2014年の毎日新聞Net記事によると、1944年10月25日が最初の特攻出撃で、特攻機の命中率は軍艦に対しては1/9、輸送船でも1/6とあります。これは敵艦上空まで行きつけずに撃墜されたり故障で墜落したものは含まれないでしょう。このような少ない戦果にもかかわらず特攻隊員の死亡者は4000人程度と書かれています。結局特攻で撃沈できた軍艦は0とされたとありますが、2019.11.25付け毎日新聞に日本初の特攻出撃者である関大尉(23才で敷島隊所属)が1945年レイテ沖海戦において空母セントローの飛行甲板に突入し撃沈したと報じています

 記事の出所はアメリカの調査チームが2019年5月にフィリピン海溝で無人探査船により水深4700mで沈んでいるのを11分の映像にしてフェイスブックに投稿し、最初の特攻だったと説明したものです。

 当時の日本は関大尉を軍神と讃えて特攻にのめり込んでいき、回天という人間が乗ったまま操縦して敵艦に体当たりする魚雷(これは真珠湾攻撃時からあった)、桜花という特攻専用のロケット機も作ったのです 

 (他に1945.7.29米駆逐艦キャラハンが特攻で沈没との情報もありますが)ほとんどの特攻では甲板上の構造物破壊と火災に留まり、沈没には至らなかったのです。

 

 以下に2014年の記事の中から後半の司令官遺族の出版内容部分を引用すると、
引用文・・・「父も自決すべきであった」

 陸軍特攻を総指揮した第6航空軍司令官、菅原道大(みちおお)中将は戦後38年生き永らえ、95歳の天寿をまっとうした。次男の童謡作曲家、故深堀道義氏は、それから18年、父の人生を考え詰め、自分も75歳の老年に達した2001年に本を書き、あえてこのような見解を世に表した。

 父の生前は問題を避けていたが、没後、特攻遺族から「お父さんを絶対に許せない」とののしられ、真剣に向き合うようになった。

 深堀氏の妻は「夫は義父を心から敬愛していました」と語る。遺族の怒りは無理もないが、戦後56年たっても尊父の戦争責任を総括しなければならないと決意した司令官の息子の苦渋もまた、いかばかりであっただろう。

 第6航空軍は特攻生還者を福岡市の振武(しんぶ)寮に隔離し、参謀が「なぜ死なない」と責め立てた。公刊戦史にも出ていない施設だが、戦後58年過ぎて記録作家、林えいだい氏(80)の執念の取材により、実態が明るみに出た。

 寮の管理者は、菅原中将の部下である倉沢清忠少佐。戦後は一橋大を卒業し、勤めた会社の社長に栄達して03年病没した。享年86。

 生還者の報復を恐れ、80歳まで実弾入り拳銃を持ち歩き、自宅には軍刀を隠し持っていた。それでも「特攻は志願だった」と言い張り、慰霊祭など特攻の顕彰に熱心だった。
引用終わり         14.10.25投稿 15.8.21字追加 2019.11.25斜体字追加