終戦記念日が近づくとテレビでも戦争が話題になるが、まず近親者の体験談から始めると、昭和19年生まれの私は終戦までの1年足らずは戦争体験したといえるだろう。もちろん1才未満だから戦争という自覚はゼロだが、何といっても乏しい食糧事情のために母も乳が出ず私は雑魚をすりつぶした物を食べて飢えをしのいでいたと母から聞かされた。だから当時は痩せて目ばかりをぎょろぎょろさせて母に抱かれた生後10か月の写真が残っている。
祖母は私の手も足も細くて人に見られると恥ずかしいから着物で隠して抱いていた、この子は果たして育つかしらと心配だったと証言。そのため小学校低学年までは病弱で肋膜炎で熱にうなされて寝ていたのを覚えている。
小学校高学年になると父の戦争教育が始まった。その語録は、
1.陸軍招集:1939年から終戦直前の1944年夏ごろまで。1940年6月に満州陸軍に派遣され、母と共に4年ほど満州暮らしで、この間に身ごもったのがこの私だ。運よく終戦までに招集解除になり帰国。終戦まで満州にいたら私は残留孤児になっていたかも。(残留孤児とは中国大陸で終戦となり、日本へ逃げ帰る途中で子供が親からはぐれて中国人に育てられ大陸残留となった日本の子供。戦後何人かは帰国したが今でも残っているだろう)
2.父の戦争語録:ゼロ戦と酸素魚雷があるから戦争には負けないと思い対米戦に突入。(酸素魚雷とは推進スクリューが白い航跡を出さない秘密兵器。兵器が優秀なだけで勝てると本気で考えていたのが間違いの元。 軍事費、食糧、その他あらゆる資源で完全にアメリカの1/10の国力しかなかったのにねえ、戦争などできるはずがない)
3.あの戦争で日本は負けてない。本土でゲリラ戦をすれば勝てた。(父だけでなく陸軍のキチガイは皆本気でそう考えた。これじゃ負けるのは当然だ)
・だが本音は昭和天皇崩御の後の次の言葉「あの戦争は天皇の責任だったな」
4.祖母の体験談:大阪の布施市に住んでいたが空襲で近くの風呂屋に1トン爆弾が落ちたので、焼け跡を見に行ったら落ちた後には大きなすり鉢状の穴ができており、太ももの付け根からちぎれ飛んだ片脚が残骸の壁に張り付いていたとか、うつぶせに死んでいる人を引き起こして見ると舌が頭ほどの大きさに腫れあがっていたと悲惨な話をしてくれた。
また田んぼにいた時に米軍戦闘機が我が物顔に低空飛行するので癪に触ったから石を投げつけてやったらパイロットに見つかり機銃掃射されたので田んぼを逃げ回り、稲わらを積み上げた干し草の間に隠れたが銃弾が干し草を跳ね飛ばしたのでもう駄目だと思ったが戦闘機がそれきり飛び去ったので難を逃れたと話してくれた。
5.私より10才ほど年上のいとこの主人は終戦時には朝鮮のピョンヤンに住んでいたがそこからなんと徒歩で釜山まで逃げ無事に帰国できた運の強い人なのだ。途中は朝鮮人による襲撃を避けるため夜に行動するとか、とにかく大変な状況を良く生きて帰ったと思う。今でも当時の話の講演を近隣住民に頼まれてやっているとのこと。2021.8.13投稿8/14赤字追加8/15青字追加