img054ラバウル周辺地図私の父は死ぬ直前に「ラバウル航空隊の最後」という単行本を買ってましたが、それを読了しましたのでご紹介します。太平洋戦争における一大航空決戦の全容がわかり、陸海軍の血みどろの戦いが明らかになってます。総力をあげて攻撃してくる米軍を何度も跳ね除けることが出来

 

ていた重要な戦いであり、最後にはアメリカの物量と日本の人材枯渇で戦争に負けた歴史として正式に学校の歴史教育にも取り上げるべきです。なにが原因で300万人もの犠牲を払ってまで自ら望んだ戦争に負けたか?を徹底討論し、後世には悲劇を繰り返させない教育するためです

   この単行本の内容はこの本の著者の体験を書いたものであり、以下にその要約を1から8まで順次列記すると、
1.昭和17年11月、相模野海軍航空隊普通科整備術練習生を卒業し、第751海軍航空隊に入隊した。2.昭和19年11月頃にはラバウル飛行場で敵機の攻撃を受けながら陣地構築してる著者の元に、日本最大の空母信濃に配属された従弟が信濃と共に戦死したと通知が来た。
3.真珠湾攻撃、日本の1式陸攻によるイギリスの戦艦レパルス、プリンスオブウェールズ撃沈といずれも艦隊と艦隊の決戦ではなく航空機が艦艇を攻撃するのが新しい戦法になった。

 

著者が3に明記したように航空機が中心の戦争に変更したのが日本自身だったのに、その日本海軍が相も変わらず巨艦巨砲主義にこだわったのが大和、武蔵であり、当然米航空機の餌食にされてしまった。戦法の変更を自らあみだしたのにそれに対応できなかったのも敗戦理由と思います。

 img050発進するゼロラバウル周辺の島に米軍は1200機程度が基地におり、300機程度の戦闘機と爆撃機の連合編隊がラバウルに来襲する。これに対する日本軍は海軍からゼロ戦(零式艦上戦闘機)と単発複座の艦上攻撃機、陸軍からは一式陸攻という双発の陸上攻撃機がラバウルに展開していたようで、その勢力はこの本からは100機ないし多いときでも180機程度(第三艦隊空母からラバウルへ赴任した)を維持するのがやッとで、一度に迎撃に出る日本軍はどう見ても米軍よりはるかに少ない。

 

4.1機で敵機3機までは十分勝算があったとゼロ戦のエースが話していたとあります。対する米軍は240機を全滅させられても翌日はには300機になって報復に来る。

ラバウルはパプアニューギニアという独立国であり、これを日本が勝手に侵略して基地化したわけで、当初は現地人をうまく使役させたようですが、後半になると著者が言うように敵方に寝返る者が増え日本兵が襲われ行方不明になるので常に武装していたと。

だからいずれ日本が全滅するのだとわかったのに、降伏しないから結局原爆犠牲者を加えて300万人という対価を払ったのが先の大戦だったと思います。

 

5.こうしてソロモンの日本軍の間で言われたように大和魂では鉄を切れないということを思い知らされる悲壮な戦いになったと著者はいいます。

6.墜落した米軍機の残骸を見た著者の驚きは、機械を製造するときの考え方の根本的相違です。摩擦部分は鏡のように磨くが、摩擦しない部分は全く素材のままであること。ところが日本製は摩擦がなくしかも外部に見えない部分までピカピにしてしまう。
 つまり無駄な加工が多く、当然制作に時間、コストがかかる。これは私が定年まで勤めた会社でも、アメリカからの技術導入品では全く同じ思想で製造されていたから間違いありません。徹底した合理主義なのです。日本人思想との違いがここにあります。常に目的は何かを見逃さず、目的に合わない物は容赦なく切り捨てるというか、全く気にしない。

7.結局終戦時は陸海軍合計10万人がラバウルにいたが、昭和21年に生き残りの空母が引き上げ船となり、帰国できた。

8.南方で恐ろしいのはマラリアでこれにかかると40度の熱で消耗死する。2020.10.20投稿、同日改定21.11.29写真追加