桑名日記の著者、渡部平太夫が住んでいた矢田河原八幡瀬古庚申堂北については、以前「桑名日記 渡部平太夫」に書きました。
今回は、平太夫、勝之助親子の実家、新地の片山家についてです。

 

平太夫は片山家から渡部家へ養子に出て家督を継ぎました。
平太夫には複数の女の子があったものの男の子には恵まれず
自分の実家から甥にあたる勝之助を跡継ぎとして迎えました。

平太夫の兄の長男が均平で、片山家の惣領として新地に住んでいました。
性格は短気で、もっぱらの酒飲みです。

 

 

「新地」は、宝永7年(1710年)奥平松平家 松平忠雅が桑名藩への移封に伴い、藩士が増えたことにより、正徳年間(1711~1716年)に足軽屋敷として開発された地です。

(平太夫たちは文政6年(1823年) 白河より移封となった久松松平家 松平定永に伴ない桑名に移り住みました。)
「新福橋」は新地と福江町の間を流れる「町屋御用水」に架けられた橋です。

 

          <新福橋>

 

絵図で赤枠で囲った家は「片山久兵衛」となっていますが
桑名市博物館発行の「桑名城下切絵図」に、

・片山久兵衛(大筒役 7石2人扶持)分限帳では「片山均平」か
と書かれています。

新地には他に片山姓はありません。

 

     <文政8年(1825年)桑名街之図>

 

天保13年(1842年)11月22日の桑名日記に新地の均平宅付近で火事があり、火元は、均平宅の向かい左3件隣の「廣沢米八」宅(住宅図では廣沢精吉)で、均平宅は大丈夫でしたが、他に何軒か類焼したことが記されています。

 

また新地では、その前年の天保12年6月3日に大きな火災がありました。その様子が桑名日記にあります。

 

「・・・北の丁で残ったのハ 入沢新六瓦屋根故也。 北の中の丁で残ったのハ、石井専蔵より永橋迄三軒不焼。夫より下もで瓦屋根三軒残る。蓮池浅右ヱ門小林照右ヱ門須藤領八也。其外本間祖右ヱ門の本正左ヱ門須藤増兵ヱ迄ぐつすり焼て仕舞ふ。南中の丁ハ壱軒も類焼なし。大暑ニてかわきつよく、其上風も餘程有たで、わづかの内ニ御長屋とも五十かまどのよ。ぺろぺろやけてしまふ。まことにきのどくな方あわれむじやうの事どもなり。・・・」

 

この時は、均平宅も被災し焼きだされています。

 

平太夫が住んでいた現在の千代田町は、当時とは区画が全く変わってしまい、平太夫宅がどこだったのかはっきりしませんが、新地は、当時と水路、道路などの位置が変わってないので均平宅などの場所は特定が容易です。