私の父は92歳で亡くなりましたが、その戦争体験を参考に記します。
 父は日立造船に入社後、戦艦大和のいかりを巻き上げる機械を設計しました。またアメリカがすでに当時持っていたブルドーザを飛行場建設に使用するため設計させられましたが、完成を待たず1939年に陸軍に召集され、水戸陸軍飛行学校の通信将校となりました。1940年6月満洲陸軍に派遣され母も同行したので、ここで母は私を身ごもったのですが、幸いにも私の生まれる1944年10月以前に帰国できました。もし終戦まで満洲にいたら私は残留孤児になっていたかもしれません。

父の戦争語録

・満洲で100式司令部偵察機に乗り偵察に出たが、故障か燃料切れで不時着、救助されるまでの野営中に夜、狼に囲まれたが、ガソリンを周囲に巻いて燃やし難を逃れた。

注:100式司偵(新司偵)とは双発の複座偵察機で、700km/h以上のスピードが出たので敵の戦闘機が追い付けない優秀なもの。ただし軽くするため武装はなく,装甲も薄いので見つかれば逃げる一手しかないところがいかにも日本的。(日本的とは搭乗員の命を守る武装、弾除けの装甲板よりも性能を重視、つまり人命軽視であり、日本軍の軍艦、戦車などあらゆる兵器、敵の捕虜虐待等に当てはまる。その最たるものが特攻

・父は暗号担当だったので、絶対解読できない暗号を考案したが採用されなかった。これは現在一般に使用される周波数を変調させる無線(FM)を使う方法と聞いた

・ゼロ戦という世界1の戦闘機と酸素魚雷があるから日本は勝てると思って戦争を始めた。

注:ゼロ戦は有名ですが最大時速550km/h程度で、口径20mmの機関砲2門と12.7mmの機銃2門を装備し宙返り等の運動性にすぐれ、出現当時は無敵を誇った海軍の戦闘機で当然空母から発進可能。 また酸素魚雷とは日本独特の技術で、魚雷推進スクリューの発生する泡が航跡として白い筋状に見えないので敵は回避しにくいとのこと

・アメリカが日本に石油を輸出しなくなり、これでは日本は真綿で首を絞められたのと同じだから戦争に踏み切った。

・あの戦争で日本は負けてはいない。(昭和50年~60年の高度成長期に日本の造船業がアメリカを抜き世界1の生産量となると、こんな負け惜しみもいってた)

・本土でのゲリラ戦なら日本は絶対に負けないから、アメリカはそれを避けるために早期に降伏させようと原爆を使用した。

 

とまあこんな具合で、負けん気の強い父の性格むき出しで責任を回避しようとしてましたが、負けた事実は素直に認め、これを教訓に同じ過ちを避ける姿勢がないのは父だけではないのはご承知の通りです。でもたった1つだけ反省めいた言葉は、日本は戦術は強かったが戦略が下手だといったこと。戦術は右翼を攻められたら敵の左翼を攻めるような目の前の対応で、戦略とは食料、国民の士気なども計略の対象にするような長期にわたる作戦で、あの戦争を始める前に戦争の終結方法を考えなかったのが戦略無視の最たるもの。       13.8.20下線部改定  18.10.23赤字改定