2022.11.1のyoutubeの結美大学その他多数の投稿で見た元寇の役の話は学校教科書と違う点を根拠資料で示していた。台風に助けられたのは2回目の襲来(弘安の役)だけだったようだ。資料とは元のフビライから来た手紙であり、要約すると、

1.当方はモンゴル帝国の皇帝である。

2.使いの者は我が属国の高麗の者

3.友好的に付き合いたいから使いに持たせた書状の返答を託すように。

の3点だが、文面は上から目線で書かれている。しかも使者を乗せて来たのはモンゴルと高麗の連合軍3万の軍船で、それが博多湾を埋め尽くすほどであったというから返事によってはただでは済まさぬという意図が見え見え。現に途中の壱岐、対馬では住民を虐殺している。対する日本側の鎌倉幕府は騎馬に乗る武士2000人とその家来の歩兵合わせてもわずか1万で迎え撃ったのだ。

 しかもこの時既にモンゴル軍は銃ではないが火薬を矢の先に付けて飛ばし、敵陣で爆発させるという日本にはない兵器を使用。爆発音で馬が驚き跳ねるので混乱させられ武器として大いに効果はあった模様だ。学校の教科書にはこれを「てつはう」とか言って記述してあったとの記憶から検索すると、教科書と同じ絵が見つかり爆発して馬が血を流している絵が表示された。

 

 火薬は日本にはまだなかったので大変な脅威だっただろうがよくこれと戦ったものと思う。

 結局鎌倉幕府はこの1回目の文永の役の使者3人を全員斬殺してもう後へは引けぬという決意を固めた。そして日本軍得意の夜襲で敵の軍船に穴をあけて火を点け沈めたとのこと。高麗がフビライに脅されて急造した船は粗製乱造でもろかったのが幸いしたのだとの説明を聞いた。

 こうして1回目の襲来には台風は吹いておらず、敗走する元軍が途中で強風に合ったのかもしれないとのこと。

 怒ったフビライはさらに2度目の使者を今度は14万の大軍と共に博多湾をびっしりと埋め尽くす勢いで迫って来た。しかしこの時は使者を1人だけ生かして返したと。その間に時間稼ぎして博多湾に石で防壁を築き、3万の鎌倉武士団で迎え撃つが運よく10月なので台風が来て軍船を沈めてしまった。これがいわゆる神風が吹いたとされたのだ。

 この時から日本は神に守られているという変な認識になったのかもしれないが、どっこい第2次大戦では神風の名をかたる特攻隊まで出しても神風は吹かず惨めに負けてしまった。いつも神が守ってくれるとは限らぬ、神に恥じない人事を尽くして天命を待つという基本を忘れてはいけないということだろう。2022.11.1投稿