、東電は権利放棄している。

 

移る側の立場としては、地域住民のつながりを大切にしたいからまとまって移りたいと思ってる。ただ、町としてはそういう対策はしてくれなかった。仮設住宅の配置も、近くにしてくれとかは無理で、地域住民のつながりを重視したものではなかった。

 

その意味で、裁判を行うことが地域住民のつながる場を提供してくれる状態にもなってる。

 

法廷でふるさとを思ってサライを歌った。

被告側はひるんでいた様子だった。

 

 

 

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避難民の生活って、今まで想像もつかなかったな。